目覚めよと呼ぶ声あり
なにもかもが黒い。
天井も壁も床も、視界に入るすべてが。
温もりを感じない薄明かりから窺える部屋は、まるでツヤツヤ光る黒曜石を切り出したよう。
調度品など何もない、巨大な空間が寒々しく広がるだけの部屋……
一番奥に目を遣ると、そこに黒い壇があり、そして巨大な黒い玉座があった。
玉座には、奇妙なモノが座っている。
人の形を象ってはいたけれども……
これは、もはや人ではない。
漆黒い……
吸い込まれるかのように、足元から威圧的な巨体を見上げた。
これは……禍々しき邪悪な異形だ。
ゾクッとした……
これが、只、此処に居る……
それだけで、背筋に冷たいものが流れる。
これは……
存在してはいけないモノだ。
光の加護を受ける者として……滅ぼさねばならない『魔王』なのだ。
気配を感じて振り向くと、玉座に相対して、黒髪の若者が立っていた。
その見目から、何者なのかは、すぐにわかる。
彼は、『勇者』だ。
銀のサークレットに、マントに、片手剣。これが勇者でなくて何なのか、と言わんばかりの装備に身を包んでいる。
しかも……派手。
腰に佩いた剣は、柄も鞘も宝石や模様で彩られてピカピカだ。儀礼用の剣みたい。
両胸にブローチ、腰のベルトに黄色い宝石飾り……左右の腕には、赤布と白布をそれぞれ巻いている。
おそらく、能力向上用の魔法装備なんだろう。
でも……はっきり言って、似合ってない。
豪華な装備なのに、勇者本人の雰囲気が、全く噛み合っていない。
ごく普通の……地味というか、印象に残らないというか。
そこらの兄ちゃんみたいで、勇者ならではの『華』を感じない。実直そうな、人柄の良さそうな、普通の人。
まあ、アタシも他人のこと言えないけど……
彼の背後には、人が居る……っぽい。
靄がかかってるみたいにぼんやりして、目を凝らしてもよく見えない。でも、一人や二人じゃない。かなりの人数が固唾を呑んで、勇者と魔王の対決を見守っているのが、感じられる。
きっと、勇者を支える仲間達なんだ……。
勇者は、魔王を見上げている。
闘争心も気負いも恐れもない。
顔も態度も、はきはきしてない。
決戦に臨む勇者にしては、拍子抜けなほど気迫がない。
けれども、彼は『勇者』なのだ。
何らかの理由で『彼こそ勇者だ』と、神様がお決めになったのだ。魔王を滅ぼせる力があるのだ。
この世界には常に勇者が居る。勇者が使命を果たした時点で、次の勇者候補が必ず現れる。
それは、その日に産まれた赤ん坊だったり、最も資質の高い人が『勇者』に変身したり、はたまた、異世界から勇者に任じられて召喚される人だったり、とケースバイケースなんだけど。
その勇者候補は『賢者』によって必ず見出され、山奥の館で導かれ、育てられる。俗世と交わることを禁じられ、ひたすら修行を積む。己の使命の時を迎えるまで。
なぜならば、アタシの世界には……
魔王が現れ続けるから。
勇者が十五才を過ぎてから老衰で死ぬまでの間に、魔王が現れる。たった一度の例外もない、この世界の厳然たる宿命なのだ。
そして、歴代の勇者たちもまた、一度の例外もなく、必ず魔王を葬ってきた。
勇者達が記してきた『勇者の書』に、魔王そのものの描写は、無い。
けれど、この世界に生きる人々は、皆、魔王の凄さを知っている。勇者が魔王を討伐する数多の物語は、子供の頃に聞く寝物語の定番だから。
どいつも怪力無双で、睨むだけで人間を殺したり動物に変えちゃったり。眼から怪光線放つとか、口から火を吹くとか、歩くだけで地震を起こしちゃうとか……
とにかく、むちゃくちゃな奴等ばかりなのだ。
邪悪な魔王を野放しにしたら、世界はメチャクチャになってしまう。
魔王からこの世を守る為に、賢者に導かれ、勇者は戦うのだ。
黒髪の勇者が、口元に弱々しい笑みを浮かべる。
せつなそうに微笑みながら、彼は口を開き、言う。
世界を滅ぼそうとする魔王に向けて、世界を守るべき勇者が呟くとは、とうてい思えない台詞を。
「おまえも死にたくないだろうな……」
魔王を見つめる瞳は優しい感情に満ちていて……
いたわりすら感じられた。
そんな馬鹿な、とアタシは思う。
そいつを倒さないと、世界が滅びるのよ?
宿敵を倒すことが、勇者の使命でしょう?
どうして……そんなやるせない顔を……?
まさか、魔王に同情してるの……?
戸惑うアタシの前で、時が急速に流れる。
穏やかに微笑んでいた勇者。
ぼや〜っとしてた顔が、変わる。
親しい友と接していたかのような笑みを捨てたのだ。
眉間にシワを寄せ、真剣な眼差しで対峙しているモノを、まっすぐに見つめ……
叫んだのだ。
雄々しく……
「カネコ!」、と。
その平凡な顔が、やけに格好よく見え……
アタシの胸は、ほんのほんのほ〜んのちょっとだけど、キュンとした。
勇者が宿敵を目指し、走り出す。
彼の腰の魔法剣が美しく煌めき……
そして……
「ンヌ…… ジャンヌ」
澄んだ声が、アタシの名前を呼ぶ。
「寝るな、風邪を引くぞ」
感情のこもっていない、平坦な声がアタシを呼び続ける。
静かに肩を揺すられる。
「……お師匠様」
うっすらと瞼を開く。
ああ……
夢を見ていたんだ、と気づいた。
魔王を倒す、勇者の夢を……。
あれは……夢だったのか。
たしかに、あんな勇者、アタシは知らない。
百人の勇者たちの中には居なかったもん、魔王『カネコ』と対戦した勇者なんて……。
まだ夢心地なアタシの目に、さらっさらの白銀の髪と、透き通るような白い肌が映る。
氷像のように美しい人が、切れ長のスミレ色の瞳で、アタシをジッと見つめている……
やばッ。
慌てて起き上った。
机につっぷして寝てたのか、アタシ。
慌てて口元をぬぐった。ヨダレは、あんま垂れてない……
いや!
違う!
しまったぁぁ!
ノートがぁぁ。
「興味を持てなかろうが、学べ。治癒魔法を使えぬおまえには必須の学問だ」
アタシの重みでよれた頁を直し、お師匠様が『薬学』の本を机に戻す。
開きっぱなしの窓の外から聴こえる小鳥のさえずりが、穏やかな陽気を更に助長させている。
目をあげて、お師匠様を凝っと見た。
お師匠様は、どんな時にも感情を表に出さない。いつも、ほぼ無表情。
でも、十年間いっしょに暮らしてきたアタシには、表情の微妙な違いを読みとれる。
この顔は……怒ってない……
怒っていないと思う……
たぶん、きっと、おそらく……
……ですよね?
「座学が苦手なのはわかっている。だが、」
お師匠様の口元が微かにほころんだ……ような気がした。
ドキンとした。
お師匠様は、ほんっと美男子なのだ。
見慣れてるのに、時々、胸の奥がキュンキュンしちゃう……
知的で神秘的で……賢者専用の白銀のローブがしっくりする。腰までの白銀の髪も美しい……クールビューティ? そんな感じ。
「おまえは、魔王を倒し、私の跡を継いで賢者となるのだ。魔王討伐の旅で、『薬学』は必ず役に立つ。私を信じ、少しづつでもいい。覚えてゆくのだ」
「はい、お師匠様」
頑張ります、とアタシは『薬学』の書を開いた。居眠りしないように、ほっぺたをつねりながら。
今は賢者となって勇者を導く役に就いているけれども……
昔、お師匠様は九十六代目勇者だった。
百年ぐらい前に魔王を倒した、五代前の先輩なのだ。
魔王を倒した勇者は、この世界に留まって不老不死の賢者となるか、よその世界に転移して只人の生涯を送るかを、選択する。
アタシはお師匠様の跡を継ぐつもりだ。よその世界へなんか行きたくないから。
でも……
お師匠様には内緒だけど、実は賢者になるのもほんのちょっと気が進まなかったりする。
若いうちなら、いいわ。
だけど、六十を過ぎてから魔王を倒した勇者も居るから……
おばあちゃんになってから不老不死になるのは……やっぱり嬉しくない。
それに……
賢者は永遠の存在じゃなくって、この世界の理で任命される、只一人だけ存在できる職業。
以降の勇者が使命を果たし、賢者となる事を望めば、その勇者を導いてきた賢者は不老不死を解かれ、一般人に戻るのだ。
お師匠様が美形をずっと保ったままなのは、若くして賢者になったからなんだけど……
アタシが賢者になったら、その日から不老不死じゃなくなっちゃうわけで……なんか、ちょっと切ない。
いっしょに賢者になれれば良かったのにな……
そしたら、ずっといっしょに賢者の館で暮らせるのに……
ほわっとあたたかな光が部屋に広がった……ような気がした。
「……ん」
表情を変えることなく、お師匠様が額に手をあてうつむく。
「お師匠様?」
書きもの机から顔をあげたアタシ。
頭痛を堪えるかのような仕草のお師匠様と、視線が合う。
すると、その顔が……
豹変した。
アタシを見つめて、お師匠様が微笑む。
にっこりと! にこやかに! 明るく! 無邪気に! はじけるスマイルで!
一瞬、のけぞってしまった。
にこにこ笑顔のお師匠様が、アタシに向かって大きく両手を振る。
《やっほー ジャンヌちゃん、お久しぶり〜 今日はいい知らせを持って来てあげたぞぉ〜》
パンパカパーン!
勉強部屋にファンファーレが鳴り響いた。
《おめでと〜 ジャンヌちゃん! ついに出番だぞ〜★ 百一代目勇者ジャンヌちゃんの誕生だ、おっけぇ?》
お師匠様は満面の笑顔だ。
そんなに笑って大丈夫? 後で頬が痛くならない? ってこっちが心配になっちゃうぐらい。相好を崩し、語りかけてくる。
まるで別人のような顔で。
てか、別人なのだ。
今、お師匠様は中身が違う。
賢者であるお師匠に、今……
この世界で一番、尊い存在が降りて来ているのだ。
毎回、驚かされるのよね。前触れもなく、ストーンと憑依してお師匠様の体をのっとっちゃうから。
《むぅぅ。反応うすいぞ、ジャンヌちゃん。やり直し》
パンパカパーン!
部屋に、再びファンファーレが鳴り響いた。こりゃ、たぶん魔法だな。効果音の魔法?
《おめでと〜 ジャンヌちゃん! 百一代目魔王が現れた! 今日でキミは見習いを卒業、本物の百一代目勇者に昇進だ、おっけぇ?》
魔王が現れた?
「おめでたいんですか、それ?」
思わず、突っ込んでしまった。
《おめでたいでしょ? 十六歳で本番なんだから》
お師匠様に憑依した御方が、ニヤリと笑う。お師匠様本人なら、絶対に浮かべない意地の悪そうな表情で。
《おばあちゃんになる前に、魔王が現れて良かったね〜》
う。
見透かされてるし。
さすが神様。
お師匠様に憑いた神様は、ひたすら明るくにこやかだ。
『今日はいい天気だね〜 ピクニックに行きたいな〜』みたいな脳天気な口調で『人類の敵が現れたのだ』と、百一代目勇者に昇進したらしいアタシに告げに来たのだ。
《ついさっき、キミの宿敵となる魔王が現れた。名前は『カネコ アキノリ』》
え?
『カネコ』……?
あれ?
その名前の魔王……さっき夢で……
あれぇぇ?