8、真夜中の磁場集中点
イヴェイション・モーター。直訳すれば、脱出機なるその装置は沙優奈曰く、いうなれば移動装置ということらしい。自分が脳内にイメージした場所に飛ぶことができるというもの。脳内に移動先のイメージを作り出し、装置を起動するための条件音声「イヴェイション」を発音することで、対象の肉体を一度情報体として管理し、別の空間に発生するという形で移動することが可能だということだ。ちなみに、僕が装置なしで移動することができたのは、沙優奈があらかじめ僕のイメージと音声を自身のイヴェイション・モーターにフィードバックしたからという説明に、僕は頷くしかなかった。
「沙優奈」
僕は、沙優奈を自分からゆっくりと離すと、彼女のベッドに腰掛けさせ、その名を呼んだ。
「僕は、君を信じきれない。でも、ある程度は、信頼させてほしい」
「瑠堕……君……」
僕の目も、沙優奈の目もまだ赤くなっていた。
「君の言葉が、君の涙が、嘘じゃないって、演技じゃないって、僕に信じさせてくれ」
僕の目は赤い。だが、もう涙は流れていなかった。
「……はいっ!」
僕の声に、沙優奈は勢いのある返事を返し、立ち上がった。セキュリティロックの掛けられた物置を開き、そこから一つの装置を取り出し、僕の前に差し出した。
「これが、瑠堕君のイヴェイション・モーター。大事に使ってね……!」
「ありがとう。またいつか会おう」
僕は沙優奈の差し出したイヴェイション・モーターを受け止めると、少しだけ笑って見せた。そして、脳内に自分の部屋をイメージし、条件音声を発した。
「イヴェイション」
僕の体は、沙優奈の視界から消え、沙優奈の体もまた、僕の視界から消えた。
僕が自分の部屋についてから数分後。まるで計ったように母からの内線通知が掛かってきた。
『瑠堕。夕飯できたよ。よかったらお友達も一緒に――』
「もう帰ったよ。気づかなかった?」
『え、そうなの? 折角作ったのに』
母が残念そうに言うのを僕は苦笑いも交えながらに切った。そして、机の上におかれた手鏡に目線をやる。鏡の中の僕の両目は、すでにいつもと同じ色に落ち着いていた。
その日の夜、家族が寝静まったころを見計らって家を出た。別に夜遊びしようとか、家でしようとか言うわけではない。僕がこんな時間にわざわざ外出したのは、あることを特定するために過ぎない。僕は周囲に誰もいないのを確認して、歩きながらイヴェイション・モーターを発動させる。僕の発した声が認識されて、瞬く間に磁場集中点付近まで飛ぶ。
すでに道を照らすのは街灯と空の光源のみとなり、月は高くまで登っている。立ち並ぶ住宅のほとんどはすでにその明かりを消し、明日の学校や仕事に向けて休息を取っている者がほとんどだ。
僕はいつもと違う風景に興奮を覚えた。いつもと違う同じ道、というものはここまで心躍るものなのだというのを感じられて、素直に嬉しくなった。だが、逆に考えれば、この時間、普通は外出したりしない。ましてや僕は、見た目どおりに、まだ学生の域を出ない存在だ。警察等に見つかれば、良くて補導、悪ければ深夜徘徊で警察署行きだ。
「今日はもう引き上げてればいいけど……」
僕は足音を立てないように慎重に進む。細心の注意を払って進む僕の進路には、拒むものなど何一つ存在しない。
僕は昼間、磁場集中点のあった場所を覗き見た。引き寄せられたものこそそのままにされているが、人影はなかった。
「いけるか……?」
僕は今来た道に誰かいないかどうかを確認する。そして、磁場集中点に向かって走り出す。速く、それでいて誰にも気づかれることのない足音で。僕は更に加速する。やがて、僕の進路を磁場集中点に引き寄せられた建物やブロック塀が塞ぐ。さすがにこれほどまでの時間まで作業していたのなら、恐らく被害にあった人達も無事に救助されているはずだ。僕は僅かな隙間を見つけてそこに潜り込んでいく。潜り込んでからは僅かな隙間を次々に見つけて入っていく。体が何かにぶつかる度、脆くなった家から砂埃や細かい瓦礫が降り注いでくる。僕は目を閉じて口を閉めるのを同時に行ってそれらを凌ぎ、さらに奥地へと進んでいく。ここまで来ると、光源はないに等しい。家々の隙間から月明かりが覗く、などということもない。それほどまでに狭く、閉ざされた空間だったのだ。
「っ……!」
当てもなく進み続けた先で僕は頭痛に苛まれた。見れば、そこにはひときわ多くの瓦礫が纏まっている。僕はそれらの瓦礫を両手それぞれで払いながら、僕自身の頭痛を頼りに、その場所が磁場集中点であることを確認する。そして、懐からマーカーを取り出し、それを地面に突き立てる。そして、僕はコントローラを取り出す。
それは、想雫から受け取ったコントローラ。僕はその電源を入れると、マーカーとの接続作業を開始する。瞬く間にマーカーとの接続が完了し、マーカーの起動準備に移る。この辺りは、コントローラのシステムに任せっきりなところがあるので、仕方がない。ほどなくして、コントローラに取り付けられたモニターには「起動準備完了」の文字が映る。僕は狭いこの場所で、寝そべったままに一つ息を吐く。そして、タッチパネル式のモニターに表示された「START」の文字へと指を向かわせる。
「マテリア……君の言葉を、信じさせてもらう!」
そして僕は、コントローラのボタンを押す。コントローラからの指示を受けて、マーカーはうねりを上げて地面へと突き刺さっていく。僅かな回転を加えながらコンクリートを削っていき、徐々に突き刺さっていく。それはまるでインパクトドライバーでネジを打ちこむのに似ていた。それとは作業の状況も全く異なるものではあったが。
やがて、コントローラから「ピピッ」という機械的音声と共に、地面へと潜り込んでいたマーカーの動きが完全に止まった。そして、マーカーの頭の部分が小さな赤い光を明滅させ、情報の転送を開始する。この明滅が終われば、情報の転送は終わり、不可能かと思っていた磁場集中点の座標特定の作業は完了したということになる。
だが、物事は何であっても何の障害もなく進むというわけではない。今回もまた、その例外に漏れない。
「おい、誰かいるのか?」
瓦礫の外から、耳障りの良い青年の声が響く。僕は、その声に聞き覚えがあった。今日の昼間、磁場集中点の偵察に訪れた時に、僕に帰るように言ってきた警官の声だ。まだ完全に引き上げてなかったらしい。恐らく、僕が来たその時は、偶々席を外していた、ということだろう。僕は今までの幸運と今の不運を呪った。マーカーの明滅はまだ終わらない。足音は少しずつ近づいてくる。さすがにこの瓦礫の中にすぐに足を踏み入れるなどということはないだろうが、ここで僕が何かしらの声や音を上げれば、必ず中まで踏み込んでくるに違いない。僕の持つ彼の人物像からすれば、彼は間違いなくその方向性で動くだろう。自分の命を顧みず、不安要素を払拭しようと。
「いるなら返事してくださーい」
僕はただ息を潜め、視聴嗅味触覚のどれにも捉えられぬように息を潜める。意識そのものを周りの状況に同化させていき、自分自身をこの風景の一部という情報体になる。実際に体がそうなるわけではない。ただ単に同化するだけだ。しかしそれは違和感を無くすという観点から見れば、恐らくは最善策だ。
やがて、警官は僕の存在を見つけることができなかったのか、ゆっくりと遠のいていく。足音が少しずつ小さくなっていく。そして、瓦礫から離れ始めてから数秒後、マーカーの明滅が止んだ。それは、任務完了を示す合図。
「これで……」
これで? これから僕はどうする?
今、元来た道を戻れば、間違いなく警官に見つかってしまう。昼間に数秒とはいえ、顔を合わせてしまっているのならばなおさらそんな事態はさけたい。だが、このまま直進して、逆方面には警官がいないなどという保証はない。最終手段として、イヴェイション・モーターを使う手が挙げられるが、ここは磁場集中点だ。この世界において特異な場所である磁場集中点で、情報体として干渉することは、あまりにリスクが大きい。使うならせめて、十二分な距離を取った場所で行わなければならない。
だから、僕が採れる行動は一つしか存在しなかった。
僕はマーカーに体が触れないようにしながら、磁場集中点を通り過ぎる形で前進を再開する。辺りは相変わらず暗闇に近いもので、車も人も何もない、といっても遜色ないほどに静まり返っている。ただ聞こえるのは、時々欠け落ちる瓦礫の音と、僕が進む度に擦れた音を立てる靴音、そして僕自身の息遣いだけだった。
進んだ先に警官がいるかどうかは分からない。だが今は、警官がいないことに賭けるしかない。顔の知られている警官を説得するよりも、見知らぬ顔の警官から逃げた方が、帰れる可能性が高いと判断したからだ。そして、終わりない瓦礫の山に、終わりが告げられる。
瓦礫の隙間から、外の様子が見える。見たところ、誰かがいる様子はない。こちら側からは、誰かが近づいてくるという警戒の色合いが見られない。わざわざ警戒しないだけなら、よっぽど不用心だ(ここを用心してもさほどの意味はないように思えるが)。せいぜい昼間に子供が近づかないように、程度にしか思っていないのだろうか。
僕は何事もなかったように瓦礫から抜け出した。最後、体を抜け出す時に多少の音は出てしまったが、恐らく向こうまで響く音ではなかっただろう。
出てきた先には、確認した通り、誰の姿もなかった。僕は抜け出したころには大きく息を荒げていた。少なくとも健康に良い場所に居たわけではないのだ。抜け出した直後の空気がこんなに新鮮なmのだと感じられる、その感慨に浸ったところで、誰も咎めたりはしないだろう。
「はぁ……はぁ……」
少しずつ、荒くなっていた息を整えていく。忘れていた自分の感覚を取り戻すように、深呼吸を何度か繰り返し行う。肺の中に溜まった淀んだ空気を吐き出し、代わりの空気を目一杯吸い込む。しだいに肺から始まって体全体が浄化されたような感覚に包まれる。僕は目を開き、一度瓦礫の山に視線をちらりと送ると、すぐに走り出した。細い路地へと入り、なるべく人目につかないような場所を選りすぐって進んでいく。僕自身でもよく分からなかったかが、イヴェイション・モーターを使う気にはなれなかった。短時間だったとはいえ、あんな狭いところに居たせいなのか、今こうして新鮮な空気に触れられることができるのが幸せなような気がしていたのだ。
僕の誰の目にも留められない。誰かの目を認識することもなかった。世界が僕一人だけのような、そんな感覚がした。頭では、ちゃんと人がいることは分かっている。だが、誰一人として活動を一時的に中断し、僕だけが走り回れる、自由な世界。僕の覚えた感覚はそれだった。それ自体は、嫌いではなく、むしろ好きなくらいだった。だから、僕はこの状況に少なからず興奮を覚えながら走り続けていた。
走りながら、僕は今日一日のことを思い出していた。
朝、マテリアから磁場集中点座標特定マーカーのコントローラを渡された。その前日に僕から奪っていったにも関わらず、彼女は不可解ともいえるほどすぐに返してくれたのだ。学校についた後、僕を――或いは僕達を――襲ったのは、磁場集中点の暴走による激しい地震だった。僕はその時、自分が恐怖という感情に囚われたことを自覚した。今まで、脱出したいという渇望はあっても、単純に死を恐れた恐怖を、僕は感じたことがなかったのだ。
そして、放課後。マテリアが朝、僕にコントローラを返してくれた、その理由の一端を見る事となった。再会した想雫と、マテリアとの関係が、ただの初対面の相手ではなくなっていた。ひょっとしたら、想雫の方は本当に初対面だったのかもしれないが、少なくとも僕を目的として今日近づいた、というのがマテリアの――マスターの――見解だろう。想雫が渡してくれたコントローラが本物であるとし、マテリアが僕に渡したコントローラは偽物であることを間接的に自白したのだ。そして、彼女達の会話の中から漏れ出た、「イヴェイション・クレ」の存在。恐らく、途中で雨三野の介入がなければ、マテリアは「イヴェイション・クレ」のことを僕に包み隠さず話したことだろう。
そして、三波沙優奈との出会い。彼女の言葉を、涙を、僕は信じてみることにした。それだ正しい選択なのかは分からない。でも、何も信じなければ、僕は前には絶対に進めない。僕は、そう思った。
「明日中に、プログラムも完成させないとな……」
僕はそう呟く。走る足は止まらない。
月は未だに、高く、高く昇っている。