7、来訪少女
部屋が僕にとって暗いなと気づいたころには、すでにパソコンに表示された時刻は午後七時を回ろうとしていた。部屋の電気をつけるためにゆっくりと立ち上がり、両腕を高くまで挙げ、伸ばす。若干の立ちくらみを覚えてたが、すぐに動けるくらいには、回復は早かった。
部屋の電気をつけると同時に、目が想定以上の光に反応し、僕の瞼を反射的に閉じさせられる。光源から目を背け、少しずつ光に目を慣らす。光に目が慣れたころには、僕はカーテンを閉め切り、再びパソコンの前にどっかりと腰を下ろしてキーボードを叩き始めていた。時にその指を止めて、更に直せる箇所がないかを確認する。もっと精密に、もっと複雑に。僕にとってプログラムを作るということは、そんなことの繰り返しだ。本来なら、もっと分かりやすく、誰かに提示したときに理解してもらいやすいようなプログラムを作ろうとするだろう。だが、僕が扱うのはセキュリティ問題にも関わることだ。本来行うことができる処理にたどり着くまでに何重にもなるセキュリティ解除コード入力を行う処理を入れている。このプログラムの網をかいくぐって本丸にたどり着くのにはかなりの時間が必要になる。
階下で誰かの声が聞こえた。聞こえる声は二つ。一つはこの世界における母の声。もう一つは聞いたことのない声だった。
(まぁ、うちの親に用があるんだろうな……)
僕にとってはこの部屋に入ってこない限りは、階下の出来事などあまり関係ないことだ。せいぜい家族でするネタの一つにでも取り上げる程度で終わることだろう。僕はすでに母らの会話を頭の片隅へと追いやった状態のままにキーボードを叩く。時々起こるタイプミスもすぐに目ざとく発見し、修正する。
そこで僕は、部屋の外の異変に気付いた。階段を上ってくる音。しかも、かなりのハイペース。家族の寝室は全て二階に備えられているが、まだ誰かが眠るような時間ではない。夕飯の時間にしても、両親が自分を呼ぶためにわざわざ部屋に上がりこんで呼んだりはしない。用があれば、専用の内線通知を使うはずだ。それに両親はここまで早いペースで階段を上ってこない。慌ててるにしても、ペースが安定しているのも、そう思わせる要因の一つだった。僕はすぐにプログラムをワンクリックで保存し、それに関するものを全て閉じると、ネットに接続し、電子書籍のサイトへと飛ぶ。左手で頬付を付き、右手でマウスを握り、トップページに表示された「本日のおすすめ書籍」の項目をクリックする。そのページをある程度スクロールするのと、僕の部屋のドアがノックなしに無断でこじ開けられたのは、ほぼ同時だった。
「やぁやぁどうもこんばんはー!!」
予想以上のテンションで入ってきたその人物に僕は驚かざるを得なかった。僕は座っていた椅子ごと数十センチ後ずさった。椅子がガタガタと音を立てたが、そんなことを気にしているほどに僕の心に余裕はなかった。
入ってきたのは、僕とはさほど年齢の差がないと思われる少女だった。身長はこの年齢層の少女にしては高い。上に来ているTシャツには「I LOVE LOVE」の文字が刻まれている。直訳なら「愛を愛す」ということになるのだが、僕にはそれを深くまで考える余裕も理由もなく、ただその少女の姿を見つめるだけの格好となってしまっていた。
「あ、あの……あなたは……?」
「一応君のお友達ってことで上がらせてもらってるけど?」
僕は目の前の少女のことを全く知らなかった。だから、いきなり部屋に上がりこんでこられても、正直困るのだ。僕は溜息一つ吐いて一度、諦めるという選択を取った。
「まぁ……いいか、とりあえずその辺に座って」
「はーい」
言うなり少女は僕のベッドに腰を下ろした。僕は彼女が開けっ放しにしたドアを閉め、自分は先ほどまで座っていた椅子に座った。少女はにこやかな笑顔のままに僕が座るのを待っていたが、僕が座ったのを確認するや否や立ち上がり、同時にその笑みを作り続けていた口を開いた。
「初めまして。三波沙優奈です。よろしくね、瑠堕君!」
沙優奈はそう言って手を差し出す。僕がそれを立ち上がりながら握ると、同時に引き寄せられる。体のバランスが崩れる。その僕の体を、沙優奈が包み込むように抱く。沙優奈の体は僕の体と密着し、両手は後ろにしっかりと回されている。僕の胸には柔らかな感触が感じられる。
「ちょ……」
僕は雑念を振り払ってすぐに元の状態に戻ろうと声を上げたが、沙優奈の小さな言葉がそれを遮った。
「しっ」
「えっ?」
僕はそれ以上何も言う事ができずに、体を硬直させてしまった。沙優奈の体温が直に伝わってくる。耳は彼女の息遣いが聞こえるほどの位置にまで接近していた。
その耳元で、少女は囁いた。
「イヴェイション」
ただ、その一言を。
少女――沙優奈が部屋に上がりこんできてから、約五分が経ったころ。僕は見知らぬ建物らしき中に一人ポツンと座っていた。周りには壁や床、天井はある。その全てが白一色に塗装されており、天井についている明かりが、かろうじて僕を、ここが壁のある空間だと認識させてくれていた。少なくとも、異次元に来たような錯覚だけは起こさせなかっただけ、僕は恵まれた場所にいるだろう。
部屋そのものは広めの作りだった。天井はせいぜい四、五メートル程度の高さだったが、それを除けば、バスケ程度ならフルコートでできるほどの広さが確保されていた。
だが、僕が気になったことは、ここにはドアも窓も存在していないということだ。僕を閉じ込めるにしても、何かしらの通路とつながる場所がなければ連れてくることができないはずなのだ。別の観点から考えれば、この部屋には空気を入れ替えるためのものもない。こういう密室でよく脱出口として利用される通気口や、空調機等の設備も存在しない。
まるで、世界から隔離されたような場所だった。
「ここは……僕は何で……?」
辺りを見回したところでその答えが出るはずもない。僕は取り敢えず立ち上がって、状況を確認することにした。まずは壁まで歩き、壁そのものの感触を確かめる。何の変哲もない、ただのコンクリート壁。僕は壁を伝うようにして歩き出す。壁を伝っていけば、先ほどは見つけられなかったドアを見つけることができるかもしれないと踏んだからだ。
だが、元の場所まで一周してきても、何か変わったものはなかった。ここにはドアや窓といった外部と通じる物が一切存在していない。僕はここに物理的法則で来たわけではないのだろうか。
「さっきの……」
僕はそこで、先ほどの会話の流れを思い出した。沙優奈が僕の耳元で囁いた直後、僕の視界は真っ白に塗りつぶされ、直後に真っ黒な世界に閉ざされた。何もかもが消え去ってしまったような錯覚に陥り、パニックを起こしたように感じたが、そうなる前に、僕の意識の半分は閉ざされた。しばらく真っ暗な世界にいたような気がしていたが、そのうち、僕の視界は一面の白、すなわち今の部屋の色が占めていたというわけだ。その瞬間には、僕が明かりをつけた時のような眩しさは微塵にも感じられなかった。本当に、最初からそこにいたかのような気分に陥っていた。
「イヴェイション……」
僕が沙優奈の言葉を反復するようにぼそりと口にした直後、僕の視界が、壁の色とは明らかな別色の白で覆われる。やはり、眩しさの類は感じられなかった。
僕がはっとして気が付いたころ、僕は誰かの部屋にいた。少なくとも僕の部屋、もしくは僕の家の何かしらの部屋ではない。部屋のパーソナルカラーはピンク系で統一されており、いかにも女の子の部屋、といった印象を受けた。
僕はその時、斜め後ろに人の存在を感じて振り返った。そこにいたのは、先ほどまで僕と言葉を交わしていたはずの沙優奈だった。沙優奈は先ほどとは趣向が違う、不敵な笑みで僕を出迎えた。
「ようこそ、私の部屋に!」
「なんで、こんなところに……?」
相変わらずクエスチョンマークを頭上につけたままの僕が小さく首を傾げながら聞くと、沙優奈は少しばかり勘違いしたらしく、立ち上がって僕を睨んだ。しかし、その睨み顔は僕がいつも直面するような鋭い睨みではなく、あくまで日常で交わされる程度の柔らかな睨みだった。
「ちょっとぉ! 瑠堕君それどういう意味!?」
声を荒げる沙優奈の両頬は少し膨れている。
「え、いや、そういう意味で言ったわけじゃ……」
慌てる僕を見て満足したのか、沙優奈が今度は得意げな笑みを見せた。全く、この少女はいろんな笑みを持っているものだ。僕にはここまでいろんな表情を出すことはできない。まだ会って数分しか経っていないが、僕は彼女のそういうところが少し羨ましく思えた。
「瑠堕君。君が今ここにたどり着いたのは、ここにあるイヴェイション・モーターの力によるものなの」
「イヴェイション・モーター……?」
「イヴェイション・モーター」という単語そのものは初めて聞いたものではあったが、その言葉を構成する単語に、僕は聞き覚えがあった。
「一つ、聞いていいか?」
「うん、いいけど?」
僕の要望に、沙優奈はすぐに了承の返答を返した。僕はそう返してくれたことに僅かながら安堵すると、すぐに用意していた質問をぶつけた。
「さっきから頻繁に出てきている『イヴェイション』っていうのはどういう意味なんだ?」
「うん、いい質問だね」
沙優奈の言葉に対して、そうか? というのが僕の率直な感想だった。本来ならもっと核心的なことの方を聞くと思う。僕だったらそれを覚悟して身構えてしまうだろう。
「イヴェイションは、君にとっても大事な意味を持つ言葉だからね。教えておいても損はないしね」
単語の意味が僕に関係した言葉。僕の名前の何かしらの意味を持ったものなのだろうか。
「……イヴェイションには、『脱出』という意味が込められているの」
僕の視界が開ける。それと同時に今までの中で鼓動が許容範囲ぎりぎりの速さで脈を打ち始める。僕は口をぽかんと開けた今までで一番間抜けな面をしていたことだろう。
「それを使えば、こ――」
そこまできて、僕は我に返って言葉を詰まらせた。鼓動のペースが先ほどとは違う意味で加速していく。彼女が僕のことをどこまで深く知っているのか、僕は認識していない。彼女の勢いに気圧される形でここまで来たが、まだ彼女が僕の味方と決まったわけではないのだ。それなのに簡単に口を滑らせてしまった自分に対して怒りと後悔をぶつけた。僕は何かしらの過ちを犯してしまったとき、いつも自分を責める。そうしないと、次はない。
「安心していいよ、瑠堕君。私は君の味方だから」
言葉を詰まらせた僕に対して沙優奈が掛けた言葉はそれだった。僕は今初めて、「自分は味方だ」と主張する人に会ったかもしれない。今までの経験上、友人ではあっても絶対的な僕の味方など一人として存在しなかったのだ。それほどに、彼女のその言葉は僕に対して衝撃的な言葉になっていた。再び僕の鼓動が一気に速くなる。
だが、僕はそれでも完全に彼女を信じ切ることはできなかった。
それは、今までの経験上ゆえか。それとも僕の性格ゆえなのか。
「悪いけど、僕は君のことを信じ切れない。今までそういう人生を歩んできたから」
僕がそう言いながら俯くと、沙優奈は僕が今までの人生の中で見たことのない表情を見せた。
それは、悲しみを湛えた、同情や憐みの類を含んだ表情。
「そんな顔しないでくれ……僕は、誰かのそういう表情には耐えられない」
誰かのそんな顔は見たことがなかった。だから、これからもそんな表情を見たいとは思わなかった。
本当は、彼女のあんな表情も見たことはある。それこそ、テレビドラマなどでよく見られるものだ。だが、僕にはそれを記憶する理由が見当たらなかったのだ。所詮は決められた役に当てはめた通りに演じているだけ。本当のものではない。ましてや、その表情は僕に向けられたものでは到底なかったからだ。
だが、今彼女は僕の言葉に対してそんな顔を見せた。僕は自分が嫌になった。自分を信じ、味方になってくれるという少女。もしかしたら、たった一人の味方になってくれるかもしれない人間を、信じきれないと切り捨てたのだ。
「ごめん……僕って、最低だよね……」
顔を背けた僕を、暖かな感触が包み込む。
「そんなことない……瑠堕君は何も悪くない……!」
背中に回された両手は、出会った直後の時よりも強く握られていた。僕の首筋に、汗ではない液体の感覚が伝っていく。
「ごめん……ありがとう」
僕は、彼女の暖かさに耐えきれずに、僕の首筋を伝うものと同じ液体を両目から溢れさせた。