6、樹木の被論破劇
閑静というのが一番似合っている住宅街。灰色のコンクリートを敷き詰めた道路、西南西の位置にまで傾いてきた太陽の光を背に受けながら僕は磁場集中点へと走っていた。僕の持っているものは磁場集中点を特定するために必要な一通りのものだけだった。ただ一つ、外見は全く同じコントローラを除いて。
「本物か……」
マテリアと想雫の会話の中では、想雫の渡したコントローラが本物であるという話がされていた。それとイコールで繋がるのは、マテリアが僕に渡したコントローラが偽物であるということだ。どうせそれにもマテリアのマスターが絡んできているのだろうが、僕にはその意図が理解しきれなかった。偽物には何かしらのウイルスが含まれいるのか、それとも単に作動しないようにバッテリーを抜いただけなのか。
「偽物か……」
マテリアと想雫の会話だけを聞いていれば、僕はマテリアの言う事をある程度は信じ、マテリアが返した偽物のコントローラを使ったりはしなかっただろう。
しかし、その後、雨三野が通りかかったとき、彼女は僕の嘘に、嘘の演技で合わせてきた。その態度、行動、言動は、今現在の僕に大きな躊躇を生ませた。
マテリアでも、嘘を吐く。
彼女を百パーセントで信じ切ることはできない。
彼女は自律神経を持ち合わせ、機械的な馬鹿正直さだけではなく、その場を惑わす嘘を吐くこともできるのだ。
マテリアの言葉が嘘だとすれば、想雫が僕に渡したコントローラの方が偽物ということになる。そうなれば、僕はどちらを使えばいいのか全く分からなくなってしまう。
一度、成火に見てもらおうかという考えも浮かんだのだが、偽物のコントローラには、それ自体が簡易的なハッキングツールになっている可能性がある。解析のために研究所のコンピュータに繋いだ瞬間に、全ての情報を奪われ、消去される、等という事態が起こりかねない。成火の事を好いているわけではないが、彼と、彼の持つデータと研究は僕にとっては生命線とも呼べるものだ。それを失うということは、僕がこのまがいものの世界から抜け出すための道をまた歩き直さなければならないということになるのだ。
何も変わらない様子が続いていた住宅街が突如として変わった。
いや、正確には、変わっていた、だろう。
昼間に起こった磁場集中点の暴走。それによる強制磁化で引き寄せられたブロック塀やそれに囲われていたのであろう家や、庭の花壇などが根こそぎ一点に集中していた。そして、それの処理に追われている警察や救急隊。磁場集中点が暴走してから四時間近くは経過しているはずだが、未だに作業は続いているようだ。警官たちと僕との間には何かしらの隔たりはなかったが、とてもあの中に飛び込んでマーカーを設置する余裕はないだろう。仮にそんなことをしようものなら、僕はたちまち警察に両腕を引かれ、重要参考人として数時間、もしくは数日の間警察の方々のお世話になることになってしまう。そんなことになれば、少なくとも成火が提示したあの条件の期日には間に合わない。いや、磁場集中点そのものがこんな状況では、少なくとも成火が指し示した通りに任務を遂行することなどできない。
「君、野次馬なら帰った方がいいよ。まだ何が起こるか分からないから」
僕の姿に気づいた警官がこちらに歩み寄りながら話しかけてきた。僕は取り敢えず身構えずに待つことにした。ここで下手な動きを見せれば、それこそ僕の想像した最悪の結果になりかねない。
「あ、はい……たまたま通りかかったもので」
「そうか……気を付けて」
警官はこちらをまるで警戒する様子もなく、にこやかな笑顔のままに僕を送り出した。できればもう少し様子を見ておきたかったのだが、あまり長居しても目の前で忙しなく働いている人達からあまりよろしくない目で見られる可能性があるために、僕は撤退を選ぶしかなかった。
僕に話しかけてきた警官は、僕の主観では、好感が持てるほどに真面目で正直な人間で、正直助かったという思いに浸っていた。人が悪ければ、ただ見てただけでもお縄につきかねない。
僕は道を迂回する形で元のルートを逆走し始めた。
その後、何事もなく家についた僕は、自分のパソコンを一寸の動作の狂いもなく立ち上げると、先日組み上げておいた――正確には、パソコンに組み上げさせた――簡易プログラムを確認する。僕の指示通りに組み上げられた模範的なプログラムを見た僕は、自分の持つパソコンの能力に舌を巻くわけでもなく、指示できた自分に満足するわけでもなく、すぐにそのプログラムの改造を始める。想雫との交錯があったとはいえ、明後日にはマテリアに自宅に来てもらうことになっている。それまでにプログラムを完成させ、マテリアにダウンロードしてもらわなければならない。そのデータが正常に稼働できれば、成火から出された課題の一つ目はクリアしたことになる。今のあの状況ゆえに、今はとりあえず、一つだけだったとしても終わらせておかなければ、今後の脱出計画にもある程度の支障が出るだろう。僕は何としてもクリアすべく、キーボートを叩き始めた。
御鹿野河邸。市内でも中央部にほど近い場所に建てられたこの建物は、この土地を初めて通った人が見れば、一番に印象づけられるだろう。それほどの大きさだ。建物自体は四階建ての構造であり、その敷地は某有名野球ドームなど鼻先で笑い飛ばせるほどのものを有しており、その敷地内には、豪邸にはお約束ともいえるプールやゴルフ場などのレジャー設備に加え、この家で働く使用人専用の別館すら用意されている。ちなみに、この家で働いている使用人の数は、メイド、執事、料理番、警備などの全てを含めれば、その数は五百を軽く超える。
いくら名家とはいえ、ここまで使用人がぎっしりと詰まっている豪邸はなかなかいない。そして、ここで働くための求人率を見ても、一万人に一人入れるかどうか。全国、時に海外からすら来る数多の就職活動者を切り捨て続けなければならない。
では、なぜこんなにも御鹿野河家には人が集まるのか。それは、この家系が名家として認識される理由に直結する。
御鹿野河家が名家として世間に知れ渡ったのは、実に四、五十年ほど前の話。ちっぽけな海外の石油発掘企業の社長として働いていた御鹿野河風晴は、地層研究の積み重ねによって、超巨大石油源を特定、誰よりも先にそこを掘り当てた。それは日本のみならず世界中で報道された。何しろ当時枯渇しつつあった石油事情を一気に解決したのだ。人々に伝えられないはずがなかった。
これは後に、「ミカノガワ・オイルフィーバー」と呼ばれる。
それによって今までただの一般家庭であった御鹿野河は、莫大な資金を手に入れることになった。
だが、御鹿野河家の奇跡はそこでは終わらなかった。その後も風晴の企業は次々と石油を掘り当て、世界の石油の枯渇までのタイムリミットは十年は伸びたと伝えられている。それと同時に、御鹿野河家の人間には次々と幸運を手にした。風晴の妻が十枚だけ買った宝くじはその全てが一等に当選。何の手違いか、購入したくじ番号が全て同じ番号だったという。
その後も、次々と新たな事業を起こしては成功し、今では各方面のトップ、もしくはトップに近い位置にいる企業の幹部以上の人間には、必ず御鹿野河の人間がいると言われている。一世代のうちに生んでいる子供の人数が多いこともまた、各方面に向かわせられる理由である。
以来、御鹿野河の使用人となることは、幸福を得られるという信仰的な理由が大部分を占めることによって、多くの使用人候補生達の憧れであるのだ。
「ただいま戻りました、お父様」
「おかえり、樹木」
御鹿野河樹木は学校から帰宅した後、使用人の一人から、父から帰宅後来るようにという伝令を受けていた。母から話があるのはよくあるのだが、父から話がある、というのは今まででは数えるほどにしかなかったのだ。樹木が記憶している限り、小学校、中学校の入学直前と、高校の受験前と後、というのがせいぜいだった。
だから、今までのパターンと照らし合わせても、何故この時期に呼び出されたのか、樹木にはよく分かっていなかった。
「御用は何でしょうか?」
樹木は自分から話を切り出した。樹木は忙しいわけではないが全くの暇というわけではない。学校から出されている課題もやらなければならないし、何より一人の時間が欲しい。
「うむ。樹木、お前に一つ話しておきたいことがある」
そんなことは言われなくても分かっている。樹木が聞きたいのはその話しておきたい内容だ。
「はい」
樹木は真剣な顔つきで父の言葉に耳を傾ける。自分では中々に凛々しく振る舞っているが、内心では、結局いつも通りの話に終わるのだろうと思っていた。樹木の予想では、どうせ一言目は――
「学校には慣れたか?」
ほらきた。
「はい、学校の友人もよくしてくれますので」
樹木はそれに対し、テンプレートと呼ばれても文句が返せないくらいにありきたりな言葉を返した。多分、父の方も本題はこんなことではないだろう。さすがに呼び出すくらいなんだから、これくらいはむしろ挨拶程度にとっておくことにしている。
「……今から行う質問に、お前の本心で答えてくれ」
「……? はい……?」
今までとは全く違う方向性の会話に、樹木は戸惑いを隠しきれなかった。凛々しく保った顔がやや崩れる。しかしそれは樹木の主観で、客観的には何も変わっていないように見える。
「お前は、世界が豊かになるのと、自分が豊かになるのなら、どちらを選ぶ?」
「えっ?」
樹木はその質問の内容こそ理解したが、その理由までは理解できなかった。だが、深く考えることはあまり得意ではない。今は素直に、自分の心に正直に答えることにした。
「もちろん、世界が豊かになることです」
「その理由は?」
理由。どうやら単なる心理テストや父の一興ではないことは確かだろう。第一、心理テストの多くは理由なんて求めない。
「……世界は理不尽ですから。今不幸な人達が救えるのならば、自分の幸せよりも優先します。こういうと聞こえは悪いですけど……人に譲った幸せは、いつか自分に――」
「お前は、幸せをモノ扱いか?」
樹木の言葉を、父はばっさりと切り捨てた。樹木の全身に、衝撃が走る。肉体的な痛みではない、もっと別な、精神的な痛み。
「そ、そんなつもりは……」
「……なら、質問を変えよう。お前は自分の近しい人間たちだけが残るのと、自分達だけが死ぬ、どちらを選ぶ?」
樹木は狼狽えた。そんな究極の二択のような真似をしろとは、父も酷な質問をぶつけてくるものだ。
「私は、自分に近しい者達が死ぬのは、見たくありません。大切な人一人守れないような、弱い人間にはなりたくありません!」
その言葉を放った樹木に対して、父が背を向け、窓の外に目をやる。この部屋からの景色は最近ではもうあまり目にすることなどないが、自分が自室から外の風景を見るように、すでに呆れかえるほどに変わらない景色なのだろう。その風景を見ながら、僅かに顔をしかめた父が静かに言った。
「人が世界を作り、世界が人を作る。これは、私の父の言葉だ」
樹木ははっとして父の顔を見た。父の親、いわば樹木の祖父。御鹿野河風晴。
「またそのうち、お前を呼ぶ。その時に、この言葉の意味、私が質問したその意味、そして、お前が今、この御鹿野河に、この世界にいる意味を考えておきなさい」
「お父様……?」
樹木はすでに多くを口にすることができなくなっていた。既に樹木には、父がいつもとは違うことに気が付いていた。父は一体自分に何を求めているのだろうか。
探しても言葉は見つからない。自分が次、何を言うべきなのか、樹木はこの時、本気で迷った。今までこんな経験はなかったからだ。誰かに何かを相談されても、自分の中の経験をすぐに掘り当てて、自分が言える精一杯の言葉を返すことができていたし、何かしら追求をされてもそれを逃れるだけの記憶はちゃんと残っていた。
今の父に返せる言葉は、自分の記憶の中には存在しないものだった。
「樹木。私が今言ったこと。それについて考えるヒントを一つだけあげよう」
樹木は父の後ろ姿をじっと見つめた。すでに年齢そのものは四十を軽く超えているが、その立ち居振る舞いは、中年や壮年さを微塵にも思わせないほどに伸びきっている。
父は、背中を樹木に見せたまま、顔と目だけを樹木に向けて言った。
「もっと、世界を知りなさい」
「はい……失礼します……」
樹木はもう、この場から逃げ出すことしかできなかった。