5、無感情の追求者
おそらく最も緊張していたであろう僕の緊張が緩くなり、心拍数も最大高速時に比べれば大分平常運転に戻っていた。僕は一度空気を大きく吸い込み、ゆっくりと、吐き出す。そこには深呼吸と溜息の両方の意味合いが含まれていた。
「あなたは私たちに関わるべき人間ではないのではありませんか?」
マテリアの言葉は無機質さを纏っていた。僕は声をかけようという考えすら思い浮かばなかった。ただただ、マテリアと想雫の事の成り行きを聞くに任せることにした。そうするのがここでとるべき最善の行動であると、僕の中の何かが無意識のうちに告げていた。
「私たち?」
マテリアの質問兼言及に対しての想雫の返答はそれだった。マテリアはその言葉には何の迷いも焦りもなく、その逆質問に対して返答する。
「はい、『私たち』です」
「でもっ……私は、羽賀瀬さんやマテリアさんとは会ってから時間が立ってないんです……関わるなって言われても――」
「イヴェイション・クレはどこにあるのですか?」
想雫の弁明を、マテリアは新たなカードで切り捨てた。僕には、その言葉の意味をすぐには理解することなどできるはずもなかったのだが、想雫の顔には明らかな動揺の色が見て取ることができた。それは、いつも(といっても二日しか顔を合わせていないが)彼女が見せている動揺とは、似て非なるものだった。
「イ、 イヴェ……? な、何ですか、それ?」
しかし、それに対してここまでの反応を返すことができるあたり、なかなかに想雫もこういう場面に遭遇したものだと思われる。そして、そんな言及を相手取った時の対応の仕方も、場数を踏んでいるものだと思わせるには十分な判断材料であった。
「とぼけないでください。あなたはミスター瑠堕がここに来ることを知っていたはずです。その上で、イヴェイション・クレについての情報を渡すつもりだったんじゃないですか?」
マテリアの口撃は終わらない。僕は半ば呆気にとられてその様子を見ていた。自分は部外者だと思っていた――或いは思いたかった――のだが、マテリアが僕の名前を出した時点で、どんな形であっても、僕はこの一連の流れの関係者ということが決定づけられた。僕がその内容を知らずとも、おそらくは深い事情まで知っているのであろう目の前の少女達二人がそう言っているのだから、まず間違いない。
「だからこそ、本物のコントローラを渡すという口実の元で、彼に接近したのでしょう」
しかし、僕はこのマテリアの言葉を聞き逃さなかった。今、マテリアは、本物のコントローラを、想雫が僕に渡す、と言った。それは即ち、彼女――マテリアが僕に渡したコントローラは、よくできた偽物ということになる。一体何のために――。
「あなたは……何をするつもりなんですか?」
「ああああの! 一体全体何の話をしているんでしゅか?」
(あ、噛んだ)
僕にはもう、その動作すら、素なのか演技なのか分からなかった。ただ想雫が「噛んだ」ということを認識することしかできなかった。しかし、想雫が噛んだ直後に、ハッとしながら、顔を赤らめて両手の指先で口元を覆ったあたり、今のは彼女の素なのだと認識した。
「私はあなたの口から、私の言葉を認めるという内容の文字列を認識するまで、立ち去る気はありません」
そこでマテリアが一歩、ぐっと踏み出した。それに合わせて想雫もまた、一歩後ずさろうとしたが、引いた右足が、自身の左足に引っかかり、そのまま尻餅をつく形で転倒する。想雫の頭上から、さらに一歩近づいたマテリアが見下ろす。いや、あの様子は見下すと言った方が正しいのか。
「ちょうどいい機会です。ミスター瑠堕。あなたにも、イヴェイション・クレについてお教えしておきましょう」
その彼女の言葉は、明らかに僕を指して言われた言葉であったが、その瞳は、想雫から一切ずれることはなかった。
僕は、純粋な恐怖感に襲われた。先ほどから交わされている言葉の中で一番興味を引く単語は、間違いなくイヴェイション・クレについてのことだ。僕もきっと無関係ではないその存在を、より深く知りたいという好奇心と探求心は深くから渦巻いている。だが、同時に、僕がそのことを知ってしまってもいいのだろうかという恐怖が包み込んでくるのだ。
「ミスター瑠堕。あなたは知りたいですか? イヴェイション・クレなるものを」
僕はマテリアからのその質問の返答に激しく迷い、戸惑った。
知っておいた方がいいこと、知らなくてもいいこと、知らなければならないこと、知ってはならないこと。僕が今問われ、知ることができるそのことは、一体どれに当てはまるのか。与えられている時間はごくわずかなものであった。僕が何かしらの答えを返す前に、マテリアはその口を開いた。
「その態度を、肯定の意味であると認識します」
「マテリア……君には、人の心は分からないんだろうね……」
僕がようやく口を開いた第一声はそれだった。マテリはそれに対して首を振る、という動作を行わず、ただ言葉だけで反応した。
「はい。そういう風にできています」
しかしその視線は、未だ想雫からは外れない。想雫も想雫で、マテリアの瞳から目を離せないでいた。それとも敢えて離していないのか。
「君の存在は否定しないよ。けど、疑っちゃうね……」
それはある意味自虐であった。きっと、これは僕だけが持つことができる気持ちなのだ。彼女の存在を否定することは、僕自身の存在を否定することと同義だ。今の僕は、本当の僕ではない。僕の本当の体は、ここではないどこかに必ずある。今の存在は、疑っても疑いきれないくらい、不確かなものだ。だからこそ、僕とある意味近しい存在であるマテリアのことも、疑ってしまうのだ。
「存在そのものに、意味などありません。存在など、ただの概念です」
「え……?」
僕は、予想外にマテリアが持論を展開したことに驚きを覚えた。それとも、これも彼女のプログラムの中に書き込まれた『まがいもの』なのだろうか。
「存在は、ただ物体を認識するために用いる手段に過ぎません。手段に、意味も意義もないんです」
どこか機械的なその言葉は、やはりそれは彼女のプログラムとして構成された言葉の断片であるのかと認識させられたが、僕は彼女の微妙な変化に、かろうじて気づくことができた。
その姿勢は変わっていない。模範にしてはできすぎているほどにピンと伸びた背筋。見下ろし、未だ想雫からぶれない瞳。
ただ、彼女の両拳は、きつく握られていた。どころか、力が入っているのか、若干ではあるが震えているのだ。
「マテリア、君は……」
「あれ、瑠堕にマテリアじゃん、どうしたんだ?」
そこで、僕たちの会話は完全に途切れることになった。僕は、自身の後方からかけられたその声に反応して振り返った。マテリアが声をかけてきた時ほどの速さではないとはいえ、かなりの速さで首をひねったことは、僕自身がよく分かっていた。
そこにいたのは、クラスメイトの雨三野だった。
「雨三野、なんで……」
「なんでここに」という言葉は、最後まで出てくる前になんとかせき止めた。ここで下手に動揺を表す態度をとれば、何も知らない雨三野に、余計なことを教えなくてはならない、という状況になりかねない。少なくとも、今そういう事態に陥りつつある。雨三野はこの世界の住人だ。僕の目的、僕の行動の多くを露呈することはできない。僕が彼に見せているのは、この世界の住人だと思わせるように振る舞っている姿だけなのだ。
「俺は……ちょっと用事がな」
「そうか」
ここであまり深く追求して逆質問されることだけは避けたかった。だが、ただ相槌を打ったことが不味かったようだ。
「瑠堕は何してたんだ?」
僕は思考をフルに回転させる。現在のこの状況を打破するために必要な情報、周辺事象、時間、進行方向――。
「僕は散歩の途中に、たまたま人とぶつかったマテリアを発見した、っていう状態だけど?」
僕はちらりとマテリア達の方に視線をやった。視線の先に居るのは、転んだ状態でこちらを見ている想雫。その想雫と一歩の距離もない場所から見下ろすマテリア。これだけを見れば、僕のついた嘘も信憑性を増す。百聞は一見にしかず、ということわざが僕の脳裏を過った。本来の使い方と違うような気がしたが、そんなどうでもいいことを脳内思考から振り払い、雨三野の返答を待った。
「よくできた偶然だな」
その苦笑混じりの口調とは裏腹の、明らかな疑いの言葉が、そこにはあった。確かに、ここは曲がり角ではない。そして、そこに僕が居合わせているというのも、「偶然だな」という言葉で疑うには十分なのだ。
「偶然は時によくできてるから偶然なんだよ」
僕は雨三野の言葉をはぐらかす方向に進めることにした。リスクは低い、と思う。あくまで僕の主観であるのだが。
「そんなもんか」
雨三野が本当に納得したのかは僕には知りようがなかったが、とりあえず、表向きだけでも納得してはくれたようだ。第一関門クリアのブザーが、僕の脳裏で短く小さく鳴り響く。
第二関門は、どうやって雨三野をここから立ち去らせるか。
クラスメイトが二人もいる。雨三野も何の用事もなくこの辺りに来たわけではないだろう。ならば、その用事を思い出させるように話を逸らしていく必要がある。しかし、今このタイミングでその話を切り出すということは、早くどこか行ってくれという僕の真意が見抜かれてしまう可能性がある。雨三野は人の心を深く読む事は得意ではないが、仕草、口調、タイミング等から、簡単に見抜いてしまう。僕はそれを恐れた。本人は直感(直観)とか言うのだが、その直観が当たっているから怖いのだ。
「ぶつかったことに対し謝罪します。申し訳ありません」
マテリアが、空気を読んだ。
僕が今一番包まれたいと思う空気を、読んだ。
僕は、この日、否、今年一番に感動したかもしれない。
それほどまでに、僕の話に合わせ、場の流れを僕の方へと引き寄せてくれたことが意外だったのだ。いつもだったら、間違いなく自分の意志を貫いて僕を含め、場を引っ掻き回すだけ引っ掻き回していくのだが、今日この時ばかりは、その爪を引っ込めて場を包んだ。
それに対し、先ほどまで見下されて万事休すであった想雫も驚きを隠せなかったようだ。
しかし、想雫のそんな驚きの表情は、「無表情なのにちゃんと謝ってきた」という意外感に苛まれたという方向に置換してこの場をやり過ごすことにした。
「あ、え、えっと、その、こっ……こちらこそ……」
しどろもどろになりながらも想雫も返答する。これでこの場は丸く収まるだろう。
そして、それは現実のものとなった。
「じゃあ、俺は行くわ。またな、瑠堕、マテリア」
僕に向かって右手を軽く挙げて、雨三野は歩き出す。僕もそれに返礼する形で右手を挙げる。
「ああ、またね」
僕は心の中の歓喜喝采をポーカーフェイスで閉じ込める。雨三野がそのポーカーフェイスに気づく事ができたがどうかは分からないが、この場を切り抜けられたのならばなんの問題もない。
「よい一日を、ミスター雨三野」
無表情のままにマテリアが雨三野に挨拶する。雨三野はマテリアにも同じように手を挙げる。
雨三野は僕達に対して別れの挨拶を行った後、ちらりと、未だに尻餅をついたままに倒れた想雫に視線を送ってからこの場を立ち去った。
雨三野と姿が完全に見えなくなり、それと同時に立ち上がった想雫。大きく息をつき、僕に首を傾げながら聞いてきた。
「それにしても羽駕瀬さん、嘘がお上手なんですね」
「それって、褒めてるかけなしてるかよく分からないんですけど」
「あっ、えっと、もちろん、褒めてますよ!」
慌てながらそう返した想雫がちょっと可笑しくて僕は久々に心の底からこみ上げてきた笑いを漏らした。
「もしかして、からかいました?」
「ちょっとね」
笑い声混じりに返した言葉は、放ってる自分でも可笑しくて。
こんなにも世界は歪んでて、こんなにも嫌ってる世界でも。
それでも僕は生きていると、この時実感することができた。
「秋安想雫。追及は次の機会にしておきます」
「あ、はい……?」
想雫が意味不明の意味合いを込めた表情のままに頷くと、マテリアは踵を返し、雨三野とは逆方向へと歩いて行った。
自分の言葉を想雫の口から認めるまでは立ち去る気はないと言っていた気がするのだが、僕はそれを敢えて口にするつもりはなかった。これ以上、今日は何かしらの面倒事には巻き込まれたくなかったのだ。
「羽駕瀬さん……お願いがあるんですけど……」
想雫が申し訳なさそうに僕に聞いてくる。僕はその言葉に耳を傾ける。
今日の一件のことを忘れてほしいとか、聞かなかったことにしてとか言いそうな気がして、僕は少しだけ身構えた。さすがに目に見える形ではそうしなかったが、いつその内容の話をされても対応できるようには身構えていた。
「できれば、私に敬語なしでお話ししてほしいのですがっ……!」
だから、僕はそのお願いの内容を聞いた瞬間に「えっ?」と拍子抜けした声を挙げてしまっていた。想雫の頬は少しばかり赤く染まっていた。
「それは構わないけど、だったら、想雫もそうしてほしい……かな」
僕は自分の照れくささを押し殺し切れずに、少し目線を逸らしてながら言葉を返した。
「私は、元々誰にでも敬語なので、これは気にしないでください」
にこっと笑ってそれに対応してきた。
「そっか。じゃ、これから改めてよろしくな。想雫」
「あ、えっと……はい!」
僕の差し出した右手に想雫は始め少し驚いていたが、すぐに笑顔と同時にその手を握り返した。