20、真の脱出
目を開けた時に広がっていたのは、一面が白く輝いた世界だった。無数の微粒子がまるで宇宙の河の中で光り輝く流れ星のようだった。その全てが静止することなく、絶え間なく進み続けているような、そんな風に見える。まるで、僕を構成している微粒子が現実世界での構成を前にして移動を行ってくれているような、そんな感覚に包まれていた。
もちろん、先ほどまでの世界での出来事は、まるでたった今起こったことのように鮮明に記憶されている。攻め込んでくる警官隊。その先陣を切るトルネリア。それに対抗するトルネリアからの反逆者と、御鹿野河の秘伝を与えられた娘。皮肉屋だが僕のために研究の全てをつぎ込んだ科学者。僕を守るその一心で、命を張った少女。そして、僕のために自らの体の全てを捧げてくれた、アンドロイドの少女。
僕は、多くの人に支えられていたのだと、改めて思った。
僕がそんなことを思った直後、僕はその空間の異変に気付いた。
一人の少女が、僕の前に現れた。ここが夢の中のような感覚になっているのは、目の前の少女が何もないところから少しずつ現れたからだろう。だが、心霊現象の類だとは微塵にも思わなかった。何せその少女は、今現在、僕と一番近しい存在の少女だったからだ。
「マテリア……」
「マスター、脱出、おめでとうございます」
「マテリア、一つ命令させてくれ……僕のことを、名前だけで呼んでくれないかな……マスターでも、ミスター瑠堕でもなく、ね」
僕の言葉を了承したのか、マテリアは少し微笑みながら、返答した。
「はい、瑠堕」
僕は純粋に嬉しかった。マテリアが、ミスターもミスもつけることなく、誰かの――僕の名前を呼んでくれたことが。
「瑠堕。私は、あなたに言いたいことがあります」
「ああ。さっきの間は言葉を交わせなかったからね」
僕の了承をとったマテリアが、一度目を閉じてゆっくりと深呼吸してから、目を開ける。
「私は、あなたに会って、人の心を知ることができました。今までからっぽな、機械としての心しか持ちあわせなかった私に、人としての心が生まれたのです」
僕は、彼女がそこまでの感情を手に入れる手助けをしたような記憶はなかった。あるいは、僕が無意識のうちに行ったことが、彼女にとっては人の心を知り、人の心が生まれてくるきっかけだったのだろうか。
「ステージパターン変更プログラムを実行した時にあなたが私にしてくれた対応。ミスター勾人を前にして、あなたが私を、今生きていると言ってくれたこと。それらは、私が廃棄された瞬間に、あなたをマスターにしたいと強く願った瞬間です。あの時言ったように、あれは機械の心が決めたのではなく、人としての心を決めたのです」
「そういえば、そんなことを言ってたな……」
僕は彼女に向かってできる限りの微笑みを向けてみせた。マテリアは続けた。
「そして、人としての心を手に入れた私は、あなたへの感情を抱きました」
「感情……?」
よもや、マテリアの口から自分が感情を持ったという言葉が出てくるとは思わなかった僕は、純粋な驚きと、一体何の感情を持ったのかという疑問を同時に表した。
「はい……。これが、怒りや悲しみなどの感情などではなく、そして尚且つ、きっとあなたにしか向けられない感情だと思いました。だから、その感情を今、あなたにぶつけさせてください」
マテリアは一度大きく深呼吸する。その顔が、僅かに紅く染まっていた。それは、この光の中ではほとんど目立たず、注意して見なければ間違いなく見逃してしまうくらいの、僅かな変化。そして、マテリアの口が開く。
「瑠堕。私は、あなたを愛しています……!」
僕は、自分の両目が大きく見開かれたことを自覚していた。マテリアは、怒りの感情でも悲しみの感情でもなく、愛するという感情を持つことができたのだ。僕は、マテリアが愛という感情を持ったことに、マテリアの僕への告白と同等の喜びを覚えた。
「僕も……人としての君を、限りなく愛している」
それは、彼女をアンドロイドではなく、人としての愛情で接するという意味、そして、恋愛感情を伴った愛情を与えるという意味の両方を備えたものだった。
「瑠堕……あなたはきっと、これからたくさんの苦悩を背負うと思います……でも、もし、私たちの存在が消し去られることがあっても、あなたは生きてください……! 私に誓ったその愛を、私が誓ったこの愛を、生涯忘れないでください……! これからあなたが、誰か他の人を好きになっても、私を愛したこと、私が愛したこと、いつか、いえ、いつでも思い出せるようにしてください……!!」
彼女の両目は涙を湛えているのが、僕には良く分かった。だから、僕は力強く頷いた。僕もまた、両目の涙が抑えきれなかった。
「そろそろ……別れの時間ですね……」
「……そうか。僕だって、もう現実に……僕がいるべき世界に戻らなきゃいけないんだね……」
不思議と、別れの寂しさはあまり湧いてこなかった。マテリアと通じ合っている心が、そんな感情を差し挟む余地を与えなかった。
「はい、もうすぐ……長かった夢が……覚めます……!」
僕は、幻想であるマテリアの体を抱き寄せた。温かみが感じられた。今まで過ごしてきた世界で、ついに一度も抱きしめることのなかった体を、今ここで抱きしめる。ゆっくりと体を離し、至近距離で見つめ合う。
「ありがとう。マテリア、君は僕の魂と一緒に」
「瑠堕、あなたは私の魂と一緒に」
僕達はそこで、唇を重ねあわせた。最初で最後の、一組の少年少女のキスだった。
さよならなんて言うものか。
僕は君を忘れない。
愛した君を、愛してくれた君を。
閉じた目の先に彼女がいなくなっても、僕は、生きてみせる。
何せ、僕はまがいものなのだから。
目を開いた時、僕はまるで自分の持つ体が、本当の肉体ではないような感覚がした。顔を上げた先には、研究所風の部屋に、いくつかのモニターとコンソールが並んだ無機質な場所が広がっていた。そして、一つのモニターの前に、一人の男が無言のままに立っていた。僕に背を向けたままのその男は、僕が現れたのに気づいたのか、こちらを振り返る。
「お疲れ様、とでも言っておこうかな、羽駕瀬瑠堕君」
「お前……!」
そこにいたのは、向こうの世界にいるはずの元マテリアのマスター、城野勾人だった。僕は湧き上がる怒りを目の前の男にぶつける前にどうにか押さえつける。
「おおっと、待ってくれ。マテリアを侮辱したのはあくまでプログラムの中の私だ。この私に怒りをぶつけるのは筋違いだ」
男は両手を軽く挙げた状態で振りながら自分のしたことではないと弁明する。
「プログラム……だと?」
この時、僕は、遥か昔のようにすら感じるマテリアの言葉を思い出した。自分のマスターは、この世界の人間であり、そうではないと。
その言葉の意味は、こういうことだったのだ。
「君は無事、閉鎖空間プログラムからの奇跡的帰還を果たした。だが、もう一つ、大事な決断が君に求められている」
勾人は僕に、こっちに来るように手招きした。警戒を解かぬまま、ゆっくりと近づいていく。僕はコンソールの前まで呼び寄せた勾人は、その中で異質な存在感を示す赤いボタンを指し示した。
「これは、君が今まで過ごしてきた世界を一瞬にしてデリートするボタンだ。君はこのボタンを押すか――」
そこで勾人が一歩身を引いたかと思うと、胸元から拳銃を取り出し、僕に向かってその銃口を向けた。
「この世界を残し続け、君は命を絶つか」
「な……!」
僕は驚いて勾人の方を反射的に見た。ここでの勾人の射撃能力がどの程度のものなのかは僕にとっては知りようがなかったが、この距離なら外すことはないだろう。
「もし、君がデリートボタンを押したとき、私は喜んで自分に銃を向けよう。私の実験の成否は、そこで決まるからな」
僕は、この男の実験が、僕のプログラムからの脱出だけで終わりではないことを、今知った。僕は戦慄した。それはつまり、僕だけが残るか、マテリア達が生きるプログラムの世界が残り続けるかを選べ、ということだ。
「三十秒だけ時間をやろう」
僕は、与えられた三十秒をどう過ごせばいいのか分からなかった。両目がまるで何かを探しているかのように動き回った。その視界の隅に、小さな人影を見つけた。
小さな、それこそ、まだ幼い少女だった。年齢は身長から考えれば、七、八歳くらいのものだろう。そんな少女が、勾人にばれないようにこっそりとこちらの様子を伺っていた。
僕はその時、少女がこの先歩もうとしている人生を感じて、再び戦慄した。もし、僕がここでデリートボタンを押さずに、自らの死を望めば、僕は死に、新たなまがいものとして、彼女があの世界へと送り込まれるのだろう。もしそうなれば、あの子が生きるはずの何年もの現実の時間は、あの世界に囚われて、失ってしまうことになる。
そして何より、僕はさっき誓ったばかりなのだ。生きると、生き続けると……!
「時間だ。さぁ、君の選択を」
「僕は……」
答えは決まっていた。僕はキッと顔を上げると、左手の人差し指で、デリートボタンを押し込んだ。
「この現実で生きる!!」
直後、甲高いサウンドエフェクトと共に、モニターに映し出されていた画面が全て赤く染まる。真っ赤に光輝く画面が、僕の顔の左半分を、まるで業火の中のように赤く染め上げる。その姿に満足したのか、勾人は、自分の耳元に銃口を持って行った。
「……実験は成功だ。君はついに、脱出に成功した。あの現実からの脱出でも、この現実への脱出でもなく、本当の――真の脱出にね。――最後に、君に謝ろう。プログラム内とはいえ、君が何より大事に思う者を傷つけたこと、君と一緒に脱出を願った少女を、この世界に帰還させることなく死なせてしまったこと……そして、この実験に、十年以上も付き合ってくれたことを。この奥の部屋には、研究に使われる予定だった資金が残っている。こんなものでは償いにはならないが、私にできる償いはこのくらいしかない。――君のこれからの人生に、幸あれ――」
勾人が僕への言葉を言い終えると同時に、勾人の耳元で銃声が鳴り響いた。
銃口は僕ではなく、勾人自身に向けられたままだった。
勾人はその顔に僅かな笑みを見せながら、地面へとうつ伏せに倒れた。
僕は、その場にへたってしまった。いくら彼女との約束とはいえ、彼女と過ごした世界を、彼女自身を、僕はこの手で消し去ってしまったのだ。
やっぱり僕って、最低最悪の人間だ。あの世界での、最大のまがいものの僕は、誰に止めることもできない疫病神だったのだ。
その時僕は、はっとして、顔を上げた。隠れたままだった少女が、僕の元へと歩み寄ってきたのだ。その足取りは、やはり幼さを際立だせるものだった。
「君……お父さんやお母さんは?」
「分かんない……最後に会った時、このおじさんみたいになってた」
少女の言葉に僕は喉の奥が詰まる思いだった。彼女は、僕よりも過酷な人生を、すでに歩んでいたのだ。僕なんて、本当はむしろ恵まれていたのかもしれない。
だからこそ、僕は、この少女をこれから守っていかなければならない。この子は今間違いなく、プログラム・ワールドに住まう何億もの人間を犠牲にして救った一人なのだ。僕が彼女を守る事こそが、僕の義務なのだ。
ふいに、今まで僕と共に過ごしてきた者達の声が脳内に響いた。
――羽駕瀬さんのその言葉に、意志に、助けられた人、絶対にいるはずなんです!
――友を守るのは、当然のことだろ?
――君は、いや、僕達は実験動物だ。
――私が生まれたのも、今生きているのも、これから生きていく世界もここなんだもん。
――私は、君の味方だから……!
――瑠堕。私は、あなたを愛しています……!
脳内で溢れる彼女達の言葉に、僕の両目から涙が溢れる。少女がそんな僕のことを不思議そうに見つめる。
「泣いてるの?」
僕は寄り添った少女を、そっと抱きしめた。
「君は、何があっても、僕が守るから……!」
それが、君の代わりに失われた命に対して僕が償える唯一のことだから。
「え、じゃあ私たち家族?」
少女が少し嬉しそうな顔で僕の顔を見た。僕は、これ以上に余計な言葉をつける必要はないと、人らしい心で思った。再び少女を抱きしめながら言う。
やっと想い合えたあの人と、生涯なることのできない関係を。彼女と共に生きる。それが、あのアンドロイドの少女と交わした約束だから。
「そうだ。今日から僕は、君の家族だ。これから、ずっと生き続けるんだ」
そうだよね。マテリア。




