2、遭遇の少女
その日、成火の研究所から帰った僕は、そそくさと自室でパソコンを立ち上げる。起動している間に、磁場集中点測定機の調整を開始する。磁場集中点の測定機は大まかな座標を入力すれば十数分で場所を特定し、そのエリア内の磁場集中点を検索、大まかな座標を表示する。後はそこに直接向かい、磁場集中点、その一点を探し出す。
僕はまず、今日中に磁場集中点を特定するために動き出す。プログラムは自動処理システムを組み込んだパソコンで、取りあえずは「変数表示を利用したプログラム」として簡易プログラムを設定、出力するようにすると、パソコンを起動したままに家の外へと足を踏み出す。何の変哲もない住宅街の中の一軒家。いつも通りに代わり映えのしない自宅を尻目にした後、磁場集中点測定機の表示を確認する。表示された座標の位置は、ここからなら徒歩で十分。自転車を使えばその半分以下の時間で到着できる場所だ。
天気が悪いわけでも、高校生でありながら自転車を乗りこなすほどのバランス能力がないわけでもなかったが、僕は自転車を置いてある自宅の裏まで足を運ばなかった。面倒だったわけではない。
僕の自転車は現在後輪がパンク中だ。
それ以上の特別な理由は存在しなかった。タイヤがパンクしていても自転車に乗れないわけではない。だが、やはり不便さと不快さを伴うもので、僕は断固として乗るつもりはなかった。
――それでありながら、すぐに修理に持っていかないのは、僕の持つ「怠惰」という悪い癖に他ならない。
家の敷地から進路を変更することなく足を踏み出すと、外に出るスタイルに変えていく。デジタルオーディオプレイヤーの最初のトラックに設定し、それをポケットに忍ばせる。そこから伸びるイヤホンを両耳それぞれに付け、流れてくる旋律に心を弾ませる。僕は以外と、この世界の音楽は気に入っている。現実世界における音楽文化がどのくらいに発達し、どんな歌手が台頭しているのかは分からないが、恐らくこちらの音楽も負けてはいないだろう。
歩いていく道路は、決まり文句ではあるが、まさしく「閑静な住宅街」だ。ドラマなどでもよく使われる言い回しだ。グレーに白線が引かれたコンクリート、そのコンクリートよりも明るめの色使いのブロック塀。そして、その切れ目切れ目に覗く一軒家の玄関。
当たり前の風景に視線を釘づけにすることはなかったが、そこそこに歩きなれた道ゆえに、注意力が散漫になってしまったのが不味かった。
角を曲がると同時に、体が何かにぶつかり、反発するような形で数歩下がる。
「いったた……」
「あ……すいません」
僕は踏みとどまったが、相手の方はぶつかった衝撃の反発に耐えきれずに尻餅をついてしまっていた。
「大丈夫ですか……?」
僕はその倒れた人に手を差し延べた。その動作になんのぎこちなさも持ち得なかったのは、普段からそういう善行に抵抗を覚えないよう育ててきたこの世界における両親の賜物だろう。
「ご、ごめんなさいっ! 私の方こそ……」
どう考えても僕の方が悪いことは明確であるのに、倒れたままに両手を振りながらあわあわと謝罪の言葉を振りまく。この時、僕は初めて、ぶつかったのが自分よりも年若い少女であることに気づいた。
彼女は振り続けた両手で少し鮮明度に欠ける視界の中に僕が差し延べた手を見ると、その両手の動きを止めて、落ち着いたように見えたが、自身がその手を取る必要があるのだと確信したのか、また両手を振って慌てはじめた。
「あっ! すすすすいませんっ!!」
しばらくあたふたしていたが、少しは落ち着いてくれたのか、右手をブロック塀に、左手を僕の手に重ねて立ち上がる。その両目には涙が見えていたが、この一分にも満たない時間のうちにこの少女の大体の性格を理解し、そのプライド(?)を守ろうと結論をひねり出した僕は、そのことに触れなかった。
「じゃあ、僕はこれで――」
「あ、あのっ!」
少女を立ち上がらせてから、視線を進行方向へと向けて立ち去ろうとした僕に、少女は食い下がってきた。一歩だけ踏み出した足を止め、僕は少女の顔に視線を戻した。
「何でしょう?」
「あの、お名前聞いてもよろしいでしょうかっ!!」
少女は勇気を振り絞ったような声で聞いてきた。僕の方には否定する理由はないゆえに、教えても問題ないのだが、やはりそう言われて思い浮かぶ素朴な疑問が一つあった。
「いいですけど……何故?」
そんな素朴な疑問に対して返ってきた答えは、僕にとっては聞き流せるような内容ではなかった。
「こんな世界で、あなたみたいな優しい人に会えたのは、初めてでしたので、それで……」
僕は動揺を隠せなかった。彼女が言ったのは、この世界しか知らない人としての「現実」の世界なのか、この「まがいもの」の世界のことを言ったのか――。
「だ、だめでしょうか……?」
「あ、いえ。――羽駕瀬瑠堕と言います」
「羽駕瀬さんですね。私は秋安想雫です。秋安は季節の秋に安心の安。想雫は想像の想に雫と書いて、ソウナと読みます」
それは、先ほどの性格から考えると随分と事務的なことばかりが並んでいた。僕は、この自己紹介が行われた直後、この秋安想雫という少女のイメージを、大なり小なり変更する必要があると心に決めた。
「いい名前ですね」
「そ、そうですか……? ありがとうございます!」
素直に嬉しかったのか、想雫はその顔に笑顔を湛えて感謝の言葉を振りまいた。振りまいたと言っても、その相手は僕だけであり、振りまく範囲は極めて狭いものであったが。
「じゃあ、またどこかで」
「はい! また会えるのを楽しみにしてますっ!」
想雫の笑顔を、先ほど自宅を尻目にしたのとは全く違う気持ちで尻目に見ながら、僕は手を振って歩き出した。
想雫と別れてから数分後、磁場集中点の測定機の反応が強くなりはじめた。この測定機以外ではあまり聞き慣れない独特な機械音。それは磁場集中点が僅か数十メートルの場所にまで迫っていることを示している。本番はここからだ。磁場集中点があると思われるその一点を探すため、まずは外周と思われる場所から内側と思われる場所に向かってうずを巻いて歩いていく。磁場集中点測定器も万能ではない。反応が変わってくるのは五十メートル地点、十メートル地点、そして、磁場集中点。
歩いている間、僕の視線は自分の進行方向にある障害物の確認と測定器の表示とをいったりきたりしていた。表示が変わる瞬間、その一瞬を確かめるために。
そして、その時は来た。
独特な警報音が半音上がる。それは、十メートル圏内に入ったことを報せる変化だった。僕はその音を聞き漏らすことはなく反応する。先ほどよりも神経を研ぎ澄まし、集中力を高める。先ほどと同様に、外周と思われるコースを歩きながら測定機の反応を確認し続ける。目的地が近づく(と思われる)につれて高まる集中力は、少しずつではあるが、僕から奪う精神的体力を増加させていく。
反応が変化し、半音変わった警報音が不快感を覚えさせるくらいの時間が経過したころ、警報音が僅か一秒間、音が変わった。それは、あの場所を通り過ぎた証。僕はまるで膨大な殺気を感じたかのように咄嗟に振り返った。目の前には何があるわけではない。文字通り、何もない場所だ。これが磁場集中点共通の特徴の一つだ。視覚的には全く認知することができないのだ。名前からしても視覚的に捉えることが難しいのは当たり前のことなのだが、磁場集中点にはもう一つ大きな特徴がある。それはその強すぎる磁場故に小さくはあるが頭痛を引き起こすことだ。しかし、その頭痛は万人に起こるわけではない。逆に言わせてもらえば、この世界のほとんどの人間は、そんな頭痛など引き起こしたりはしない。こういった頭痛は、僕のような「まがいもの」にしか感じることができない。
この世界の人間が磁場を発見するには、測定器を使った科学的なものしかない。
だからこそ、成火は僕に磁場集中点測定器を持たせたのだが、それはあくまである程度の位置を決定するためのものであり、最終的な座標位置を決定するのは、僕自身の「存在」によって特定することができるのだ。
磁場集中点の場所ぴったりに立った僕は、予想していたよりも少し大きな頭痛を感じた。この数か月以上、磁場集中点に立つようなことがなかったために、余計強く感じてしまうのだろう。僕は磁場集中点から起こる頭痛と測定器の甲高い警告音にかなりの不快感を覚えていたが、とにかく今はやるべきことをやる、という任務思考の元に行動を起こした。
成火から与えられた黒い釘状のマーカーを握る。座標位置を研究所の方に直接送信するマーカーだ。測定器でマーカーを打ち込む場所が磁場集中点であることを確かめながら、マーカーをコンクリートの道路に突き立てる。しばらく右手で支えたまま、左手に握っていた測定器を道路に置き、代わりのように、自動打ち込み用の操作コントローラをまさぐる。
そこで、僕は異変に気付いた。
「おいおい、嘘だろ……」
僕のポケットには、コントローラが入っていなかった。家から出るときには持っていたことは覚えている。ということは、ここに来るまでの間に落としたのだろう。そして、いつ落としたのか、考えられる時間と場所は一つしかなかった。
「面倒な……!」
僕は地面に置いたままにしていたマーカーと測定機を取り上げると、速度もそこそこに走り出した。
落ちる可能性があるとするなら、そう、あの場所しかない。
すでに日はかなり傾き、空の色は鮮やかな夕日のオレンジから闇夜の藍色に変わろうとする逢魔ヶ刻だ。道路に打ち込んでも目立たないという理由で黒色に塗装されたマーカーと対になるものであるために、コントローラもまた、黒く塗装されている。コントローラはさほど大きいわけではない。完全に夜になってしまえば、探すのが難しくなるうえに、誰かの足と地面に挟まれて破壊されてしまう可能性もある。成火は何か機材を壊したからといって、怒鳴りつけたり、弁償を請うたりはしない。しかし、その代わりに、新しい機材は貸し与えてはくれないし、むしろそんな状況になった僕をしたり顔で「残念だったね」と嘲笑うに決まっている。
息は切れ切れだった。残存体力を調整しながら走ったわけではなかったために、たいした速度でもないのに息が切れてしまった。
日はまだ落ち切っていなかった。
想雫とぶつかったこの場所。もし落としたとなれば、ここしか考えられない。
「あ……」
僕は声を漏らした。たった一文字、五十音で一番始めに来る文字を。
コントローラは壊れてはいなかった。最悪の事態は避けられたが、それにしては最悪にほど近い事態が起こっていたのは否定し難い。
「グッドイブニング、ミスター瑠堕」
眼鏡を掛けた少女が左手に僕が落としたコントローラを持ったままに挨拶してくる。夕方という意味ではグッドイブニングも間違いではないが、そもそもグッドイブニングは「今晩は」の意味合いを持っている。夕方と夜の間の時間であるために微妙な時間帯ではあるが、彼女にとってこの時間はすでに「夜」という認識とされているのだろう。
「ぐ、グッドイブング、マテリア」
マテリアは朝の制服のままだった。学校での何かしらの仕事を終えた帰りなのだろう。
「これはあなたのものですか? ミスター瑠堕」
「あ、ああ、そうだ。だから返してくれないか」
拾ってくれて何も疑わず返してくれるなら、それに大きな反応を示さずに受け取ればいいだけだ。
何も疑わないのなら、だが。
「そうはいきません。私にはそうしてはいけないというデータが出ています」
「デー……タ……?」
彼女がアンドロイドである以上、自分の中のデータを基に行動を起こすだろう。だが、僕にとっては、そうしたデータが出ているということそのものが問題だった。
「私はマスターからそう指示されています」
(マスター……マテリアを開発し、マテリアに指示を下す者か……!)
しかし、そうしたほのかな敵意を押し殺し、ポーカーフェイスで僕はマテリアに話しかける。
「別に何か企んでいるわけじゃない。けど、俺にはそれが必要なんだ」
こんな状況では、マテリアは簡単にコントローラを渡してはくれない。アンドロイドは、データで揺るぐことはあっても、感情や同情では揺るがない。
「渡せません」
「……なら、一つだけ質問させてくれないか?」
「……内容によります」
どうせ渡してもらえないのなら、せめて何かしらの土産というか、対価をもらわねばならない。もちろん、質問の内容によってはその対価を支払ってもらうことすら敵わない。
だが、ここで僕は賭けに出ることにした。マテリアが、僕の質問に答えてくれる可能性に。
「マテリア、君のマスターは、この世界の人間なのか……?」
それは、本当に特定の人にしか聞くことのできない種類の質問。成火との会話からもよく存じ上げているが、マテリアはこの世界の中の住人というわけではない。成火曰く実験のための存在であるマテリアならば、そのマスターもまた、実験に関係している可能性があるのだ。
選ばれる選択肢は二つ。イエスかノーだ。
「そうであり、そうではありません」
しかし、マテリアの答えはイエスだけでもノーだけでもなかった。
「……」
僕は言葉が返せなかった。回答を拒否されるのならまだ予測の範囲内だった。しかし、まさか与えられた選択肢両方を取るとは微塵にも考えていなかったのである。
「それでは、ごきげんよう、ミスター瑠堕」
僕からの返事の挨拶を待たずに、マテリアは僕のコントローラを持ったまま歩きだした。僕はその背中を追うことも、声をかけることもできず、ただただ見送るしかなかった。