19、悪役の、悪役による、悪役への逆襲
侵入者と裏切り者が居なくなった研究室の中で、一人の男が目を覚ました。この研究所の主である男は、ふらふらとした足取りのまま立ち上がると、モニターを凝視する。恐らく侵入してきた少年は、間違いなく、あの男と結託している。そうでなければ、常人には到底解除できないアンチプログラムを組み込んだ研究所入口のセキュリティロックを解除できるはずがない。
モニターには、一つの点が、とある一点にしばらく止まったままだ。恐らく、あの場所があの男の研究所だろう。
「ふっふっふ……マテリアぁ……お前が俺の下にいたという過去が、お前の首を絞めることになるぞ……」
男はその座標のポイントをある者に送信する。
やがて、送信した相手からの電話がかかってくる。
『勾人。このマップデータは……?』
「義兄さん……侵入者に研究物が盗まれた……そのポイントにいるはずだ……頼む……」
『大丈夫か、おい……』
「私のことはいい……それよりも……」
『……分かった。無理はするなよ』
これでいい。恐らく義兄はたくさんの警官達と共に、奴の研究所へと向かうだろう。いくらマテリアがいるとはいえ、相手の数も戦闘能力もたかが知れている。
「羽駕瀬瑠堕……真木乃成火……これで勝ったと思ったら、大間違いだと、教えてやる……!!」
しかし、男はその呪詛を最後にバタリと倒れ込み、意識を完全に闇の中に閉ざした。
研究所に戻ってきた僕達は成火の皮肉気を含んだ拍手によって迎えられた。
「やあやあ、両手に花とは、中々君も隅に置けないね」
「茶化すな。これは脱出するための一時的な措置であって……」
「言い訳は向こうの世界でぶつぶつ呟いてればいいさ」
僕の真面目な反論は、成火の皮肉には些か相性が悪い。僕は、ここは大人しく引き下がることにした。
「それで、この部屋で行うのか?」
「いや、もっと深いところで行う」
そこで僕ははっとして、成火を止め、携帯端末から、ある番号に連絡を入れる。
『瑠堕君? 一体どうし……』
「イヴェイション・クレを手に入れた。これから送る座標に来てほしい。脱出を行う」
『えっ……ちょっと待っ……』
僕は、それだけを伝えると、通信を切断し、マップデータを転送する。
「いいのかい? 彼女はトルネリアの人間なんだろう?」
「それでも、僕と同じだ。放ったまま一人で脱出なんかできない」
すでにマップデータは送信済みの表示が成されている。だが、そこに、マテリアからの言葉が割り込んできた。
「! ……マスター、ミスター勾人の研究所から……マップデータの転送が確認されました……データの座標は、ここです……!」
「な、何……!?」
「恐らく、残していた私の位置情報を頼りにして割り出したと思われます」
「くそ……ここにきて面倒なことを……!」
僕はそこで、最悪のパターンを予測してしまった。警官達とトルネリアを連れずに単身で乗り込んできた沙優奈が鉢合わせしてしまうことだ。
「警察は、動き出すまでは少し時間が掛かると思う。鉢合わせになる可能性は低いとは思うけど……」
樹木が僕の心の中を読み取ってか、起こりうる最悪の事態の可能性の低さを挙げてくれたが、僕は最悪の可能性を捨てきれなかった。
その時、僕の携帯端末のバイブレーションが、メールの受信を告げた。
「メール……? こんな時に……?」
送信者は、先ほど通信したばかりの沙優奈からだった。何故だ。人目を気にしてメールにしたのだろうか。
僕は、送られてきたメールを開き、その文章を確認する。
『先ほど、とある人物から、ある研究所を潰すためにトルネリアとの合同作戦が提示されました。トルネリアはこの作戦に参加するそうです。けど、私は、あなたに味方になってほしいから、あなたの味方らしく動くことにします。リーダーの竹葉さんには、きちんと話してつくつもりです。作戦は今から二時間後に行われるそうですから、それまでには、あなたの下に向かいます。沙優奈』
「これって……!!」
隣で僕のメールを覗き見していた樹木が、驚愕の表情でその文面を読み終えた。
「トルネリアまで来るとなると……これは厳しいことになりそうだな」
僕の冷静な分析も、この場では何の意味も成さなかった。トルネリアが参加の意を示している以上、正面衝突は避けられないと見るべきか。
僕らの中に、沈鬱なムードが漂う。もし、沙優奈の存在がなければ、僕はこれから行われる警察の進軍を気にすることなくさっさと脱出していたことだろう。だが、この世界にはまだ沙優奈というまがいものが残されている。同じまがいものとして、彼女を置いていくわけにはいかない。
「僕は、彼女の帰還を諦めたくはない。博士。出来る限りの準備は進めてほしい」
「分かっているよ。言われなくてもね」
そう言うと、成火はゆっくりと歩き出す。そして、コンソールを操作する。何もなかった壁から扉が出現し、その奥に部屋があることを表している。
「この奥が脱出のための部屋だ。僕もそこで作業するつもりだよ。今いるこっちの部屋は何を壊されても構わない。最終防衛ラインはここになる」
僕は、唾をゴクリと飲んだ。ここを突破されれば、僕の脱出は叶わない。
僕は、両手をきつく握った。
それから約一時間半の時間が経った頃、セキュリティロックを解除しようとする三つの人影がモニターに映し出された。
「あ……!」
樹木が声を漏らして口元を覆った。
モニターに映っていたのは、沙優奈、そして、想雫と雨三野だった。
「何で……あいつらも……」
沙優奈だけしか来ないと思っていた僕は、予想外の人物の来訪に驚くしかなかった。樹木も樹木で、雨三野がトルネリアに所属していることを知らなかったので、大層驚いている様子だった。
研究室まで入ってきた三人の顔には若干焦りが見えていた。
「何で……!」
「友を守るのは当然のことだろ?」
「優しさには、優しさで答えます!」
雨三野と想雫がそれぞれ僕の短い質問にそれぞれの理由で答える。
僕って、恵まれてるな。
そんなことを思っていると、成火が少し慌てた声でその部屋にいた全員に叫んだ。
「ここに向かって相当な数の警官隊が集まってきてるね……今は入口のセキュリティロックに手こずっているけど……」
「防衛線は、私たちに任せて」
そう名乗りを挙げたのは樹木だった。次いで雨三野、想雫が防衛最前線に出るという。
「そうか……なら」
「君はダメだよ、羽駕瀬瑠堕。君と僕はこのメンバーの中で戦闘では足を引っ張るだけだよ」
なら僕も、という言葉を、成火のもっともな意見によって遮られる。
「三人はここに残る。防衛線ならば、この三人に任せればいい」
成火の言う残る三人とは、僕とマテリアと沙優奈のことだ。僕は大人しく引き下がるしかなかった。
セキュリティロックが解かれ、トルネリアの四人が先陣となって多数の警官隊と共になだれ込んでくる。それを見た樹木、想雫、雨三野の三人が駆け出す。成火は僕ら三人を奥に進むよう促す。僕は成火に促されるままに奥の部屋に進み、やはり促されるままに脱出装置と思われる縦長の直方体のキューブに入る。キューブそのものはスケルトンであり、外からも中からもその様子が見て取れる。その横には別のキューブがあり、マテリアにはそこに入るように促した。
マテリアには、勾人が導入した世界崩壊プログラムを完全削除するように伝えてあり、彼女がそれを一瞬のうちに終えたことは僕とマテリア、成火しか知らないことだ。
「磁場集中点からの磁場エネルギーをこっちの装置に転送して、ステージパターン変更プログラムの効力をイヴェイション・クレの力と共に増幅させる。少し時間は掛かるけど、邪魔さえ入らなければ、確実に脱出はできるはずだ」
もちろん、そうでなければ困る。ここには、揃えねばならなかったものが全て揃っているのだから。
すでに戦闘が始まっているのか銃声が鳴り響いている。だが、それとほぼ同時に、警官達の悲痛な叫びもまた、通路から鳴り響いている。恐らくは、樹木の事象改変による、銃弾の軌道変更だろう。僕は、樹木一人のおかげで戦局がこちらに大きく傾いていることを実感していた。
「羽駕瀬瑠堕、脱出開始まで後三分だ」
イヴェイション・クレが起動を開始したのか、僅かに発光する。隣のマテリアはすでに両目を閉じ、押し寄せるプログラムの波を処理し始めている。
後三分。沙優奈の脱出の時間を含めれば、後八分。
それまでの間、持ちこたえられるか。全ては樹木の事象改変による警官達の自滅と、それを察知した警官やトルネリア達の近接戦闘を想雫や雨三野が凌ぎきってくれるかにかかっている。
僕は一度目を閉じる。それは、自分の脱出だけではなく、僕を支えてくれる者達の無事を願う、祈りだった。
「羽駕瀬。後一分半だ」
もう少し、もう少しだけ……。
だが、その時、僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
それは叫び声。
「瑠堕ぉぉっ!!!」
それは、敵を一人通してしまった樹木の悲痛の叫び。僕は、その顔に見覚えがあった。
トルネリアのリーダーである男、竹葉だ。そしてその顔は怒りに歪んでいる。その視線が僕にではなく、その前に立つ少女に向いていることに、僕は気づいてしまった。
「三波ぃぃぃぃ!!! 組織を裏切ったお前をぉ! 今から断罪する!!」
「竹葉さん……あなたって人は!!」
沙優奈が襲い掛かってきた竹葉との戦闘を始める。竹葉の武装は、左手にナイフ、右手に拳銃という格好だった。どうやら警官達の無様な死を見て、銃を発射している様子はない。
竹葉は沙優奈に向かってナイフをがむしゃらに振り回す。沙優奈はそれらの斬撃を回避していく。僅かにできた竹葉の隙に、沙優奈が蹴りを入れる。
すでに、僕の脱出開始まで四十秒を切っていた。
「くそっ、てめぇ、どんだけしぶといんだ!!」
竹葉が毒づく。それでも竹葉は銃による愚かな行動に出なかった。使わない武装を何故いつまでも持っているのだろうか。打撃武器として流用するという方法もあるだろうが、動きを僅かとはいえ妨げているのは事実だ。
「そこだぁ!!」
僕はその言葉に氷ついた。そして、竹葉が沙優奈に突進し、その腹に銃口を突きつけた。
僕は、最悪の瞬間を想像した。
そして、それが現実になることも。
「やめろ……! やめろぉぉぉぉぉ!!!」
竹葉が引き金を引く。その銃口から銃弾が放たれ、沙優奈の腹を貫通する。貫通した銃弾は、そのまま樹木の改変したプログラム通りの軌道を描き、竹葉の頭へと吸い込まれるように突進した。
竹葉がその場に声もなく倒れ、沙優奈もまた、壁にもたれかかる。息が荒く、すでに目の焦点はほとんど会っていなかった。僕は、口を動かすのが精いっぱいで、声帯を震わすことができなかった。
「ごめん……瑠堕君……私、ここでリタイアみたい……」
沙優奈が寂しげな笑みを浮かべながら僕に話しかけてきた。その両目には、大粒の涙が溢れている。
「羽駕瀬!! 後十五秒だ!」
成火の声が鼓膜の片隅を震わせる。イヴェイション・クレはその光を更に膨張させ、マテリアは呼吸を整えながら更に押し寄せてくる多くのプログラムを、脳内で次から次へと捌いていく。僕は目の前で消えようとしている命を助けるどころか、寄り添うこともできないというのか……!
「今まで、ありがとう……叶わないって分かってるけど……瑠堕君。大好きだったよ……!」
その言葉を最後に、沙優奈の両目が、閉じた。
「沙優奈ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
僕の悲痛な叫びは、彼女に聞こえたのか、僕は確かめる術を持たなかった。自分の視界が少しずつ白けていく。――時間切れだ。誰かの声が、僕の鼓膜を僅かに震わせた。それが沙優奈の声だったのか、マテリアの声だったのか、成火の声だったのか、この場にいない誰かの声だったのか、それとも単に聞こえたような気がしただけなのかは分からなかった。
僕の体は、キューブの内部を覆い尽くす光に包まれ、そして。
この世界から、消えた。