17、知ること、決めること
翌日、ついに学校は週末の休みを迎え、僕やマテリアのような学生は二十四時間を自由に使える日だ。僕はこの週末の休日の間に、様々なことに決着をつけなければならない。そのうちの一つは、無論、マテリアのマスター、城野勾人の世界崩壊プログラムの実行を防ぐことだ。そのためには今彼らの手元に置かれているイヴェイション・クレを奪取しなければならない。
もう一つは、僕自身がこの世界から脱出すること。脱出のために必要なものは、今勾人の下にあるイヴェイション・クレ、そして、脱出のための重要人物、マテリア。イヴェイション・クレもマテリアも勾人の所有物だ。僕はどの道、勾人の研究所に再び乗り込まなければならない。
朝、時刻は八時半。平日に学校へ行くには少し遅めの時間ではあるが、休日に外に出るには少し早いとは感じるくらいの時間だ。今日はまず、早朝のうちに成火の下に赴き、今日の動きを確認するつもりだった。
「うわっ……と、瑠堕!」
「おおっと……樹木?」
だから僕は、自宅の門から飛び出した瞬間に現れた樹木に驚いた。加速し始めていたところを、急減速を掛けて停止する。急いでいるということをあまり知られたくなかったので、何気ない顔で樹木に応対することにした。幸い、時間には余裕を持って行動しているために、ここで立ち止まって与太話に興じる程度の時間なら持ち合わせていた。ここで樹木を振り払うのは、僕らの付き合いの長さゆえにあまりしたくなかった、というのもあったのだが。
「どうしたの?」
それでも、やはりあまりの長時間を樹木との話に使うわけにはいかなかった。こんな朝早くの時間に、わざわざここを通るとすれば、僕の家に用があったとしか思えないからだ。僕に用があるのか、僕の両親のどちらかに用があるのかは分からないが、もし僕ならば、少しくらいは話を聞くつもりだった。
「あのね、ちょっと話したいことがあるの。他の誰にも話したくないこと……」
樹木の目にはいつもはあまり見せることのない少し寂しげな目と真剣な眼差しが混じったものが見えた。僕は、場所を変えるべきか迷った。少なくとも、たった今出てきたばかりの家の中に戻って話したい気分ではなかった。
「少し、歩きながら話そう」
結局、僕が選んだのはどっちつかずのものだった。場所を移して話を聞くのではなく、場所を移しながら話を聞くことにしたのである。
「それで……話って?」
僕は、研究所の方へ歩きながら樹木の話の内容を聞くことにした。道路には、早い時間帯ゆえか、人通りは全くなかった。少なくとも家からすでに二、三分の間歩いているが、人一人にも会っていない。さすがに一人二人なら会うと思ったが、不自然すぎるくらいに人には会わなかった。
「あのね、瑠堕。私……その、知っちゃったの」
僕はそこで、僅かではあったが戦慄を覚えた。今目の前の少女が、今まで知らなかった、何か重大なことを知った。それが、もしや自分やマテリアのことなのではないのかと危惧したのである。だが、同時に、そんなはずはない、という根拠のない否定も行っていた。しかし、やはり僕の心を占めるのは、わざわざ出向いてまで言おうとしているその内容だった。
「――この世界が、偽物だってこと」
僕の心と視界が凍りつく。世界が一瞬、色を失う。何もかもがモノトーン調になったような気がした。全てが白と黒と灰色で埋め尽くされたような感覚が僕を包んだ。僕の体から汗が噴き出したような気がした。今までなかったはずのものが突如として現れ、今まであったものが音を立てて崩れる、僕は今、そんな局面に立たされていた。
「瑠堕が、この前、この世界が、幻想的なものだったらどうするって聞いたよね?」
「……うん」
僕は、すでに逃げ道がほぼ絶たれていることを悟った。この少女からは、言い逃れするのも馬鹿らしい。恐らく、この少女はすでにこの世界がまがいものであることを信じて疑ってはいない。彼女が聞きたいのが、きっと僕自身のことなのだと、僕は思った。
「あの時、瑠堕は、本当の世界に逃げるって言ったよね……瑠堕は、何でこの世界から抜け出したいと思ってるの? ここに今生きているんだから、ここで生きてれば――」
「樹木」
僕は樹木が僕に向かって声を荒げ始めたと思ったので、彼女の名前を呼ぶことでそれを断ち切った。恐らく、樹木は、僕が自分の問いに対して答えるものだと思っているのだろう。僕自身、そのつもりだった。
僕と樹木は、先日樹木の相談に乗った公園の前まで来ていた。僕も樹木も、どちらからというわけでもなくその公園へと足を踏み入れた。樹木が先日動揺にブランコに腰掛け、話を聞く準備ができたとでも言うように、顔を上げて僕の顔を見た。
「樹木、僕はね……元々この世界の人間じゃないんだ」
「えっ……そんなこと、信じられるわけが――」
「この世界がまがいものだと信じて尚か?」
僕は樹木が行おうとした反論をきっぱりと断ち切る。樹木がこの世界の正体を知った以上、多くを隠す必要などない。僕は樹木に更なる反論をさせる前に、この話題を一度切ることにした。
「樹木。この世界のことは……誰から?」
「お父様よ。私にある力と一緒にくれたの」
「力……」
「この世界の事象を改変する力だって言ってくれたんだ。この世界を少しだけ変えられるっていう力」
「そうか……御鹿野河家が発展したのは、偶然ではなく、必然ということか……」
御鹿野河の伝説的な発展のことは、瑠堕も良く知っている「ミカノガワ・オイルフィーバー」を始めとする数々の成功を収めてきた御鹿野河家。その裏には、そんなシステムプログラムに干渉できるシステムを保有しているということか。
つまり、彼らがやってきたことはゲームでいうチートと同じなのだ。そして、彼女もまた、その力を受け継いだ。
「事象改変ってことは、不自然なものごとを引き起こすことができるのか?」
「さっきから見せてるよ。この力」
そこで僕は、「やっぱりか」と呟いてみせた。恐らく、この公園に来るまでで誰一人ともすれ違うことがなかったのは、彼女の改変能力によって人が通らない道として設定されたのだろう。
「お父様は、これは世界を変える力になるって言ってくれた。変えた世界が、人々を変えるって……」
僕は今、大きな決断を迫られていた。この少女は、恐らく他者無言であるはずのこの力のことを、僕に話してくれた。つまり、この力の存在を知っているのは、御鹿野河の人間だけ、ということになる。それはつまり、城野勾人への対抗策に大きな力を持っている気がしたのだ。
樹木を、仲間に加え入れたい。
それが、僕自身のいつもの欲望や我が儘に基づくものだということは分かっている。それでも、そんな我が儘を言わなければ、全てを曝け出さなければ、誰も心を開いてくれない。
僕は、決断した。
当初、僕にまっすぐに向けていた視線がすっかり俯いてしまった樹木に向かって、手を差し出す。樹木が不思議そうにその手を見つめる。
「樹木。一緒に悪役になるつもりはないか?」
僕は、この世界そのものの悪であることをこう表現した。樹木がキョトンとした顔でしばらくその手を見つめていたが、ついに吹きだして笑い始めた。
「ぷっ、ふふ……瑠堕は、ホントにこの世界から抜け出したいって思ってるんでしょ?」
「もちろんだ」
「だったら、手伝うのは当然じゃん。だって、私たち友達なんだからさ!」
樹木が、僕の手を取る。僕はその腕を引いて樹木を立ち上がらせる。樹木は今日のうちで一番の笑みを僕に見せていた。本当に、腹の底から笑っているような、そんな笑顔だった。
「ははっ……じゃあ、よろしく頼むよ、悪役三号」
「あらら、もう一人いるの?」
「皮肉屋な科学者」
「ふふっ、もう、ほんとに悪の幹部だね」
「まったくだ」
僕は、そんな笑い話を自分自身の思いでの一つとして格納することにした。そして、僕は樹木を連れだって研究所へと走り出した。朝、家を駆け出ようとした時よりも柔らかな気持ちで、それでいて、更に硬い決意と共に。
「それで……なんでお客様をお招きしているんだい?」
僕と連れ立って入ってきた少女に目をやると、額に手を当てながら「なんてこった」というポーズをしている。どうやらそれほどまでに樹木の存在が信じられなかったのだろう。
「あ、あの! 御鹿野河樹木っていいます! よろしくお願いします!」
「樹木。この人に敬語使わなくていいよ」
僕は軽口程度に樹木をたしなめたが、僕の言葉に成火が一斉射撃を開始する。
「おやおや、それが僕に絶対服従を誓ったかい?」
「誓った記憶なんて欠片もないんだけどね」
だが、僕も成火に言わせっぱなしというわけでもない。すぐに反論を行い、会話のペースを成火に持っていかれないように奮闘する。樹木は、僕と成火にとっては当たり前のような押し問答を半ば呆気にとられて見ていたようだが、やがてそれが僕達の普通の光景なのだと理解すると、少し笑った。どうやら、この場にはすでにかなり打ち解けてきたようだ。
「真木乃成火だ。よろしく頼むよ。御鹿野河のご令嬢」
僕との会話の中での人の悪い笑みのままに、成火は樹木の方を向いて、自己紹介を始めた。樹木はいきなり話を振られたせいもあってか、少ししどろもどろな状態で、自分が先に挨拶していたにも関わらず、「え、あっ、はい、こちらこそ」なんて返していた。だが、樹木は「御鹿野河のご令嬢」なんて、名家を利用した物言いに少し顔を顰めた。
「いやいや、もちろん分かってるさ。これは君をからかう時限定だからね」
「約束してくださいよ……もう」
はて、成火が人をからかわないことなんてほとんどないはずだが、と思ったが、それ以上は言っても意味がないと(あと、面倒だと)判断して、それ以上は敢えて口に出さないことにした。
樹木は、自分から改変能力のことを成火に告げた。この能力は、今回の作戦に大きな影響を与えることは間違いなかった。
「――つまり、その能力ならば、『自分が撃った銃弾が自分に向かってくる』世界にもできるわけだね」
成火のこの言葉に、さすがに樹木も驚いたようだった。自分の力の使い方のうちに、そんな使い方があるとは思わなかったのだ。樹木の驚きはもっともなものだったが、成火の方は、その案を真剣に取り入れようとしていた。確かに、成火の言うように、世界を相手にとって理不尽過ぎる世界にすることは簡単なことなのだ。
「樹木。樹木には主に敵の足止めをしてほしいんだ。相手側の警備は何十人もの警官隊だ。もし、真木乃博士が言うような、銃弾の軌道が必ず自分に向かってくる、という世界なら、警官隊は手も足も出ない。接近戦闘に持ち込んでくる可能性もあるけど……そこは、『警官の近接攻撃は全て壁に向かって行われる』みたいな設定にすれば、問題はないと思う」
「なるほど……」
樹木が僕の作戦に対して、頷く。樹木が敵に足止めをしてくれれば、僕は他に邪魔入れさせることなく、城野勾人と対峙することができる。彼の横にはマテリアが控えている。実質、僕は二対一という数的不利、しかも戦闘能力で大きく劣ってしまう相手と対峙しなければならない。
だが、それでも、やらなきゃいけない時がある。僕と一緒に戦ってくれる人間がいるのだ。僕がやらなきゃ、誰がやる。
「作戦は決まったようだね」
成火がにやりと笑ってみせる。僕も樹木も、その笑みに真剣な顔で頷き返す。向こうで、僕が二人と対峙するとき、僕はあらゆる手段を使って世界の崩壊を止めなければならない。
「作戦の開始は三時間後、大丈夫だよね、樹木?」
「うん。瑠堕の目的、絶対にかなえてみせるから。それが、世界を変えるってことになるんだから」
「頼りにさせてもらうよ。樹木」
僕は自然と僅かな笑みをこぼしていた。成火はすでにコンピュータの方に歩き出し、こちらは一切視界に捉えようとはしていない。樹木は、その両頬を僅かに紅くしながら、小さく頷いた。
「どうした?」
「べっ、別に! 私トイレいってくる! 博士さーん、トイレってどこですかー?」
「この向かい側」
「はーい」
樹木は未だに顔を赤くしたまま、研究室から飛び出し、トイレへと駆け出していってしまった。
僕は懐からイヴェイション・モーターを取り出す。樹木が事象改変の能力を持つとして、僕が持つ力は瞬間移動の能力、とでもいうところだろう。僕はゆっくりとモーターを握る。目を閉じ、深呼吸する。僕が、この世界が科学者の手によって破壊される運命を切り捨てて、僕自身は現実に帰還するという運命を掴みとらなければならない。
僕は、決意の目をゆっくりと開いた。