15、人と世界
僕が飛んだ先は、成火の研究所の中だった。僕がいきなり現れたのを見て成火は少なからず驚いていたが、それよりも僕がすぐに倒れ込んだことの方に驚いたようだった。
「羽駕瀬瑠堕!」
成火は行っていた作業を中断して僕の方へと駆け寄ってくる。僕は支えられながらなんとか体を起こし研究所の壁にもたれかかった。全身の力が抜けていく。ここまでの疲労が一瞬のうちに僕を包んだ。幸いにもマテリアのタックル以外には何かしらのダメージを受けたわけではないので、外傷はほぼないに等しい。僕が感じているのは肉体的疲労及び精神的疲労だ。
「ごめん……少し休めば、大丈夫だ……」
僕の自宅の住所は、少なくともマテリアに知られている。柔らかくとも無防備な自室のベッドよりも、固い床しかなくても場所が割れてないこっちの方がまだましだった。
「全く、無茶してくれるよ……」
僕が本当に疲労だけで倒れただけだと理解したのであろう成火はゆっくりと息を吐きながら、やれやれと首を振ってみせた。
「それより博士。マテリアのマスター……城野勾人と会った」
「……そうかい。勘に触る男だったろう?」
「あなたが言えた口か」
僕が叩く軽口を、成火は軽く流してなかったことにした。少し口元を歪ませ、皮肉るように勾人のことを言っていたので、僕はその流れで笑ったということにして無理やりな解釈で自分を納得させることにした。
「あの男、この世界の崩壊を行うつもりらしい。プログラムのインストールには三日も必要ないって言ってたな」
「インストールが開始された以上、残された手段はイヴェイション・クレの奪取か。厳しいね」
「やるなら、翌日にでも実行する」
「もし奪取に成功したのなら、当日中に脱出できればいいんだろうけどね」
「問題はマテリアだな……」
彼女の力がなければ、この世界からの脱出は叶わない、と成火は言う。どうにかしてマテリアが僕らの力になってくれればいいのだが、とても方法が思いつかない。
「とにかく、最悪でもイヴェイション・クレだけは持ちかえる必要があるね。モーターのことは割れてるのかい?」
「いや。発光弾の中で使ったから、その姿を実際に見たってやつはいないはずだ」
「なら、勝機はまだ残ってるね」
成火が不敵な笑みを浮かべながら僕の視線を伺った。僕もまた、似た表情を成火へと返した。モーターはこちらにとっての切り札ともいえるものだ。最大の敵にその正体が知られていないのは、僕にとっては好都合であった。
「イヴェイション・クレが城野の手に渡っている以上、ここはトルネリアを利用するのも手かもしれないね」
協力ではなく、あくまで利用という考え方をするのは、いかにも成火らしい、などと僕は心中笑っていたのだが、成火はそんな僕の心情など知り得なかった。ただ自分の一意見に、僅かながら自己満足しているようだった。
羽駕瀬瑠堕が学校から出てきたころ、彼より一足早く学校を出た御鹿野河樹木は、帰宅した直後に父から呼び出しを食らった。もちろんそれは父から直接ではなく、使用人伝いに伝えられたものだったのだが。
樹木はこの日が来ることを覚悟していた。そして、彼女は呼び出された瞬間に思ったのは、「何だろう」ではなく、「ついに来た」だった。
自分が父からぶつけられた質問。それの意味を、彼女は考えた。この世界に生きる意味もまた、考えてみた。全てのヒントは、瑠堕からのものだった。世界を知るということ。それによって持つべき自分自身の意志。
父の部屋の中で、樹木は武者震いをした。根拠はないのに、なぜか父を言い負かせられるような、そんな気がしていたのだ。
「樹木。先日のことは、考えてきたか?」
「はい。できる限りは考えてきました」
根拠のない自信ゆえに、樹木は無意識のうちに逃げ道を作っていた。全く持って、「できる限り」という言葉は何て都合のいい言葉なのだろうか。
「その前に一つお聞きしたいことがあるのですが……よろしいでしょうか?」
樹木はやや遠慮気味に父に質問の認可を求める。父は「構わないよ」と一言返すと、樹木は父への逆質問を開始した。
「この世界が……人に作られた世界だと仮定してお話しても構いませんでしょうか……!」
父が少し驚きを湛えた顔をしていた。樹木には父が何に対してそんなに驚いたのかは分からなかったが、一度ゆっくりと頷いたのを見て樹木は自分の意見を、父に話始めることにした。
「お父様は以前、おじい様の言葉をお借りしてましたよね。人が世界を作り、世界が人を作ると」
「ああ」
父はそれだけ言って頷く。どうやら今回は主に聞く方に回るつもりのようだ。だが、樹木にとってはそちらの方がやりやすかった。自分の意見を必死に紡ごうとしてる合間に口を挟まれた前回の対話に比べれば、難易度は一気に下がっていた。
「その言葉の意味、私は少しですが、理解できた気がします。誰かに作られたこの世界。そこに生まれた私たち。けど、作られた世界を変えていくのは私たち人。そして誰か、たった一人であっても、人が世界を変えると、変わった世界に合わせて、人もまた変わっていく。人が世界を作り、世界が人を作るとは、そういうことなのではないのですか?」
自分で言うのはあれだが、そこそこの自信は感じていた。父は小さく何度か頷きながら樹木の言葉に耳を傾けていた。そして、そのまま次の意見を述べるようにと諭してきた。樹木は父がそう言ってきたのを、勝ったと判断した。少なくとも現段階で、自分は父を言い負かしているのだと感じると、先ほどのような武者震いが再び全身に襲い掛かってきた。
「私は……私たちがこの世界にいるのは、そうして世界を変え、人々を変えていく為なのではと、私は考えました。事実、おじいさまによって、世界は変わり人も変わりました。人を変えるために、世界を変える。これが、私たちが生きる意味だと、私は思いました」
父は樹木の言葉が止んでからもしばらく黙ったままだった。窓の外の風景を以前と同じように眺めながらどこか虚しそうな、寂しそうな表情だった。樹木もまた、父からの言葉を黙って待った。静寂が樹木と父との間に訪れる。樹木は待つ。言い負かしはしたが、この人は忍耐力すらも計っているような気がしていた。もしここで口を開けば、負けのような気がしてならなかった。
時間は過ぎる。部屋の壁にかけてある、アンティークな振り子時計が音を立てる度に、待ち時間と樹木のいらいらを蓄積させていくのを感じる。樹木が折れるか、父が折れるか。先ほどからろくな会話もしていないのに、すでに場はそういう雰囲気に包まれていた。
「樹木」
父が口を開いた。樹木は自分が忍耐力の面で父の上を言ったのだと感じた。もちろん、父が試すために待っただけかもしれない。本当は更に長い時間黙り続けることができるのかもしれない。だが、今の樹木には父の限界など関係なかった。今この瞬間に、父が折れたことが重要だった。
「はい」
名前を呼ばれた樹木の声は自信に満ち溢れた声だった。父がそんな樹木の声を聞いて何を思ったのかは、知るすべなど存在しなかった。
「この問いに、正確な正解、というものはない。だが、お前の答えは、間違いなくお前の意見だと感じた。お前の答えは正解だ。お前になら教えてもいいだろう」
「……?」
とりあえず、自分が認められたことは確からしいが、後半の言葉の意味は樹木にはすぐに理解できないものだった。
「樹木、こちらへ来なさい」
樹木は父の手招きにまるで操られたようにふらふらと進んだ。父が左手で手招きする間、右手で何かしらの操作をコンソールで行っていたようだが、樹木にその操作の意味を理解できるはずもなく、ただ事の成り行きを見守るしかなかった。
操作を終えたのか、父はコンソールの画面上に表示された最終確認画面のOKボタンをタッチする。樹木は微振動と共に正面に視点を戻した。樹木は、ありきたりでありながら予想外の仕掛けに驚くことになった。
「か、隠し……エレベーター……?」
本棚がゆっくりとスライドしていき、その後ろから扉が出現したのである。扉は下に向かう旨のボタンと、恐らく指紋認証と思われる装置が脇の壁に埋め込まれている。父が指紋認証を済ませると、エレベーターのシステムが起動し、脇に埋め込まれていたボタンが僅かに発光する。父がそのボタンを押すと、エレベーターの扉が開く。エレベーターの中に躊躇無く入っていく父につられるように、樹木もエレベーターに乗り込む。父は樹木がエレベーターに乗り込んだのを確認すると、扉を閉じてエレベーターを動かし始めた。
エレベーターの中は特に広いわけではなかった。恐らくは一人、この広さなら多くて三人程度しか入れない構造になっているようだ。恐らく、その程度の人数にしか教える必要がない、ということだろう。樹木の推測では、このエレベーターの存在を知る者は極限られた者達だろう。恐らくは、御鹿野河の直系の者達、養子などを完全に除外した、御鹿野河の子にしか伝えられていないのかもしれない。
「このエレベーターは地下三十メートルの場所まで下りる。高速エレベーターを使用してはいるが、少し時間が掛かってしまうから、我慢してくれ」
「はい、構いません」
樹木は父からのエレベーターの説明に対しそれだけを返すと、ほとんど変わることのないエレベーターの景色に視線を映した。樹木はこの風景に飽き始めてはいたのだが、それほどの機密事項なのだと言い聞かせて、エレベーターの到着を待った。
エレベーターがついに地下三十メートルの地点に到着した時、樹木は腕をゆっくりと腕を伸ばしたい衝動に駆られたが、ここは自宅で、しかも父の前だ。彼がそんなことを許すはずがないだろう。事実父は、到着後は首を回すことさえなく歩き出した。エレベーターの中では直立不動であったにも関わらず。
樹木は一つ息を吐いただけでなんとか誤魔化し、エレベーターを降りた。
そこにあったのは、一つの巨大な装置と、それをかろうじておけることができるほどの部屋だった。恐らく、この装置がこの御鹿野河の最重要機密事項なのだろう。
「お父様……これは……?」
樹木は溢れる好奇心を口にすることで、途中で切り捨てる形にすることができた。あまり溜めこみ過ぎて妙な行動を起こすよりはましだろう。
「これは、御鹿野河の中でも、認められた人間にしか見せず、扱わせることができない御鹿野河の最終兵器とでもいうべきものだ」
つまりは、樹木の考えもまた、間違っているわけではないらしい。父はゆっくりと装置へと歩いていく。その足取りには迷いの欠片も見て取れない。無論、樹木もその父の後に続いていく。
「お前の兄姉は、この場所にたどり着けなかった。私の子としては、ここに来たのは樹木、お前が初めてだ」
樹木はその事実に驚かされた。てっきり自分の兄や姉も同じ道を通ったものだと思ったからだ。一族が必ず通る道であると、そう思っていたのだから、自分だけしか来たことがないというその事実が、樹木に紛れもない優越感を与えたのは本人も自覚していた。
「樹木。お前が言った通りだ」
「……何のことでしょうか……?」
樹木は、自分の何が言った通りなのかを理解するのは難しかった。それは父の口から聞いた方が早いと思ったので、父に聞き返した。
「この世界は、本当の世界ではない。誰かに作られた、単なる巨大なシステムプログラムに過ぎない」
「え……」
樹木は父の突然の告白に対して半ば絶句するしかなかった。今、目の前にいるこの人は一体何を言っているのだろうか。先ほどは、あくまでこちらが仮定しただけの話だったのにう、本当はそれは事実だったとでも言うつもりなのだろうか。
「突然のことで戸惑うかもしれないが、これは事実だ。そして、我々はそれに干渉する権限が与えられている」
「権限……といいますと?」
樹木は未だに父の言葉が信じられなかったゆえに、少しずつ父の言葉をひも解いていくしかなかった。
「この世界のプログラムを我々の意識で若干だが改変できるということだ」
「それは……」
樹木の体は、父の自室に入って自分の意見を言おうとしているときとは違う震えに襲われていた。これは武者震いなどではないということが、樹木自身にも分かっているが、止めることができなかった。
父は、樹木の疑問に答えた。
「そうだ。これは、世界を変えられる力だ」