13、トルネリア
途絶えた通信を見て、沙優奈の顔は青ざめていた。僕は彼女の精神状態も不安定なことになっていると、見ただけで分かった。口元が震え、顔色が悪い。先ほど僕と会話していた時も、別段良いわけではなかったが、今この瞬間は間違いなく先ほどの比ではないほどに顔色が悪い。
「沙優奈、大丈夫か……! 顔色が悪い……!」
それは彼女も自覚しているだろう。だが僕は、それならば尚更に彼女に声を掛けるべきだと思ったのだ。だが、沙優奈が僕に返してきた言葉は、僕の予想に反するものだった。
「ねぇ瑠堕君……トルネリアで、私と……私たちと一緒に戦って……そうすれば、クレのことも……!」
「沙優奈。君は言ったよね。僕の味方だと」
「そう! 私は、瑠堕君の味方だから、だから――」
「君が僕の味方でも、僕は君の味方じゃない」
沙優奈ははっとして僕の顔をじっと見つめた。僕の目は、自分でいうのはあれだが、いつにもまして鋭くなっていた。それは、誰かと打ち解ける目ではなく、誰かを敵視するような、睨みだった。
「もし君が、本当に僕の味方なら、僕と戦うのなら、トルネリアを裏切ってでもついてくればいい」
僕は俯き気味にそう続けた。僕は最低だ。最低最悪の男だ。目の前で助けを求める一人の少女に手を差し伸べてやることもできない。
「君の賢明な判断を期待してる。さよなら。沙優奈」
僕は、彼女にその一言だけを告げると、この部屋での最後の言葉を、自分自身に向かって言った。
「イヴェイション」
それは、別れの言葉。
僕は、脱出という言葉が逃げるという意味に直結することを、白めく視界の中で思い知った。
僕はイヴェイション・モーターで一度自宅に戻ると、靴を履いてから、再び瞬間移動を行う。行き先は成火の研究所。本当は内部に飛んでもいいのだが、セキュリティロックを解除してから入らないと侵入者扱いされて内部の巡回のロボットから容赦ない攻撃を受けることになってしまう。研究所正面入り口の全てのセキュリティパスワードを入力して、内部へと走りだす。最奥の研究室のドアを開き、成火へと叫ぶように状況報告を求めた。
「真木乃博士! 通信機の逆探知は!」
「終わってるよ。座標もある程度特定できた。あと、襲っているのはやはり彼女のようだね」
そこにいつものような皮肉は込められていなかった。逆探知のデータを基に作られたマップデータが研究所の内部モニターに映し出される。こういう特定作業は、成火の得意分野であることを知っていた僕は、何の疑いもなくそのマップデータを僕の端末へとコピーする。端末にデータが完全にコピーされたことを確認すると、成火に背を向けて走り出そうとする。
「羽駕瀬瑠堕!」
僕は成火が呼び止めたのにかろうじて気がついて足を止めた。そして、振り返った僕の手に成火から投げ渡された銃が収まった。
「これって……!!」
「安心していいよ。それは目眩ましのための発光弾が六発入ってるだけだからね。緊急用にだけ使えばいいさ」
今度こそ成火は皮肉な笑みを浮かべた。僕は、最後の最後で彼がいつもの彼らしく振舞ってくれることを嬉しく思った。僕はにやりと笑って成火の皮肉に応じてみせた。
「実にあなたらしい武装だ」
「武運と無事だけは祈っておくよ」
「ありがたく受け取らせてもらう」
僕は成火に背を向け、走り出す。マップデータに視線を走らせ、表示された座標の近くにはコンビニがあったことを思い出した。僕はその場所をイメージしながら、イヴェイション・モーターを握りしめた。決意を込めて、飛び立つための言葉を、発する。
「イヴェイション!!」
僕は、飛ぶ。
飛んだ先では、小さくはあるが、通りかかった人がざわついていた。幸い、すぐに人の目につくような場所には飛ばなかったのだが、それでもその喧騒が聞こえてくるのは感じていた。僕は道路沿いに出た後で、マップデータを確認する。ここからは北の方角。僕は走り出す。人の目を気にしている暇はなかった。そこそこの大きさの建物を見て、僕はそれがトルネリアの本部であることをマップデータとの参照も合わせて確認する。正面入り口は不用心にも大きく開かれている。いや、沙優奈とトルネリア構成員の話でいえば、ハッキングによってこじ開けられた、ということらしい。
僕は開けられたままの入口から一気に突入する。迷いも躊躇もその時の僕には存在していなかった。
建物の中は、壁際に置かれた物はそのほとんどが倒されており、まるで強盗が入ったかのような後だった。いや、今まさにその強盗が侵入しているのだ。ここの荒れ具合や片付けを気にしている余裕などないだろう。彼ら――トルネリアには、少し高い程度の置物よりも、大事で、守らなければならないものがあるのだ。
「これは酷いな……一体どこまで進んだんだ……?」
僕が一歩遅れてここに足を踏み入れたとはいえ、ここでも戦闘があった形跡があるのだ。こうも簡単にいくとは……。
僕は、遠くで戦闘の音が響くのが聞こえた。物が割れる音。壁に打ち付けられる音、そして、悲痛なまでの叫び声。
どうやら、まだトルネリアはマテリアとの戦闘を繰り広げているらしい。マテリアは単騎でも十二分な戦闘能力を有している。これは彼女が僕とは似て非なる『万能』の持ち主故なのだが、それにしても戦闘能力が高い感は否めない。普段の彼女はここまでの戦闘能力を見せるとは思えない。何かしらの戦闘学習プログラムでも導入されているのだろうか。
僕は通路を進むうち、T字路に差し掛かった。僕の目の前の分岐は、直進するか、右折するか、来た道を戻るかの三択となる。直進方向に人影はない。むしろ、右折方向から先ほどの喧騒が大きくなったものが鳴り響いている。恐らく、ここを曲がれば、そこはもう戦場だ。
僕には戦闘能力はない。武装しているのは成火から貰い受けた発光弾を発射する拳銃、そして、トルネリアの者達と同じ条件であるイヴェイション・モーターだ。僕は壁にぴったりと体をつけて、右折方向の通路の様子を、僅かに顔をはみ出して伺い見る。そこでは少女――マテリアが一対多数の大立ち回りを演じている。複数の方向から同時に攻撃を仕掛けられても、それらを、その身を軽々と翻して対応していく。そのなめらかな動きだけを見ては、とても彼女がアンドロイドだとは思えないほどだ。
人が持つ、アンドロイドの印象は、未だに決められた動きをぎこちなくすることしかできない、二足歩行の『ロボット』というものしかない。だからこそ、アンドロイドでありながらここまでの動きを行える彼女は異質なのだ。トルネリアの者達はそのことに気づいているかどうかは分からない。恐らくマテリアのことだ。ここまで何一つ口を開いていないのだろう。
しかし、僕は知ってしまった。恐らく知ってはいけないことを。
「おい、マテリア! お前正気か!?」
聞き覚えのある叫び声。数時間前に聞いていた気がするその声の主もまた、戦いの中にいるのか、あまり多くを語る暇がないように思える。僕は再び通路を覗き見て、その正体を確かめた。
間違いなかった。僕は、知ってしまった。
戦いの輪の中に僕の友人――雨三野晴人がいることを。
僕の心に動揺が走ったことは言うまでもないことだった。きっと裏では関わることがないと思っていた友人が、今、目の前で僕の敵となって戦いを繰り広げている。僕は一度その光景をまじまじと見続けることになってしまったが、今のこの状況を改めて理解し、気持ちを律する。動揺は隠せないし消せない。それでも、押さえつけることはできる。それを修得できるだけの時間、僕はこの世界で奔走してきたのだ。何も恐れる必要なんてなかった。
見たところ、やはりトルネリアの方が一歩押された状態にある。数の有利を生かし切れていない。恐らく、元々決められた作戦に基づいて動くような組織戦は得意でも、侵入、しかも奇襲してきた相手を撃退するための防衛戦は苦手と見える。いや、そもそもの前提が違うのかもしれない。組織で動いている以上、相手は常に複数人だったはずだ。逆に言えば、一対多数の戦闘を想定していないと見える。もちろん、想定していたからといって、今この状況が百八十度流れを変えていたかと言われてると、そういうわけではないだろう。
マテリアはアンドロイドという制約の枠に囚われているが、人としての限界という枠など、彼女にとってないに等しい藁の檻だ。劣勢になるとは思えなかった。
その時、取り囲んでいた者達が倒された。それによって開けた視界の先に、一つの巨大な装置と、そこに取り付けれられた小さめの装置の姿が目に入った。あの取り付られている小さな装置こそが、イヴェイション・クレ本体だろう。恐らく、あの巨大な装置はそれ自体を本体だと思わせるためのフェイクだ。あれは、イヴェイション・クレとトルネリアのコンピュータを直接接続するための外装だろう。何せ、イヴェイション・クレは『脱出の鍵』なのだ。どこに鍵を据え置く輩がいようか。
僕は、満を持して飛び込んだ。
「イヴェイション」
瞬く間に僕の体は移動し、イヴェイション・クレの目の前に降り立つ。僕は、クレそのものや取り外しの際にロックが掛けられてないのを確認すると、ゆっくりと『カギ』に手を掛ける。
しかし、物事はそう簡単には進んではくれない。
纏わりついてくるトルネリアの構成員をなぎ倒したマテリアが僕の眼前に躍り出た。
「ミスター瑠堕。あなたにこれを渡すわけにはいきません」
マテリアは僕の体に向かって全身の体重を乗せたタックルを繰り出す。僕は大きく吹き飛ばされ、地面に仰向けに転がることとなった。
「瑠堕……どうしてここに……!?」
僕の存在にようやく気付いた雨三野が、僕の姿を見て驚いた表情のままに固まっている。無理もないだろう。まさか僕がイヴェイション・クレを取ろうとしていたとは夢にも思わなかったのだろうから。
「任務完了」
しかし、僕がそれに答える前に(元々答える気はなかったのだが)、無慈悲なまでの任務完了の言葉が耳につく。トルネリアの構成員たちのほとんどは未だに立ち上がることができない。マテリアならば、この中を通り抜けていくのは造作もないことだろう。そして、それは口惜しくも当たることとなる。マテリアは悠々と誰も阻まない道を進んでいき、通路の影に消えた。
「くっそ……!」
僕は先ほどの痛みを押し殺して立ち上がる。僕は戦闘経験を持っているわけでも、何かしらの素質があるわけでもない。だが、ダメージを受けたのは先ほどの一回のみ。散々戦い続けたトルネリア構成員よりかは、まだ動くことができる。
「おい、待て!」
しかし、マテリアの道を阻むことはなかったのに、僕の道を、なぜかトルネリア構成員たちは阻むことに成功した。
「お前、奴の仲間か!」
おそらく、声からしてこの男が、さきほど沙優奈と通信していた竹葉という青年だろう。だが、竹葉の質問は、僕にとって不愉快でしかなかった。
「そんなのはさっきのことを見ていれば分かるでしょう?」
さっき、というのは、僕がマテリアから攻撃されたことだ。竹葉が押し黙る。
「瑠堕……なんで火事場泥棒みたいな真似を……」
この場で唯一、僕を知っている人物――雨三野が尚も驚いた表情のままに問いかけてくる。見れば、僕はすでにトルネリアの構成員たちに取り囲まれていた。僕は、完全に逃げ道を失っていた。僕は俯いたまま、それに対する答えを他人に押し付ける形で応対した。
「詳しいことは、三波沙優奈にでも聞いてくれ」
だが、そこに来て押し黙った竹葉が僕の胸倉を掴みあげた。見た目に反して予想以上の筋力だった。両足が僅かに浮き上がる。
「三波!? 何でそこで出てくるんだ!!」
だが、ここで問い詰められてこれ以上の足止めは食らいたくなかった。僕は掴みあげられた胸倉をぶんぶんと振り、両腕で払いながら怒鳴りつけた。
「僕は彼女を――マテリアを追わなきゃならないんだ! 今お前たちに構っている暇は――ないっ!!」
竹葉の拘束を振りほどくと、僕は脳内にこの施設の入口をイメージしながら、文字通りの脱出を図った。
「イヴェイション!!」
その言葉は、トルネリアの者達にとっては予想外という言葉以外には表しようのない言葉だった。
「な、何故その――」
竹葉の言葉を最後まで聞く必要なんてなかった。だから、僕は白む視界とかき消されていく音に満足していた。
そして、僕はトルネリア本部の入口に降り立った。視界の隅に、走り去る少女の姿が映った。
僕は、絶対に負けない。逃がしてなるものか。
僕はイヴェイションと自身の足とで、マテリアの追跡を開始した。