12、決戦を前に
翌日。いつも通りの朝。いつも通りの朝食。いつも通りの登校。いつも通りの授業。僕の決戦となる今日この日の午前は、いつもと何の変わりもない金曜日となっていた。朝に教室で顔を合わせた時、樹木は昨日のことに触れてほしくなかったらしく、僕が朝の挨拶をするのに、同じ言葉で挨拶を返しながら、人差し指を自身の口の前に持っていき、口止めのポーズをしてみせた。もちろん僕の方はあまり大袈裟なリアクションはせず(したら周りに問い詰められる可能性があったからだ)、ただ小さく頷くだけでその場を終えることにした。
授業そのものも順調に消化されていき、最後の授業を終えて僕は大きく伸びをした。腕を落とし、今日は何かに誘われなければいいけどな、と思いながら帰り支度をしていた。
「あ、瑠堕。今日はゲーセン、行かないからな」
だから、僕は雨三野からのこの言葉には苦笑いと共にほっとするしかなかった。だが、逆に僕は首を傾げることになってしまった。雨三野はよく、週の始めと終わり、学校があるとはいえ、その二日は必ず僕を誘うくらいには遊び人であるのだが、今日は何かしら用事があるのだろう。正直、僕は今週の始めの月曜日の誘いは断っていたので、二回連続で断る必要がなくなったのは僕にとっては友を傷つけないまたとない幸運であった故に、僕は友を気遣う言葉で返すことにした。
「いやいや、気にするな。いつも断るのは僕の方だしね」
「悪いな。じゃあな、瑠堕~」
雨三野が軽く手を挙げて僕に別れを告げる。僕もまた「ああ」などと少し脱力気味ではあったが返事を返し、同じように軽く手を挙げて応答してみせた。
すでに教室にはよく話をするような人間は一人も残っていなかった。それぞれがグループとなって、一週間の授業の疲れを遊びに塗り替えようと週末の予定を話し合う者達がほとんどだった。無垢な少年たちは、その遊びが更なる疲労に繋がることを理解していないのか、あるいは、理解しても尚、その欲求に耐えられないのか。
僕にとっては、この世界で遊ぶ、等ということはあまり意識したことはなかった。マンガやゲームのような娯楽の物にはほとんど興味を示そうとはしなかったし、今でもそうだ。ネットに接続している環境といっても、そこで掲示板や動画サイトに飛ぶわけでもなく、そのほとんどの時間は電子書籍の閲覧とその購入に時間を割き続けていた。そうではない時間は、大体はプログラムの修練に勤しむか、それに関連した調べものをするぐらいだったのだ。
だから、雨三野や樹木との付き合いでゲームセンターにいくことはあっても、基本は見るだけ、付き合いの意味も込めて少しばかり金銭を消費することはあったが、何かに自主的に挑戦したり、のめり込んだりすることはなかった。無関心、というのが一番簡単で、尚且つ人聞きの悪い言葉であることは、そうである僕が重々承知であった。
「無関心か……」
僕はゆっくりと自分の席から立ち上がった。自分が無関心人間だと思うと、どこか笑えてきた。僕は、自分が物事に対して怠惰な人間であることを苦しいほどに重く自覚している。だから、怠惰で無関心という、好奇心の欠片もない性格な自分に心底笑えてきたのである。
そんな内なる笑いを表に出さないよう、ポーカーフェイスのままに、週末の到来に騒ぐ少年たちの横を通り過ぎていく。
廊下にもまた、少年達と同じように、週末の遊び話に花を咲かせる高校生たちが目に留まる。男子のみ、女子のみ、男女混合、様々だ。だが、今の僕にはそれらが本当にどうでもいいことに見える。そして、幸せなやつらだな、と嫌みなことを思ったりしてしまう。彼らが何かをしたわけではない。ただ単に、今を生きているだけだ。そこに何かしらの思惑があるわけではない。むしろ、思惑がある人間がいたら僕の方が恐怖してしまうかもしれないくらいだ。彼らはきっとこの世界を構成するパーツの一つに過ぎない。それを彼らが自覚しているのかどうかはまた別の話だ。だからもし、僕が脱出すると同時にこの世界が崩壊したとしても、彼らの痛みも恨みも受けられないし、彼らへの謝罪など、客観者には馬鹿馬鹿しいと冷たい目で見られるだけなのだ。
僕は今まで勉強してきた教室にちらりと目をやる。整然と置かれているようで、やはり週末の楽しみを抑えられない者達によって、一部の机や椅子の位置がずれてしまっている。僕は教室から目を背けて歩みを進め続ける。
階段を下りていき、校舎の一階に降り立つ。出迎える人も見送る人もいない。当然と言えば当然のことであるし、僕自身も誰かに見送ってほしいとは思わなかった。
僕は、間もなくこんな日常が終わってしまうのだという喜びと恐怖に苛まれていた。今まで、この世界の人間は僕に他者と何の変わりもない接し方をしてくれた。好かれもしたし、嫌われもした。望まぬとも人の上に立ったことがあったし、誰かの下で作業することもあった。僕にとっては、少なくとも現実世界よりも長く過ごしたある意味での現実だ。
だけど僕は、この現実を全て受け入れるわけにはいかない。
確かにこの世界で僕は育った物心がついてから少しして、僕はこの世界の人間となり、この世界の人間として生きてきた。けど、僕はこの世界で生まれたわけではないのだ。
僕は、この歪んだ『現実』からの逃避を実現しなければならない。
僕は、いるべきはずの『現実』への逃避を実現しなければならない。
僕の行動の根幹を成しているその思いは、決戦を間近に控えて、尚揺るぐ気配はない。揺るがすつもりなど、欠片も存在しないのだ。
僕は一度家に戻り、制服を脱ぎ捨てて着替えると、先日会ったばかりの少女へと、僕の携帯端末から発信を行う。コールは三回で繋がった。
『もしもし、瑠堕君? どうしたの?』
「沙優奈。今日、会って話したいことがあるんだけど」
『いいよ。私の部屋でいい?』
「それは構わないけど……」
『じゃあ、ちょっと片付けるから、五分くらいしてからきてね』
「了解」
そこで僕は通信を切った。あと五分。そこからが僕の本当の戦いだ。今までこの世界で生きてきて、それが壊れるまでが、あと五分なのだ。この世界に思い出がないといえば嘘になる。十年以上もの間過ごしてきた場所だ。思い入れはもちろんある。親しくなった者達もいる。両親は、我が子の如く愛してくれた。それが偽りの愛だとも知らずに。僕のために、涙を流してくれた人もいる。僕はこの世界最大の幸せ者で、この世界に対する最大の不孝者だ。
僕はきっと、最低な人間だ。自分のことしか、考えていないのだから。
でも、最低な人間にでもならなければ、僕は僕自身として生きることができない。死ぬことができない。
僕は両拳を硬く握りしめた。先ほどの通話から、間もなく五分が経過しようとしている。僕はゆっくりと立ち上がった。改めて、十年もの間僕と人生を共にした部屋を見渡した。パソコンは何度も買い換えた。クーラーは二度、買い換えた。ベッドは十歳の時に買ってもらって以来、ずっと同じものだ。
握りしめた拳を一度ゆっくりと力を抜き、パソコンの横に置いてある無機物を手に取ると、再び強く握りしめた。その手に握られた無機物は、すでに起動準備を完了させている。
僕は、覚悟を決めた。
「イヴェイション」
目指すは、近くて遠いあの現実。
僕の視界は、瞬く間に白一色に染まっていき、部屋から僕の姿を消した。
次に僕が意識を取り戻した時、僕は沙優奈の部屋の中にいた。部屋は前に来たときとほとんど変わらないレイアウトだった。片付けたとは言っていたが、恐らく小物を引出しの中に収納したとかその程度で済ませたのであろう。
「悪いね。いきなり押しかけるような真似して」
「ううん、いいの。気にしないで」
僕はとりあえず社交辞令的な意味も込めて謝罪を第一声にしたのである。
沙優奈は僕にベッドを指差し、座るように促してきた。ここは何となく座らない方がいいような気がしたのだが、彼女の厚意を無下にして今後の会話に支障を来たしたくなかったのもあって、僕はおとなしく(?)ベッドに腰かけることにした。
「それで、話って何?」
沙優奈は椅子の背もたれに両腕をもたれかけさせながら僕に用事を聞いてきた。椅子の足部分が動くようになっているらしく、左右にぶんぶん揺れながら聞いてくる。扇風機よりもその動きは俊敏だ。
「うん。沙優奈。君に聞きたいことがあるんだ」
僕は、ここに緊張というのを覚えた。やはり、言おうとすることそのものに緊張するものなのだ、と僕は思い知った。この部屋に来て話をするだけならば、彼女に何か特別な感情を抱いているわけではないから、さして緊張はしない。だが、やはり人の秘密を暴こうとするのは、やはり緊張するし、何より、怖い。
そして僕は、動き出そうと音を立てていた運命の歯車を、回した。
「……君は、トルネリアの一員なのか……?」
沙優奈の顔が強張った。僕はその時、確信した。彼女の口から言葉を聞く必要など、もはやなかった。彼女の示した態度が、僕に対する沙優奈の答えなのだ。
「なんでトルネリアなんかにいるんだ……」
僕は別にトルネリアに何かしらの恨みや妬みを持っているわけではない。謎が多すぎるゆえに何か感情を持つことができないだけだ。だが、彼女の口から、トルネリアのことを少しでも多く聞き出し、トルネリアの管理するイヴェイション・クレを手に入れなければならない。
「瑠堕君……驚かないで聞いてね……」
僕は、沙優奈のその言葉に一度大きく頷いた。ここまで来て、彼女の言葉から逃げるつもりはなかった。彼女が暴力を振るって来ない以上、僕は聞けるだけのことを聞くつもりだった。
そして僕は、この日一番の驚きを覚えることとなる。
「私ね……この世界の人間じゃ……ないんだ……」
僕の体に、雷が落ちたような錯覚を覚える。全身が痺れたように動かない。口は半開きになり、目は見開かれ、額やこめかみから汗が流れた。一瞬のうちに心臓の鼓動が速まる。自分が聞いたその言葉が、すぐには信じられなかった。
「瑠堕君も、そうなんだよね……」
「待ってくれ……!! 君が、この世界の人間じゃないって……証拠はあるのか……!?」
僕は自分でも分かるほどに焦りを覚えていた。自分と同じ境遇を持つ人間がいるとは思っていなかったからだ。だから、彼女の言葉に大きな疑いを持った。自分の言った言葉が、まるで刑事物のドラマの犯人のセリフだということにう気が付くほど、僕の精神的な余裕は著しく欠かれていた。
「私の、この世界でのお母さん、貴子って言うの」
「……」
僕はとりあえず、彼女の――沙優奈の言葉に耳を傾けることにした。
「でもね、現実での私のお母さんの名前、沙優理っていうの。お父さんは直樹……だったかな」
「沙優理……」
「私、本当のお母さんの顔も声も覚えてないけど、名前だけは、私の子だって分かるようにしたかったんだって。自分の名前の三文字から二文字を取って。お父さんのナと合わせて、沙優奈にしたって……それだけは覚えてた」
僕は沙優奈の言葉に半ば絶句した状態で聞いていた。本当の母親。彼女はそれだけを、自分がこの世界に生きる人間ではないということを信じる道しるべとしていたのだ。
「じゃあ、トルネリアにいるのは……」
僕がやっとのことで紡ぎ出したのは、彼女への追求の言葉だった。沙優奈は僕の追求に対して何の憂いも迷いも見せることなく、言葉を紡いだ。
「イヴェイション・クレを手元に置いておくため」
「けど、イヴェイション・クレが手元においてあっても、まだ君は脱出という夢を叶えてはいない」
「トルネリアは、イヴェイション・クレを解明して、その量産型であるモーターを開発した。けど、トルネリアは既存の技術の応用で物を作る技術はあるんだけど、何もないところから作り出すには技術力が不足していて……」
それはもはや技術力というよりはそこの人間たちの発想の問題なのでは? と僕は顔を顰めたい思いだったのだが、今は余計な言葉を挟むのは止めた方がいいと自重するほどには、精神的余裕を取り戻しつつあった。
「沙優奈。イヴェイション・クレ、僕に譲ってくれないか?」
「えっ……それは……」
それはもちろん反対の一言だろう。いくら自分と同じ境遇の人間だったとしても、今いる組織を裏切ることはできないだろう。
「僕のところには、優秀な科学技術者がいる。彼の力があれば、元の世界に帰る手立てが見つかる可能性が高いんだ」
その言葉に、沙優奈が揺らいだのを、僕は直感し、確信した。
だが、事態はそう簡単に動いてくれない上に、予想外の方向に動き出した。
直後に、沙優奈の携帯端末が鳴り響く。沙優奈がその発信者を見て、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。片手だけで僕に謝罪しながら電話に出る。
僕にも、その会話の内容は聞こえるような状態だった。
だから、彼女らの会話は僕にとって知っておいて損など欠片もない情報だった。
端末から響いたのは焦りを全面(前面)にさらけ出した青年の声だった。
『三波! 本部が襲撃を受けている! 眼鏡を掛けている女の子が……セキュリティロックをハッキングで解除して……くっ!!』
「竹葉さん! 竹葉さん!!」
僕は悟った。僕が直接乗り込むよりも早く、動き出したのだ。
マテリアが。
マテリアのマスターが。