10、次なるステージへ
肌に当たる冷気に、僕は瞼を開けた。少しぼやけている視界の中で、僕が眠ってしまっていたと気が付くまで少しばかりの時間を必要とした。
「あれ……」
自分が寝てしまっていたことはなんとなく自覚していたが、それでもまだ意識がはっきりしなかった。僕の視界に収まっている範囲では、いつもと変わらない風景だった。部屋の隅につけられたクーラーは、眠りにつく前と同じようにフルパワーで動いている。その光景を見て、感じた寒さの原因がこれであることを悟る。他に目についたのは、電源がついたままのパソコン、そして、夕焼けを映し出す窓。そして、壁に貼られた、夜の砂丘の風景が描かれたポスター。
「あっ!」
僕はそこまできて、はっとして後ろを振り返った。そこにいたのは、未だ休止モードのままに横たわっている少女の姿があった。全身――といっても足、腹、額、腕のみだが――にタオルを乗せた少女の姿を見て、僕はベッドにもたれかかっていたことを思い出した。
ふと、壁に設置してある内線通話機に目をやる。内線通知は来ていない。それは、親がまだ家に帰ってきていないということだ。今日は夜までに帰るということだったし、まだ僅かながら時間がある。小一時間休んだことだろうし、マテリアもそろそろ動けるようになっているだろう。僕はマテリアの全身のタオルを回収すると、眠りについたままのマテリアの体をゆすった。
「マテリア。気分はどう?」
マテリアの目がゆっくりと開き、周辺の状況を確認し始める。その動きはいつもよりも些か機械的なものなので目立つのだが、起動シークエンスの時ぐらいはしょうがないかと、彼女がいつも通りに振る舞ってくるのを待つことにした。
マテリアが起動シークエンスを終了したのか、一度目が大きく見開かれてから、いつもの大きさに戻り、その口を動かして発生する。
「マテリア、起動シークエンスを正常に終了。稼働モードに移行します」
その言葉を言い終えると、マテリアはゆっくりと起き上がり、ベッドから床へと降り立った。
「おはようございます、ミスター瑠堕」
「気分はどうだい?」
「はい、おかげさまで問題はありません」
無表情な返答。僕はそれに安堵感を覚えずにはいられなかった。
「そうか、ならよかった」
僕はベッドに手をついてゆっくりと立ち上がる。マテリアは僕よりも先に立ち上がっており、既に背筋をまっすぐに伸ばし、真正面をじっと見ていた。それが彼女のアンドロイドらしいところだな、とよく思う。
「マテリア、そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
「はい、そうします」
マテリアがそう言いながら歩きだす。僕は、クーラーの電源を床に置いたままリモコンで消してから部屋を出る。
部屋の外は、秋が来たのかと思わせる部屋の中より、思った以上に暑かった。部屋を出た瞬間に、今が夏真っ盛りの時期なのではないのかと錯覚させるほどの熱気が僕に覆いかぶさってきたのである。僕は少し顔を顰めたが、わざわざ足を止める程のものではなかった。マテリアが歩くのに合わせるため、というのもあったが。
玄関でマテリアが靴を履くのを、僕はただじっと見ていた。そこで思い出したように僕は言った。
「マテリア。今日のプログラムは……全部削除して構わないから」
「分かりました」
元々、情報漏洩を防ぐためにも、消してもらうつもりだったが、彼女が今無駄にキャパシティを圧迫するようなプログラムを詰め込んでおく必要もないのだ。
「……削除、完了しました」
「ありがとう。じゃあ、またね」
「はい、またお会いしましょう。ミスター瑠堕」
マテリアがドアを開ける。
開けた先に親が居た、などというありきたりなオチはなかった。もちろん、そんな結果になるとは微塵にも考えてもいなかったのだが。
夕焼けの日差しが僕の目を焼くかの如く照りつけてくる。僕とマテリアとの間を遮るように光が降り注ぐ。マテリアは振り向いたりはしない。ただ真っ直ぐに、自分のいるべき場所へと戻っていくだけだ。ドアがゆっくりと閉まっていき、そして、マテリアの姿は遂に見えなくなった。
マテリアの姿が見えなくなったころに、僕は一息ついて、身を翻した。僕の部屋がある二階へと走る。部屋の中はまた涼しいというよりは寒いと表現した方が適当だと思えるくらいには、僕の温度感覚は狂っていなかった。だが、その寒さを気にするつもりも、そんな余裕も僕にはなかった。すぐにパソコンに保存しておいたデータをデバイスメモリにコピーし、パソコンをシャットダウンしてから部屋を飛び出す。家のドアを開け、外側でマニュアルロックを掛けてから鍵を掛ける。マニュアルロックは番号を設定することでドアにロックを掛けられるもので、一般家庭には広く普及しているものだ。空き巣が身近な存在である以上、ダブルロックという考え方は世間一般常識だ。
幸いにも、親と会うことはなさそうだ。親にはあまり知られたくないことだ。
次々に細い路地に入っていき、一点のみを目指して走り続ける。こんな狭い路地に入ってもスピードを緩めることなく軽やかに移動できることに、僕は軽い高揚と自信を覚える。尚も走り続け、一軒家を発見する。周囲に人影がないことを確認すると、その敷地へと足を踏み入れていく。ロックを一つ一つ慎重に解いていき、中へと進んでいく。
研究所の最奥に位置する部屋に踏み入った僕はいつになく真剣な顔の成火が研究所のコンピュータと睨みあっているのを目撃した。
「真木乃博士」
僕が成火の名を呼ぶと、ようやく気付いたのか、成火がこちらを見て僅かにその目を見開いた。だが、それも一瞬のことで、すぐにいつも通りの皮肉気な顔を浮かべてみせた。
「やぁやぁ羽駕瀬瑠堕。例の物は完成したかい?」
「おかげさまでね」
例の物、とは紛れもなくプログラムのことだ。僕は懐から取り出したデバイスメモリを専用のハードディスクへ移しながら補足説明を始めることにした。
「プログラムそのものは、何の問題もなく動作した。負荷関係に若干の調整が必要だと思うけど……」
「負荷に関してならいいさ。こっちでも調整はできるからね」
どうやら、その辺りは任務達成の査定には含まれないようだ。僕は最終的な調整を成火が任されてくれることを素直に喜ぶことにした。
「それで、一つ質問したいことがあるんだが……」
「なんだい、もったいぶらないでくれ、君と僕の仲じゃないか」
後半の方は純度百パーセントの皮肉が混ざっていると見て間違いなかったが、僕はその皮肉が単にこの場を少しでも和らげようとするものであると同時に、先ほどの真剣な自分を隠そうとやっているというのは、僕から見れば誤魔化しきれない事実だ。そういうことが分かってしまうのは――それこそ皮肉にもなのだが――成火の言うとおり、長い付き合いだからだというものだろう。決して、仲が良いとは言わない。決してだ。
「僕の脱出の手立てはどこまで進んでいるんだ?」
僕が思うに、ここ数日の間で、僕の人生は今までと違って大きく動き出している。今まで何も干渉することもなかった周辺の人物が、急に纏わりついてきたような、そんな感覚が僕に襲い掛かる。事態はすでに、大きく動き始めている。多分、僕の感知しないところで、更に大きく動いているに違いない。僕はこの世界がまがいものだと分かっている。だからこそ、夢だと思えるほどに大きく動いているはずなのだ。
「……分かっていると思うけど、君がこの世界から脱出するということは、世界のシステムプログラムそのものを破壊する覚悟で干渉する必要がある」
「うん」
この世界の崩壊。確かに、僕が脱出する、ということは、それも視野に入れる必要があるだろう。
「この世界から君が脱するために必要なものは、イヴェイション・クレと呼ばれる鍵だ」
「イヴェイション・クレ……!!」
僕は、その道具の名に聞き覚えがあった。実物を見たことはないが、マテリアと想雫との会話の中に出てきたものだ。沙優奈の話では、イヴェイションとは脱出を意味する言葉らしい。ならば、クレは成火曰く、鍵、ということだろうか。
だがそれなら、その言葉の意味も理解できる。脱出の鍵。外に通ずる唯一の扉を開ける為のたった一つの鍵。もし、それを想雫が持っているとすれば、彼女に接触すれば、それを手に入れることができるかもしれない。だが、そのイヴェイション・クレはマテリアのマスターも狙っているものだ。マテリアはこの世界においては成火のように、この世界にいながら、この世界の正体を知る人物の一人だ。ならば当然、彼女の行動源であるマスターもまた、この世界がまがいものであることを理解しているはずだ。そんな男が鍵を手に入れようということは、何かしらの企みがあって間違いないだろう。
「その顔だと、名前くらいは知ってそうだね。イヴェイション・クレは今、『トルネリア』という組織が管理している。組織そのものの人数はさほど多いわけではないけど、所属する人間は全員がこの世界のことを理解している者たちだ。簡単に譲ってくれるとは思えない」
「トルネリアか……」
僕がぼそりと呟いたが、成火は構わず続きを話始めた。
「もちろん、脱出には彼女の協力も不可欠だ。けど、何せここからは完全に敵同士になる可能性がある。彼女のマスターと僕は、天敵同士だからね。その下で動く君たちが敵対するのは避けられないだろうね」
「それなら構わないさ。けど、僕はあなたの下で動いているつもりはないんだけど」
「おや、そうかい?」
そこで浮かべた皮肉気たっぷりないつもの笑みを覗かせた成火に、僕は額に手を当てながらため息をつくことになってしまった。
「……トルネリアの人数は具体的に分かるか?」
気を取り直して、僕は成火に話の続きを問いただした。成火は皮肉気な顔を崩さずに僕の質問に答え始める。
「そうだね……仕入れた情報では、十人もいなかったはずだよ。多くても七、八人が精々だろうね」
どこから仕入れたんだ、というツッコミを入れたくなったのは言うまでもないのだが、成火の仕入れる情報は信憑性が高いものが殆どだ。少なくとも、僕の方でわざわざ裏付け作業をする必要がないくらいには。
僕は、トルネリアのその小規模さに勝機を見出だすしかなかった。だが、向こうが少数精鋭に対して、こちらは単独突破だ。数の有利は期待できない。ならば、一対多数だから出来る行動を採らねばならない。向こうだって、誰かが取り(盗り)に来ないわけがないと思っている。盗難対策くらいならばしてあるだろう。
「小規模というところに付け込まない方がいいよ。手に入れるなら、君の全てをさらけ出す覚悟で交渉しなければならないからね」
「やっぱり、そうなるか……」
僕には誰かをなぎ倒せるだけの戦闘能力はない。実力行使では勝ち目はないだろう。もし向こうから手を出してくるなら逃げるしかない。そういう精神でいけば、あるいはなんとかなるかもしれない。
もし追いかけられても、こちらにはイヴェイション・モーターが――。
「いや、待てよ……?」
「……?」
僕はそこで何かしらの考えが頭を過ったのを感じた。それは、画期的アイディアとでもいうべきものなのか、或いは。
「博士。僕の持つイヴェイション・モーターで奪うという方法は一つ考えられないか?」
「イヴェイション・モーター? どこかで聞いた気がするんだが……」
そういえばそうだったな、と僕は思い出して、懐から虎の子のイヴェイション・モーターを取り出す。
「こっ……これは……! 羽駕瀬瑠堕、これをどこで!」
成火がいつにも見せたことのない驚愕の表情で僕に一歩詰め寄る。僕はそれに合わせて一歩後ずさり、貰い物だと説明した。逆にいえば、本当にただ、貰い物、だとしか言わなかったのだが。
「これは、イヴェイション・クレの超劣化型のような代物だ。そしてこれは、トルネリアが独自開発した装置だ」
「えっ……!」
僕は一瞬耳を疑った。このイヴェイション・モーターは沙優奈からもらったものだ。沙優奈は僕に渡したものとは別に自分用のものを一つ所有していた。二つ以上所有しているということは、製造できる機関に所属している可能性を十二分に秘めているということになる。少なくとも、個人でこんなものを、しかも複数個作れるはずがないのだ。
「君にこれを渡した人物は、ほぼ間違いなくトルネリアにいるようだね」
「ああ、そうみたいだね」
これは逃げることは許されないだろう。実力行使に出るつもりはない。だが、僕は真正面からぶつかるしかないだろう。彼女――沙優奈が一体誰の味方なのか、そして、僕自身が、ここから脱出するためにも。
僕の脱出劇の第二幕は、今、始まった。