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File.10【後編】:こじらせた要件定義と、バックアップ環境の完全破棄

§ いざ本番環境へ


週末。蓮くんと海辺を歩いていた。


夕暮れ時で、空がオレンジから紫に変わっていくところだった。波の音がして、風が少し冷たかった。隣に蓮くんがいた。


今日しかない、と思った。


一週間、メモ帳で練習した。「好きです、付き合ってください」という、シンプルな一文を。でも今、いざ口を開こうとすると、脳内の防衛本能が猛烈に起動し始めた。フラれたらどうする。空気が悪くなったらどうする。もし「え、そういうつもりじゃなかったけど」と言われたら——。


口が、開いた。


「あの」


「うん?」


「現在の、私たちの関係性における仕様の確認なんですけど」


言った瞬間、自分でわかった。ダメだと。


「SLAが、未締結のまま運用を続けるのは、双方にとってリスクが高いというか……その、今後の運用方針について、相互認識のすり合わせを……」


蓮くんが立ち止まった。


私も立ち止まった。


波の音だけがしていた。


蓮くんが、きょとんとした顔で私を見ていた。数秒後、その顔がゆっくりほころんで、吹き出した。


「何それ」


「……ごめんなさい」


「真琴さん、もしかして俺に告白しようとしてくれてる?」


「してます」


「SLAって言った? 今」


「言いました」


蓮くんが笑いを堪えようとして、堪えきれずにまた笑った。夕暮れの海辺で、肩を揺らして笑っている。こんな告白をされた人間の反応としては、正しいと思う。


§ 最終ログイン「24時間以内」の真相


笑われて、恥ずかしくなった。


恥ずかしくなったら、なぜか全部言いたくなった。


「だって! この前、根っこ張るって言ってくれたのに、火曜日にアプリ開いたら蓮くんの最終ログインが24時間以内になってて!」


「え」


「私まだ他のユーザーと比較検討されてるオープンベータ版なんじゃないかって、ずっとモヤモヤしてて!」


蓮くんが目を丸くした。


「アプリ、開いてたんだ」


「開いてました。トイレの個室で」


「個室で」


「震えながら」


蓮くんがまた笑い始めた。今度は声を出して、しっかり笑った。


「違う違う。あれ、退会しようと思って開いたんだよ」


「退会?」


「真琴さんと最初にマッチングした時のメッセージ画面、記念にスクショしとこうと思って。それだけのために開いただけ」


私は、海を見た。


波が来て、引いた。


スクショ。記念に。私とのログを、保存しておくために開いていた。他の誰かを探していたわけじゃなかった。


一週間分のモヤモヤが、一文で消えた。


「……そういうことは先に言ってください」


「言えるわけないじゃん、バレてないと思ってたから」


「バレてました」


「知ってる、今」


二人でしばらく笑った。夕暮れの海辺で、並んで笑った。こんな告白の現場があるのかと思ったけれど、悪くなかった。


§ SLAの正式締結


笑い終わって、蓮くんが少し真剣な顔になった。


「ごめん、言葉足らずだったね」


「いえ」


「お粥作った日から、俺の中ではとっくに本番環境のつもりだったんだけど」


「……本番環境」


「真琴さんの言葉、移ってきた」と蓮くんが笑った。それから、真剣な顔に戻った。「じゃあ正式に。真琴さん、俺と付き合ってください」


夕日が、海に沈もうとしていた。


「はい」と私は言った。


お粥作った日からとっくに彼氏のつもりだったという人が、それでも正式に言ってくれた。SLAを、ちゃんと締結してくれた。


それだけで、十分だった。


§ アンインストールの儀式


蓮くんがスマホを取り出した。


「ほら」


マッチングアプリを開いて、退会手続きを始めた。画面を私に向けて、確認させながら。ためらいが、一切なかった。


「退会完了」


アイコンを長押しして、「Appを削除」をタップした。アイコンが消えた。


私もスマホを取り出した。


アイコンを探した。ホーム画面の、一番端のページにあった。大分の彼と出会ったアプリ。猫になった帰国子女と出会ったアプリ。モスバーガーと、メルチャリと、結婚モジュールが未実装だった彼と。全部、ここから始まった。


長押しした。


アイコンが震えた。


「Appを削除」という文字が出た。


タップした。


アイコンが、消えた。


ホーム画面がすっきりした。荒野だったあの場所が、もうどこにもなかった。


§ エピローグ


月曜日の昼休み。


「真琴さん! 週末どうでした!?」


美桜ちゃんが、お弁当を広げる前から聞いてきた。


「告白した」


「え!! どうなりました!?」


「SLAを締結した」


美桜ちゃんが一瞬固まって、それから察して、にっこりした。


「おめでとうございます」


「ありがとう」


「告白、うまくいったんですね」


「うまくはいってない。SLAとか言っちゃったから」


「え、本当に言ったんですか」


「言った。海辺で」


美桜ちゃんがテーブルに突っ伏して笑った。しばらく笑い続けていた。


「でも、よかったです。本当に」


顔を上げた美桜ちゃんの目が、少し潤んでいた。大分から始まって、ずっと一緒に聞いてきてくれた人の目だった。


「うん」と私は言った。「よかった」


スマホを取り出した。


ホーム画面に、マッチングアプリはなかった。


代わりに、蓮くんからのLINEが来ていた。


「今日も一日お疲れ様」


たった一言の、穏やかなPing(通信)。既読がつかなくても、もう不安にはならない。私の心には、彼がしっかりと根を張ってくれているから。


右にスワイプしただけなのに。


たった1回のスワイプから始まった私の恋愛は、致命的なエラーとバグだらけの荒野だった。でも、あの全件エラーのインシデント履歴があったからこそ、私はこの最高のオアシスに辿り着けたのだ。


〔File.10:マッチングアプリ、アンインストール完了。最高の安定稼働、継続中〕

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