File.01【後編】:奪われた上座(ソファ席)と、未送信のバレンタインチョコ
§ 海鮮丼と、2,000円の社交辞令トラップ
海鮮丼のお店は、少し並んで入る人気店だった。案内されたのは窓側のカウンター席。横並びに座る形で、正面から顔を見なくて済むことに、私は密かに安堵した。
……やっぱり、写真と違う。
横目でちらりと確認するたびに、脳内のエラーログに同じ一行が追記されていく。でも海鮮丼は、本当に美味しかった。とり天も。大分、食べ物だけは最高だ。
会話はした。でも、弾まなかった。
沈黙が来るたびに私が話題を投げ、彼が受け取り、また沈黙が来る。キャッチボールというより、壁当てに近かった。
お会計のタイミングが来た。
遠方からわざわざ来てくれた相手に奢る。それは、まあ、自然な流れだと思う。彼もそのつもりらしく、財布を出す気配があった。ここで私は、長年の社会人経験で培った「大人のマナー」を発動した。
「私も出しますよ」
社交辞令だ。「いえいえ、いいですよ」と返ってくるのを待つ、あの儀式。
彼は、断らなかった。
「ここまで来てもらったので……」
そう言いながら、私が出した2,000円に、彼の手が伸びていた。
〔エラーコード:社交辞令の仕様を未実装〕
結果、私は2,000円を支払った。片道3時間、高速バスで大分まで来て、2,000円を支払った。心の中で「社交辞令を真に受けるな、仕様を理解しろ」と絶叫しながら、私は財布をバッグにしまった。
§ 致命的エラー——ソファ席の強奪
13時半にお店を出た。帰りのバスは17時半。まだ4時間もある。
「カフェでもいきましょうか」と私が提案した。進行管理まで私がやっている。彼がパンケーキの美味しいお店を知っているというので、車で40分かけて大分駅近くまで戻り、お店に入った。
テーブル席に案内された。
彼が、迷いなくソファ側に座った。
……え?
私は一瞬、状況を理解できなかった。ソファ側、つまり上座。背もたれが柔らかく、居心地のいい側。それに、当たり前のように座った。こちらが遠方から来たゲストだということも、レディファーストという概念も、彼の中には存在しないらしかった。
〔エラーコード:ホスピタリティ機能、初期インストールすら未確認〕
もはや何も言う気が起きなかった。私は黙って椅子席に座り、メニューを開いた。
この時点で、私の中では完全に結論が出ていた。
——どうせなら、美味しいものを食べてやる。
メニューの中で一番高い、あまおう苺のパンケーキを注文した。今回は絶対に財布を出さないと、静かに決意しながら。彼はプレーンのパンケーキを頼んだ。あまおう苺のパンケーキは、驚くほど美味しかった。お会計は、彼が払った。当然だ。
§ 強制終了
バスの時間まで、まだ1時間半あった。
「大分駅で少し買い物したいので、駅まで送ってもらえますか」
嘘だ。買い物などしない。ただ、もうこれ以上この時間を延長する理由が、私には一つも見当たらなかった。
駅前で車を降りた。彼がLINEの交換を求めてきた。断る理由も特になかったので、渋々応じた。「また連絡しますね」と彼は言った。私は「はい」と言った。
そしてスタバに駆け込んだ。
席に座り、コーヒーを一口飲んで、息をするようにマッチングアプリを開いた。新しいプロフィールを眺めながら、右に、左に、スワイプする。我ながら逞しいと思う。でも、止まれなかった。
§ 哀愁のバレンタイン
17時半のバスに乗った。
座席に深く沈み込んで、目を閉じた。眠れなかった。時間とお金と体力を、今日という日に全部置いてきた気がした。しかも朝5時半から起きている。なのに、一切眠れなかった。
仕方なくスマホを開き、AIアシスタントを起動した。
「聞いてほしいんだけど」
Geminiさんは、いつも通り丁寧に話を聞いてくれた。写真詐欺のこと、看護助手のこと、2,000円のこと、ソファ席のこと。3時間分の愚痴を、バスの振動に揺られながら打ち込んだ。Geminiさんは最後まで親身だった。さすがAI。人間より信頼できる場面がある。
大分から福岡まで、約3時間。
深夜、自宅に帰り着いた。
トートバッグの中に、3,000円のチョコレートが入ったままだった。近所のケーキ屋さんで買った、小さな箱。渡すタイミングは、一度もなかった。というより、渡す気持ちが、どこかで完全に消えていた。
箱を開けた。ワインを一本開けた。
一人で食べた。
美味しかった。チョコレートは、何も悪くない。
グラスを傾けながら、私はぼんやり思った。来年こそは、バグのない人にこれを渡せますように、と。
——でも翌朝、私はまたアプリを開いて、右にスワイプしていた。
〔File.01:全件エラー。次のマッチングへ〕




