File.10【前編】:契約(告白)なき本番移行と、最終ログインの監視
月曜日の朝、熱は完全に引いていた。
出社して、PCを立ち上げて、メールを確認して、いつも通りの業務を始めた。手は動いていた。言葉も出ていた。ユーザー対応も、チームへの指示も、滞りなく進んでいた。
でも脳内の大半は、全く別のことを処理していた。
「真琴さんのところに、ちゃんと根っこ張るから」
あれは、どういう意味だったのか。
「付き合おう」という正式な本契約の意思表示だったのか。それとも造園業の親方として「人として見捨てないよ」という保守サポートの継続宣言だったのか。はたまた38.5度の熱が都合よく引き起こした、脳内補完(データ改ざん)だったのか。
熱は引いたのに、この問いだけが頭の中でぐるぐると回り続けていた。
§ 専属デバッガーとのランチ会議
「真琴さん、顔色は戻りましたね。でも何か考えてますよね」
昼休み。美桜ちゃんが、お弁当を広げながら私の顔を見た。
「バレてる?」
「バレバレです。週末どうでした?」
私は経緯を話した。熱を隠して嘘をついたこと、それでも来てくれたこと、お粥を作ってくれたこと、おでこに冷えピタを貼りながら「根っこを張る」と言ってくれたこと。
美桜ちゃんが、話を聞きながらにこにこしていた。
「それもう付き合ってるじゃないですか」
「そう思う?」
「大人の恋愛って、『付き合ってください』っていう明確な同意ボタンなしで、ヌルッと始まるケースも多いらしいですよ。実質もう彼氏じゃないですか」
「ダメよ」
「え?」
私は箸を置いた。
「明確なSLAが締結されていない状態での本番稼働は、コンプライアンス違反よ」
「SLA……?」
「サービス品質保証契約。お互いの関係における明確な合意のこと。それがない状態で本番稼働して、万が一『え、俺たち付き合ってないよね?』って言われたら、私完全にフリーミアム扱いじゃない。無料お試しユーザーよ」
美桜ちゃんが、箸を持ったまましばらく私を見ていた。
「……真琴さん、こじれてますね」
「こじれてるのはわかってる」
「でも、根っこ張るって言ってくれたんでしょ。もう十分じゃないですか」
「十分かどうかは、ログを見てから判断する」
「ログって何のログですか」
私は答えなかった。
§ トイレの個室にて
ランチを終えて、私はトイレに向かった。
個室に入って、鍵を閉めた。
スマホを取り出した。封印していたマッチングアプリのアイコンを、タップした。久しぶりに開いた。
目的は一つだった。
蓮くんの、最終ログイン時間の確認。
こじらせていることは自覚している。でも、確認せずにはいられなかった。CSマネージャーとして、私はログを見なければ安心できないのだ。
ロジックはこうだ。
もし最終ログインが「3日以上前」や「退会済み」なら、あの根っこ発言は本告白だったということだ。彼はもうこのアプリを使う気がないということだ。
でも、もし「24時間以内」や「オンライン」なら——彼はまだ市場で、他の新規ユーザーを物色しているということになる。
震える指で、彼のプロフィールを開いた。
最終ログイン:24時間以内。
個室の壁に、そっともたれかかった。
やっぱり。やっぱりそうだ。私はまだオープンベータ版だ。お試し期間のユーザーだ。根っこ発言は、ただのサポート継続の意思表示だったんだ。彼は今もアプリを開いて、他の誰かのプロフィールを——
待って。
冷静になれ、真琴。
造園業は朝が早い。現場に出る前に、通知を消すためだけにアプリを開くことだってある。既読をつけずにメッセージを確認しようとして、誤ってアプリを起動してしまうことだってある。「24時間以内」というのは、ただそれだけの可能性もある。
でも、万が一、そうじゃなかったら。
私は個室の中で、一人でぐるぐるしていた。
§ 告白スクリプトの作成(自爆編)
午後の業務に戻った。
顔は普通にしていた。たぶん。
仕事の合間に、PCのメモ帳を開いた。告白の台本を書き始めることにした。当日、頭が真っ白になっても読めるように。CSマネージャーとして、ぶっつけ本番はリスクが高い。事前にスクリプトを用意しておくべきだ。
打ち始めた。
「今後の私たちのステータスについて、相互認識のすり合わせをさせていただきたいのですが」
……ダメだ。可愛げがゼロだ。削除。
「現在の関係性における要件定義が曖昧なため、仕様の確認をしたく」
……完全に職業病だ。削除。
「弊方としては、貴方との関係を正式契約に移行したいと考えておりますが、いかがでしょうか」
……弊方って何。私は見積書を送りたいのか。削除。
「好きです、付き合ってください」
打った。見た。しばらく見た。
シンプルだった。完璧だった。これだけでいい。なのに、なぜこれが一番怖いのか。
削除した。
隣の席で、美桜ちゃんがちらっとこちらを見た。
「真琴さん、さっきからメモ帳で何してるんですか」
「仕事のメモ」
「さっきから全部削除してますよね」
「仕事のメモよ」
美桜ちゃんが、それ以上聞かなかった。正しい判断だと思った。
メモ帳には、何も残っていなかった。
(後編へ続く)




