File.09【前編】:無視されたアラートと、偽装されたエラーログ
金曜日の19時。オフィスにはまだ何人か残っていた。
私は画面を見ながら、ユーザーからの問い合わせを処理していた。文章を打って、送って、次の案件を開いて、また打つ。いつも通りの作業だった。ただ、昼過ぎから続いている悪寒だけが、いつも通りじゃなかった。
「真琴さん、顔真っ赤ですよ」
隣の席から、美桜ちゃんの声がした。
「大丈夫ですか? 熱ありません? 明日デートじゃないですか、早く帰って休んでください」
「大丈夫、ちょっと処理が重いだけだから」
「処理が重いって人間の話じゃないですよ」
「最後のこれだけ終わらせたら帰るから」
美桜ちゃんが心配そうな顔をしていたけれど、私は画面に向き直った。
最後の一件を処理して、ログアウトして、荷物をまとめた。「お疲れ様でした」と声をかけながらオフィスを出た。エレベーターを待ちながら、壁に手をついた。思っていたより、足元がふらついた。
でも、誰にも言わなかった。
§ 土曜日の朝
翌朝、目が覚めた時、体が重かった。
いつもと違う重さだった。布団から出ようとして、頭がぐらっとした。体温計を探して、脇に挟んで、数字を見た。
38.5度。
昨日の夜より上がっていた。昼過ぎから感じていた悪寒が、一晩かけてしっかり熱に育っていた。気を張り続けていた一週間分の疲れが、土曜日の朝に全部出た感じがした。
スマホを見た。蓮くんから昨夜のうちに「明日楽しみにしてるね」というLINEが来ていた。
連絡しなければいけない。
指が止まった。
§ 一番深い傷
布団の中で、天井を見ていた。
普通なら「熱が出ちゃって」と送るだけでいい。それだけのことだ。蓮くんは心配してくれるだろうし、「お大事に」と言ってくれるだろう。そういう人だとわかっている。
でも、できなかった。
昔のことを思い出していた。
何年も前に付き合っていた人がいた。特に喧嘩をしたわけでも、何か決定的なことがあったわけでもなかった。ただある日、LINEの返信が来なくなった。既読がつかなくなった。電話をかけても、出なかった。
1日が経った。3日が経った。1週間が経った。
何のエラーメッセージも残さず、その人は私の前から消えた。
どこで何を間違えたのか、今でもわからない。弱いところを見せすぎたのか。甘えすぎたのか。重かったのか。体調が悪い時に「しんどい」と送ったことが、何度かあった。その積み重ねが、いつか限界を超えたのかもしれない。そう思うと、体調が悪い時こそ、誰かに頼ってはいけないという気がした。
蓮くんとの間に、ようやく芽生えかけているものがある。それを失うのが、怖かった。
§ 打っては消す
スマホを持って、LINEを開いた。
「熱が出ちゃって」
打った。削除した。
看病しなきゃって気を遣わせる。面倒な女だと思われる。
「体調が悪くて」
打った。削除した。
言い訳がましい。重い。
しばらく画面を見つめていた。頭がぼんやりしていた。熱のせいなのか、考えすぎているせいなのか、わからなかった。
結局、こう打った。
「ごめんなさい、仕事で大規模なトラブルが起きて緊急対応になっちゃって。今日はリスケさせてください」
送った。
嘘だった。
蓮くんからすぐに返信が来た。
「わかりました、お仕事頑張ってね。無理しないで」
画面を見て、ホッとした。そして、泣きたくなった。
心配させなくて済んだ。重いと思われなくて済んだ。でも、この優しい返信を嘘で受け取っている自分が、どうしようもなく惨めだった。
解熱剤を飲んで、水を飲んで、また布団に潜った。
やっぱり私は、一人でやるしかないんだ。
天井を見ながら、そう思った。どんなに信頼できる人でも、頼りきってしまったら、また消えてしまうかもしれない。蓮くんはそんな人じゃないとわかっていても、その恐怖だけは、理屈で消せなかった。
うとうとしていた午後。
インターホンが鳴った。
(後編へ続く)




