貴女とともに、最後まで
この物語は拙作『都を追われた私が辺境の少女に未来を教えた話』(https://ncode.syosetu.com/n0127ks/)の第二部となります。
大変お手数ですが、第一部をお読みになった上で当作をお読み頂くことをおすすめします。
領都を出発したのが秋口だったのに、王都に着く頃には秋は盛りを過ぎようとしていた。
辺境は、言葉通り辺境なのだと私たちは身を以て知り、改めて王国の広大さを感じた。
「こんな広い舞台で政治なんてできるのかしら……」
カルロータ様が高くそびえる城壁を見上げて呟く。不安半分、期待半分といったところか。
「これからですよ。それに、おひとりではありません」
招いて下さった王太子殿下がいらっしゃる。殿下だって孤立無援ということはないだろう。
最初は殿下の庇護の下で見て学び、力を蓄え徐々に頭角を現せばいい。
「そうよね。ルシアがいるから、大丈夫よね」
「あら……」
カルロータ様は、私をくすぐるのが大層お上手になられた。そんなことを言われたら、私は一層奮起するしかないではないか。
左右の侍女がため息をついていようと、白い目で見ていようと、私は嬉しくて身体をくねらせるのだ。
それにしても、王都の城壁はとてつもなく高い。
国名は変われど一度も陥落したことがないと噂の城壁は、見渡す限り同じ色の壁で構成されていた。
同じ色ということは、修復や補強を受けていないということだけれど、攻囲されても欠けないってことがあるのだろうか?
そんな、誇り高い歴史が目の前に迫り来る。
先触れを出していたおかげか、特に止められることもなく私たちは城門をくぐり抜けた。
「痛たたた……」
カルロータ様が、首を撫でていた。かわいい。
言って下されば私が撫でて差し上げるのに、などと考えていたら何かを察したようにカルロータ様がこちらを向いた。これは、心が通じたと理解していいのだろうか。
「これから王宮に行くの? それともどこか別の所へ?」
そんな訳はないばかりに全く関係のない話題を出される。照れているのかもしれない。
「……どこかの宿に留めおかれるかと存じます」
「宿? 今日は宿に泊まるの?」
確かに、とカルロータ様は匂いを気にされてか、ご自身の旅装に鼻をつけた。
旅の汚れを落とす必要があるし、服装を整えなければならない。疲れだってある。そう、お考えになったのだろう。
だけどそれが叶うかどうかは解らない。殿下がすぐにでも会いたいとご希望なら、今夜にでも呼ばれるはずだ。
古くから愛妾が王宮に入る時は、夜中にひっそりと、という話があるのだから。
などと、思っていた時期が私にもありました。
殿下は案外せっかちのようだった。夜を待つ必要はない。準備が整い次第、部屋に入るように、と王宮からの使者は告げた。
それは、ご実家の謁見室ほどの広さがあるだろうか。そこが、寝室、書斎、面会室、侍女の詰所などに扉で分けられている。内装や調度品は豪華で、部屋に一歩踏み入れることすら足がすくむような場所だった。
扉でいくつもの部屋が仕切られているのも新鮮だった。辺境伯領では寝室はさすがに扉で仕切られているが、それ以外は屏風やら物を置いたりしてなんとなくパーティションしている。さすが、都会は違う。いずれは辺境伯領でもこうなるのだろう。
扉が閉まるが早いか、カルロータ様はいきなり振り返り、私に抱きついてきた。そのまま、押し倒さんとばかりに私にもたれかかる。
だが、私は倒れない。いつでも準備ができているからだ。突然であっても、もろともに倒れることは決してない。
「疲れたぁ……」
耳元で、息を最後まで絞り出される。ありがとうございます。
「……ですね」
お互い、生まれて初めての旅だ。それが、いきなり二ヶ月前後の旅となると、いくら健気なカルロータ様であってもこうなる。
私だって疲れた。後ろに控える侍女たちだってそう。誰もがその場に崩れ落ちたかった。気力だけだった。
それと、もうひとつ理由があったのだけれど、それはさておき。
「……ちょっと、ルシア」
「はい?」
「どさくさに紛れて触るのやめなさい」
「あ、これは、失礼を」
バレた。
「もう……」
私からすっと身体を離したところでようやくカルロータ様はそこに気付き、目を丸くした。
それこそが、私たちが耐えていた理由。
「あら?」
そこには、ひとりの若い男性が椅子に座り、優雅に紅茶を飲んでいた。
年の頃なら二十歳過ぎの、温厚そうな顔つきをした男性だった。
黒を主体とした華美さを抑えた、しかし品格をしっかりと主張する服を纏う身体はすらりとして、少し華奢にも見えた。
窓からの光に反射する黄金色の髪は、獅子のたてがみと見紛うほどに輝き、立派に整えられ、ため息が出そうだ。
そう。見知らぬ男性がそこにいて、私たちは気を抜ける訳がなかったのだ。と言うより、この方はおそらく。
彼は、私たちの視線に気付き、気さくな笑みを浮かべた。
「ん? 続けていいよ。そこに入るほど僕は無粋じゃない」
「いえ、お気になさらないでください……私には、殿下の方が大切ですので」
ひどい言いように涙がでそうだった。
カルロータ様は、いくぶん心を乱しながらも手ぐしで前髪を整え、乱れのない礼を行う。
そうよね。カルロータ様もやはりその結論にいたるわよね。だって、この部屋の主はカルロータ様であるはずなら、カルロータ様に無断で入って許される人物で若い方なんて、ひとりしかいない。
「へぇ、僕の正体がとっさに解るとは、いいね。聞いてた以上にかわいいし。その銀色の長い髪も、絹みたいでとても綺麗だ。コバルトブルーの瞳も吸い込まれそうになる」
柔和な笑顔から、時折見える試すような視線。
「あ……ありがとう、ございます……」
「照れてるの? ますますかわいいね」
殿下は椅子から立ち上がり、カルロータ様の前まで歩いてきて、跪いた。何をするのかと思えばそのままの姿勢でカルロータ様の手を取り、なんとその甲にキスをしたのだ。
「っ!」
なんとまぁ、よくぞ自然にこんなことを。さすが都会の男性は違うわね。
「初めまして。僕はエドゥアルド・デ・ルシエルバ。この国の第一王子さ。そして君の、パートナーになる男だ」
「はい……」
見上げる笑顔にカルロータ様は、頬を赤くされ、何も言えなくなっていた。女の顔じゃないですか。会っていきなりカルロータ様からこんな表情を引き出すなんて、殿下はただ者ではない。これは、手強い敵だ。
「かわいいね。本当にいい。君みたいなかわいい子と一緒に政治ができるなら、気合いも入るってもんだ。嬉しいよ」
殿下は、立ち上がり、さりげなくカルロータ様の肩を抱く。流れがあまりにもスマートでスムーズだ。手慣れている。都会の男性はみなこんなのだろうか。
本当に王太子妃殿下だけなのかしら。浮名を流してはいないか怪しいものだ。
「微力を尽くします」
「うん。頼むよ」
誰もが好感を覚えそうな笑顔だった。困ったように眉を下げて、今のように気軽に頼まれたなら、誰でも頷いてしまいそうな。
それは、カルロータ様も同じだったのだろう。
「ええ。ぜひに。殿下」
こうして、おふたりはパートナーとしての盟約を結ばれたのだった。
それは、心がチクリとする光景。
だけど、カルロータ様が王都に来たのはこのためなのだから。
私は、カルロータ様の侍女。分を弁えなければならないのだ。
***
王宮に入って二日目。私は、カルロータ様の宮廷侍女長なる職を自称する女性の訪問を受けた。
ここは王都。辺境伯領とは違うのだから、扱いも変わるかなと考えていただけに驚きもなかった。
ただ、私に与えられた役割は寝室付き侍女というもので、序列で言うと上から二番目の役割だった。
それこそ、使い走りのような役を命じられると思っていた私はそっちの方が驚きで、実質、やることは何ら変わらないようで、とまどいしかない。
いや、むしろその戸惑いから失敗を誘発させ、見習いからやり直しましょうと持って行く魂胆だろうか。王宮の洗礼を受けている?
頼るべき相手もいない状況で位打ちをされるのは、負けの決まった試合に挑まされることそのものだ。
そんなことしなくても、下働きからやることに抵抗はないんだけどな……。
「ルシア・アルマール。落ち着きなさい。顔に出すのは侍女として適切ではないわ」
「あっ、申し訳ありません」
いけない。クールになれ、私。
宮廷侍女長は肩をすくめ、力のない笑みを浮かべた。
「貴女は、常にカルロータ様の一番近くにいなければならない身。その価値を自覚なさい」
「……気持ちは、あります。ですが私はこの場所において知っていることがあまりにも少ないのです」
そりゃあね。おはようからおやすみまで、私はいつでもカルロータ様のおそばにいたいわよ。でも、その気持ちだけで勤まるわけがないでしょ。
ここは辺境伯領ではないのだから、ものの場所ひとつ知らない私がどうして大きな顔をできようか。
「覚えればいいでしょう。あなたの忠誠は、その程度のものなの?」
「っ!」
彼女は妙に存在感のある一部分を誇示するように腕を組み、試すように目を細めてこちらを見た。
私の気持ちが、存在自体が全て、見透かされそうだ。
「序列が下の者にも、頭を下げて教えを乞いなさい。こちらから貴女の下につけたのは、ベテランや将来有望な者ばかりよ」
侍女長の意を受け、直接侍女たちを監察する年配の侍女や洗濯や裁縫を担当する侍女。彼女らが知る事を把握すれば、カルロータ様の周囲を問題なく差配することができると。
「それは――」
位打ちではなかったのか。彼女は、プリシラ・デ・デスティーノ公爵夫人はもしかすると。
「……こちらに来たばかりで緊張しているのかもしれないけれど、あまり人を疑うものではないわ」
彼女は深いため息をつき、仕方ないな、という顔をした。まるで、キャンキャン吠える犬にどう接したものか思案しているような表情だった。
そう。私は、毛を逆立て、見知らぬ人間にひたすら吠え立てる犬だった。
確かに、私は気が張っていたのだろう。
「私の役職もいずれ貴女に譲るから、カルロータ様への気持ちが本物なら、頑張れるでしょう?」
「それは……はい」
頑張れるし、できるだけ早く覚えて身につけたいと思う。物品の場所から始まり、儀礼、慣習、歴史など……覚えることは星の数ほどある。
でも私、十三歳なのよね。もう少し手心を加えてもらっても?
その晩、私はカルロータ様の側に呼ばれた。
夜間、カルロータ様の私室に入れるのは宮廷侍女長たる公爵夫人と私と、辺境伯領から連れてきた侍女三名の合計五名だ。この日は辺境伯領以来の侍女のひとりの番であり、私が呼ばれたことで扉付近に控えている。
私が夜番の日は四日に一度なので、なかなかふたりきりになれないのは残念なところだけれど、こうしてふたりで穏やかな時間を過ごせるだけ、良しとしないと。
「ルシア」
「はい」
「涎拭いてから座りなさい」
「あ……これは失礼」
できるだけ上品に――私はクールな侍女――ハンカチで口元を拭い……って涎なんて出てなかった。見れば、カルロータ様が口を押さえ、肩を震わせている。いたずら大成功といったところか。
それとも心の涎に気付かれていたか。
まぁ、どちらでもいいけれど。
苦笑いしつつ、テーブルを挟んでカルロータ様の向かい側に座る。
これが許されているのは、公爵夫人と私だけだ。さらに言えば、カルロータ様の気持ちの中において許されているのは私だけ。これほどの名誉があろうか。
普段は立っていることを求められる侍女が座ること。そしてそれが許される唯一であるこの喜びは、何物にも代えがたい。
「今宵は何か、お急ぎのご用でしたでしょうか?」
「用がなければ呼んじゃだめ?」
垂れ目がちで、ころんとした丸い顔。とてもおかわいらしく、いつまでも愛でていたい。涎どころか心の鼻血までもが出そうだった。
あくまで、心の中で。私は、あくまでもカルロータ様の侍女なのだから。時々は溢れ出してしまうけれど、それはまぁ、忠誠心がそれだけあるってこと。
「とんでもない。私は、いつでも参上いたしますよ」
「そうよね……昔から、そうだったもの。心強いわ」
「恐縮です」
少しの間、沈黙が流れる。ゆっくりとティーカップを傾け、紅茶を味わう。良い香りだった。心が落ち着く。
「新しい葉ですか」
「そう。王都で流行の茶葉ですって。誰にもらったと思う?」
「さて、どなたでしょう。王太子殿下でしょうか」
「いいえ、覚えているかしら。“枯れ木”よ」
「ええっ?!」
むせそうになった。
“枯れ木”といえばあれだ。半年ほど前に視察使として辺境伯領にやってきた人物だ。
まぁ王都から来ていたので王宮で再会したとしても不思議ではないけれど、こうやってカルロータ様が話題に出すのなら、それなりに重要な人物なのかもしれない。
「公爵だって」
「けほっ」
「ちょっ、ルシア汚い!」
平謝りしながら、夜番の侍女が持ってきた布巾を借りてテーブルを拭く。そんなに口の中に入ってなくてよかった。
しかしまぁとんでもない情報だった。公爵が視察使として派遣されるなんて、大丈夫なの?
公爵が派遣されるってことは、王太子殿下の周りにいる人びとのうち、能力に信頼のおける人物が少ないということになりはしないか。
「頭数は、いるのですか?」
「うーん……」
王太子殿下なのに? 次代の王なのに付き従う人間が少ない?
「大丈夫なんですかそれ……」
色々なことが考えられるけれど、まず思ったのがそれだった。この陣営に味方して、本当に良かったのか。
「だって前情報なんてなかったし。伝手もないから調べようもないわ」
それは、そう。王太子殿下から側室として望まれたとき、念のためにと殿下の将来なんかを確認なんてしない。王都の貴族なら状況も分かっているだろうけれど、辺境伯にそれを求めるのは無理筋ではないか。
戦乱の時代ならまぁ、草のひとりやふたり、潜入させるだろうけど、今は平和の時代だしねぇ……。
それでも、草のひとり、伝手のひとつでも作っておくのが領地持ちのお作法だったのかもしれないけれど、それは今言っても仕方のないこと。
問題は、どうやって潰されないか。
「うまく立ち回りませんと……」
下手を打てばカルロータ様だけでなく最悪、辺境伯にも被害が及ぶ。もろとも潰されるなんて、まっぴらだ。
「まぁ、頑張るわ」
「軽いですね……」
くい、とカップを傾け、カルロータ様はにこりとされる。まぶしすぎるその笑顔は、私をいつも惹きつける。さながら、太陽と向日葵だった。
いつの頃からだろう。友情を育むべくお側に上げられたのに、形を変えてしまったのは。
多分、誰も知らない。うまくやれている。私は、気軽に冗談を言い合える間柄なのだ。
「貴女のノリよりは重く言ったつもりよ」
などと、言われる限りは何も、問題ない。
***
その名を聞いたとき、私は後頭部を鈍器のようなもので殴られたかと思うほど、大きな衝撃を受けた。
ふらつき、危うく倒れるところだったけれど、なんとか踏みとどまった。今から思えばカルロータ様に抱きつけば良かったと思ったけれど後の祭り。
いや、正直そんなやましい考えに至るほどの余裕がなかった。それほどまでに、その名前は私にとって大きな衝撃だったのだ。
それは、王宮での一場面。王太子殿下に呼ばれたカルロータ様に付き従い、廊下を歩いていた時のことだった。
前の方からやけに大きな人物が、たくさんの人を引き連れてやってきているなとは思っていた。十人以上が鶴の翼のように広がりがやがや言いながらこちらへと。
さすがに王宮の廊下であってもすれ違うのは不可能だった。カルロータ様を先導する年配の侍女が歩みを止めて隅に寄り、カルロータ様も、私たちもそれに倣った。
縦にも、横にも大きなひとだった。赤ら顔で、厳つい顔をしている。お腹の辺りまで伸びた顎髭がひらひらとして、風になびく洗濯物のようだった。
豪華で派手な衣服に身を包み、少し自己主張を始めたお腹を隠そうともせず、堂々と見せつけるようにして歩いている。
一目で、高位の貴族だと解る。背後から話しかけるひとびとはみな、彼に阿った表情だ。最後列の騎士は周囲に目を光らせている。
こんな場所で、刃傷沙汰なんて起こるわけない。つまりあれは、周囲への威嚇だ。
すれ違いざま、彼はカルロータ様をギロリと睨んだ。カルロータ様は気にせず、軽く会釈をするのみ。
「ふん! 田舎者めが」
あからさまな大声に吹き出しそうになる。たぶん、前のカルロータ様も、後ろの辺境伯以来の侍女も同じだろう。
私たちは事実、田舎者なのだ。田舎者に田舎者と言って何の効果があるだろう。牛や馬にあれは牛や馬ですと言うようなものだ。それが罵詈雑言として成立すると思うのは、生まれた場所にしかすがるものがないのだろう。その心根こそ嘲笑うべし、だ。
「で、さきほどの方はどなたです?」
とても権勢がありそうな貴族だから、覚えたばかりの名前の中にあるだろう。有力貴族の名前自体はベテラン侍女などに教えてもらったおかげでだいぶ頭に入ったけれど、顔が一致しない。こういう機会は逃すべきではないのだ。
「ベルトラン・デ・ビジャフエルテ公爵よ。王太子と対立してる方ね」
「え……」
言葉を失い、その場で立ち尽くしてしまった。
カルロータ様は何気なく言っただけ。思うところはあれど、事実を伝えただけどったけれど、私にとっては違う。
絶対に忘れないと誓った名前だった。
遠くなってしまったかの背中を睨み付ける。
ようやくなのかすぐなのか解らないけれど、あれがそうなのね。しっかり覚えたわよ。
父の仇。
絶対に許さない。私は、父の無念、姉の知恵をもって必ずお前に償わせてやる。
私の決意はカルロータ様への積極的な献策という姿で様々な形を結んだ。
もちろん、私の進言だからといって全てが採用されるわけではない。却下されるものもあり、時期尚早と保留されるものもあり。その辺り、カルロータ様は冷静に見極め、公平中立な立場で判断される。例えばビジャフエルテの力を割く策略であっても、民の利益につながらないものについてはあまり受け入れが良くなかった。
政治的な潔癖とでも表現しようか、相手に直接被害を与えるよりも、不義不正を告発し、正すことで奴の力を削ごうと考えてらっしゃるようだった。
迂遠かな、と思う。王太子殿下みたいに急ごうとも思わないけれど、相手は何もしなくても余りある収入が保障されているのだから、相手の失敗を待つ考えはあからさまな不正を働かないという対策で封じられる。
獲物が勝手に転んでくれるわけはないと何度も進言したけれど、カルロータ様は受け入れてくださらなかった。
そういう面では、王太子殿下の方がご理解いただけたというか、むしろそちらの方がお望みであった。
なぜなら殿下には、急ぐ理由があったから。
「僕はね、生まれつき身体が弱くてね」
いつまで生きられるか解らない。つまり、殿下の次の世代は非常に若い王である可能性が高い。幼王もありうる。
その時、ビジャフエルテを誰が抑えるのか。
未来を想い、殿下には急がなければならない理由があった。
カルロータ様もそれは直接お伝えされている。それでもなお、持てない、清濁併せ呑めないのはカルロータ様がお若いからだろう。
殿下としてもそれは望むところだ。どうしても急ぐあまり、政略をしかけがちとなり、昏いイメージがつきそうなところに新鮮で実直で清潔なカルロータ様が現れた。清と濁のバランスが取れてちょうどいい。
「そういうところを期待したのは確かだね」
それはそう。貴族の婚姻なんてそんなもの。政治以外の何物でもない。
「話してみるといい子だったし、彼女との出会いだけで僕は神を信じるね」
天秤の片方に載せる錘を探したら比較的すぐに見つかって、しかもそれが若い娘で性格も良い。それなんて物語?
これが既婚であったり婚約者が決まっているならそんな気がなくてもそういう目で見られてややこしくなるがそんな事実もない。むしろ、辺境伯の方からどうかと言ってきた。
全てにおいて都合良すぎたのだ。ビジャフエルテの謀略かと思ったけれど辺境伯とビジャフエルテの間に繋がりは見られない。
で、あればそれはつまり神のお導きだろう。
そう、殿下が結論づけられるのはまあ自然な流れよね。
全てが上手く行けば、それほ物語にもなりえるだろう。
「あ、君には悪いけど、勤めは勤めとして果たさせてもらうから」
「……承知しております」
勝利者だけが成し得る爽やかな笑顔だった。私は、心の臍を噛んでぐぬぬと唸るしかない。
「まぁ、それはいいとして」
よくはないけど私は姿勢を正した。
「どうやら君はお父君とは違う方面の才能があるみたいだから、必要なときはカルロータを通さず相談するね」
「父をご存知なのですか?」
「ちょっとひとりで動きすぎたよね。もっと早く僕が声をかけるべきだった」
「過分なお言葉、ありがとうございます……」
バランスをとることは、意外と簡単だった。
今まで通りとやり方を変える必要もない。
「これはだめ」
こんなふうにカルロータ様が弾かれたものを殿下には持ってゆけばいいのだから、それはもう楽だった。
「いけませんか……」
「うん。だめ」
形式ばったやりとりをすれば疑われることもない。
殿下とのやりとりもそう。殿下から侍女が遣わされる。私が対応する。それだけ。詳しくご説明申し上げるときは、夜番以外の日に参上する。ね、簡単でしょ。
やはり王家は王家。実働する人たちはとても優秀だった。
情報取りなんかは特に秀でていて、ビジャフエルテの敷地までは入れた。さすがに屋敷の中までは難しく、時間が必要だった。
だけど、敷地内であっても貴重な情報は充分に取れる。要は上がってくる情報をどう分析して、どう活かすかだ。
商売の失敗、信用の喪失、領地での役人の失態などは彼ら自身の選択による損失よね。私たちがそうしろと言ったわけではない。
ああ、そうなんだな、と思わせる情報は流したけれどね。
だが、相手だって無能ではない。利に聡く、機を見るに敏だからこそ一大勢力を築いたのだ。
派閥の領袖として君臨する彼はやはり狡猾で、ヘビのような鋭い目を持っていた。
誰がこのような工作を仕掛けてくるのか。殿下の派閥の者には違いない。
だが、証拠がない。
嘘の情報を掴ませた行商人や酒場の客、占い師など、すべて行方が知れない。いたことすら定かではないのだ。
当初は彼も怒り狂ったが、こうも続くと流石に怪しんだ。
これは、もしや罠では? 怪しんだ結果、冷静になった。
彼はある賭けをする。殿下に対し、無礼で、不敬な言葉を、何度も吐いたのだ。
本来なら不敬罪を適用されてもおかしくはない。それが、苦笑いひとつで済まされたのだ。
一度や二度なら、公爵の権勢を恐れたかとも考えた。しかし、三度目も同じように許されるならそれは裏がある。
この、巨大なヘビは、静かに草むらに潜み、じっくりと待った。数週間、数ヶ月、数年。どこの、どいつがこのような策をしかけてくる?
相手を慎重に探し、特定し、その牙を確実に突き立てる機会を伺っていたのだ。
時間をかけて殿下の周囲にいる貴族を買収し、その伝手をもって下働きの侍女へ。次いで、礼儀見習いの侍女と徐々に近付いていった。
そんなつもりはなかった、まさかそんなことになるなんて。のちに、彼女たちは口を揃えて言った。それほど巧妙に、言葉巧みに近づき、天使のような大胆さと悪魔のような繊細さで、狙う相手を見付けたのだ。
この頃、十六歳となった私の状況といえば、まず第一にカルロータ様の身の回りの世話をほとんど、辺境伯領以来の侍女たちに任せていた。というのも、公爵夫人からなぜか宮廷侍女長の役目を代行するよう命じられ、カルロータ様のスケジュール管理や交渉事、衣装や装飾の選定や注文などで忙殺されていたうえ、毎晩のようにビジャフエルテへの嫌がらせを計画していたからだ。
カルロータ様のお世話を直接できないのは本当につらく、悲しいことだった。お世話だけでなく、そもそもお会いすることも少なくなっていた。
公爵夫人からは、いずれ役目を譲ると言われていたものの、こんな早い段階で実質的な侍女長になるとは思っていなかった。てっきり、夫人が引退するのに合わせて、名目ともに譲られるのだと思っていた。
「こういうのは実際にやって覚えるところもあるからね。今のうちから、よ」
引き継いだあとでこんなこと知らなかったと言わないように、という優しさなのか、それとも言わせないための厳しさなのか。それとも。
「楽をしたいから、というわけでもなさそうですよね?」
「当たり前じゃない。まぁ、早く覚えてもらいたいのは事実よ」
笑いながら。当初からは想像もつかなかったけれど、いつしか私たちは笑い合える仲となっていた。
役目を引き継ぐという言葉に違わず、夫人は誠実に私を導いてくれているからだ。だから私は夫人を信じられた。心を開き、冗談のひとつも言えた。
「と、おっしゃいますと?」
「美しい花は、散る前に去るものよ」
などと豪語する夫人は確かにまぁ、言うだけあって同性の私でも美しいとは思う。整った顔には目立った皺もなく、ぴかぴか光っている。確か辺境伯と同じくらいの世代のはずだけど、そんなのが信じられないほどつやつやしかった。その気になればサロンにおいて唯一の花となり得るし、望めばいくらでも浮名を流せるだろう。
だが、夫人はそのようなことを一度たりとも望んだことはないらしい。聞けば、夫婦生活に満足しているのだとか。ごちそうさま。
ちなみに、夫人の旦那様は枯れ木だ。初めて知ったとき、私は転がりそうになったものだ。
そんな訳で、夫人は私が仕上がったと思えば引退するつもりのようだった。殿下に付き従い、苦労する旦那様の還る場所になりたいんだから早く仕事覚えろ、だなんてほんとごちそうさま。
肩をすくめていると、扉がノックされた。どうやら殿下の使いが来たらしい。夫人に断りを入れ、部屋の外へ出る。そこには、いつもの使いの侍女がいた。
「ごくろうさま。今日は呼び出し? 文書?」
「……文書を」
「解ったわ」
なるべく、誰の目にもつかないよう、できるだけ近付いて受け取る。決して、カルロータ様成分を他の娘で摂取しようとしていないのだ。なぜなら他の娘ではカルロータ様成分は得られない。これが真実である。
――ぞぷり。
「えっ……?」
お腹に違和感。
「ぐ……ああっ!」
お腹の一部分が、熱くて、痛い。痛いなんてもんじゃない。焼けついた棒をお腹に差し込まれたような。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
「ルシア様?」
歯を食いしばっていないと叫んでしまいそうだった。私は侍女。カルロータ様の侍女。誇り高い侍女は、惨めに叫ばないの、よ。
意識が飛びそうになる。どろどろとお腹を伝う、なにか。それが、何かは、解るけれど。今はそれよりもこの、侍女……っ。ただでは、逃がさない。
「っ! ルシア様っ!! 誰か、誰か!!」
びりりと布が破れる音がして――。
私は、その場に崩れ落ちた。脚に力が入らない。でも、絶対握り込んだ拳は開くもんか。急激に寒くなってきた。さああと視界に黒いカーテンが下ろされる。
まっ、く、ら、だ……。
夢を見ていた。遠い、昔の夢だ。ほんの十年くらい前だけど、とても遠くて、二度と手が届かない。その光景は。
大好きな姉がいた。
物心ついたときから、いつもそばには姉がいた。
姉がいたから私は安心して、自分の世界を広げることができた。
転んで怪我をしたときもある。友達とうまくいかなかったときもある。そんなとき、姉はいつも優しく、私を抱きしめてくれた。
甘えさせるばかりではない。
私を厳しく諭すこともあった。私が泣いてしまうまで理で詰められたこともあった。
その教えの全てを理解できたわけでも、実行できたわけでもないけれど、姉は私を諦めなかった。見捨てないでくれた。変わらぬ愛を注いでくれる姉が、大好きだった。
嫌なことやつらいことがあっても、たいがいは姉の顔を見るだけでどこかへ行ってしまった。見ているだけで穏やかになれる顔の作りは母似で、ふにっとしている。しゃきっとしている父似の私とは正反対だ。
同じ蜂蜜色の瞳であっても、姉は草食系で私は肉食系。
でも、同じ姉妹なのに印象が全然違うのは、ある意味ではありがたかった。幼いときは姉が好きすぎて、姉そのものになりたかったけれど、あまり似ない容姿のおかけで早くから自他の区別をつけられるようになり、自分というものを意識できた。
姉が家庭教師として、カルロータ・デ・モンティエル様にお仕えするようになったのもその助けになった。
人は、家族だからとずっと一緒にいられるわけではないのだと。六歳の頃から勉強などを教えてくれた姉は、最後に自立というものを教えてくれた。
それはもちろん、欲を言えばもっともっと一緒にいたかったけれど、そもそも普通の子爵家であれば姉はとうに嫁に行くか婿を迎えるかして家庭を持っているはずの年齢なので、どちらにせよ姉離れ自体はできていたのだと思う。
それから二年間は母の手伝いをしつつ村の子どもたちとも遊び、父が手すきのときは勉強を教えてもらうという生活が続き。
八歳となった私は、カルロータ様の侍女として姉から呼び出された。
ひと目見て心を奪われた。
流れるように美しい銀色に輝く長い髪はくせのひとつもなく、さながら夜空に流れる天の川のよう。
まるで、天から舞い降りたかと思うばかりの清らかなかんばせ。
誰も分け入ったことのない森の奥にひっそりと讃える、静かな泉を思わせる瞳。
小さく、それでも上品な輪郭をした鼻。
紅い果実のように瑞々しい唇。
背丈は私より少し大きいくらい。年齢もさほど変わらないだろう。それなのに全身から漂う雰囲気はなんだ。そこだけ集中的に明かりが照らされているような。お昼なのに、そこだけ妙に明るかった。輝いて見えた。
雷が落ちたような衝撃だった。
こんな人間が存在するのかと思った。父にも、母にも、そして姉にも感じたことのない、高揚感。
私は、一生の主を八歳にして見付けてしまったのだ。
それからというもの私はずっとカルロータ様とともにあった。
最初は、ひたむきさに任せて近付きすぎた。カルロータ様が引いてしまうほど、距離感がおかしかった。
ある日の、カルロータ様が馬に踏み潰されそうになったときも、ひたむきさゆえに体が動いたのだ。距離をとり、少し離れて見守っていたなら、とっさに動けたとしても、この手は届かなかっただろう。そこだけは自分を褒めてやりたい。
でも、ありがたいことにカルロータ様が私との距離を近づけてくださったのはそれからだ。随分と打ち解けて下さり、軽口も頻繁に叩いて下さるようになった。
これからは、堂々と隣に立っていいのだと。
もちろん、実際に立つ場所は斜め後ろだ。ここは誰にも譲らない。心の位置の話だ。
ずっと、カルロータ様と寄り添い、ともにある。そう、決めた。
それは、初めてお逢いしたときから何も変わっていない。
――なら、こんなところでどうして寝ているの?
いつもお側にいると言っていたのに、自分は何をしていたの?
私のカルロータ様を泣かせていいの?
「ん……」
自然に目が開いた。ここはどこだろう。布団に入っている? 私は、布団に入って休んだ覚えはない。
「っ!」
記憶とともに、痛みもよみがえってくる。
「いたたた……」
お腹を押さえようとして、腕が動かないことに気付く。指先がすこししびれているような。もしかして、刺された影響?
いや、違う。誰かが、私の二の腕に頭を乗せているからだ。
誰だなんて考えるまでもない。
カルロータ様だ。
寝込んでいるひとの腕を枕にするほど、距離を近く感じてくれているのだと胸が熱くなる。
できればこの時間を楽しみたい。静かに寝息を立てているカルロータ様もよいものだ。
そういえば、お休みになっているところを見るのは久々だ。
まぁ、いいか。
こんなにゆったりとした気持ちになるのはいつぶりだろう。このお腹の傷なら、少しはお休みをもらえるはずだし、のんびりカルロータ様を愛でるのもいいかもしれない。
十八歳を迎えてもカルロータ様のおかわいさはなんら変わっていない。
飾っておくより、ともに野山を駆け巡りたい。そんな、日向がよく似合うカルロータ様の寝顔は、どこかやつれているようにも見えた。
そういえば私が気を失ってからどれくらい経っているのだろう。
見える範囲には、誰もいない。不用心ねぇ。まぁ、扉の外に誰かが待機しているのだろうけど、貴人がひとりで、侍女なんかの付き添い(?)をするのはどうなんだろう。逆なら解るけれど、カルロータ様にはやることがたくさんあるはずだ。
と、いうことは、そんなに時間は経っていないのかもしれない。カルロータ様には、私などに割く時間はそんなにないはず。
そのうち、侍女が起こしにくるだろう。
それにしても、本当におかわいらしい。それしか出てこない。
私は、語彙を失った。
事実だし、それ以外に語る言葉なんてない。
そりゃあ、他にもカルロータ様のおかわいさを表現する言葉は星の数ほどあるだろう。でも、こういうのは華美になればなるほど、軽くなるのだ。
おかわいらしい。
これで充分。真実を語るのに言葉を次々と重ねる必要はない。うん。
このまま時間が止まればいい。
全てを忘れて、世界に、ふたりだけ。
動くと、起きてしまいそうで、みじろぎひとつできない。
触れられない。何も届けられない。
見ているだけ。何も生み出さない。
まるで、私たちの関係そのものだ。
そう、あるしかないのだ。
それ以上、なにもない。
……切ないなぁ。ちょっと泣けてきた。
でも、だからって、捨て去ることなんてできるはずがない。
だったら、このままだ。
ときどき、こうやって、涙を流すんだ。
どうしようもない。
どうしようもないからこそ、この時間がとてつもなく貴重なんだ。
たまには、こうやってご褒美がもらえるといいなぁ……。
「よし」
私は、片方の腕を動かして涙を拭い、表情を整えてからカルロータ様の肩を揺らした。
「カルロータ様、腕が痛いので、起きて下さい」
「っ!」
がばりと頭が上がり、すごい形相でカルロータ様がこちらを見た。近い近い。ご褒美ですけどこれはだめです。
「ルシア、体調はどう?」
「ん~まぁ、痛いですけどね」
お腹をさする。包帯を何重にも巻かれているので、どうなっているか良く解らない。
「起きられる?」
「はい」
ゆっくりと上半身を起こす。だいぶ傷に響くなぁ。当分は色々無理ね。どうしよう。代役立てないと。
カルロータ様は、眉をつり上げてこちらを見据える。
「すごい傷だったのよ」
「そうなんですか」
そうだろうとは思うが、良く解らないのが正直なところだ。
「血が、いっぱい出て、海みたいだった」
「そうでしたか」
これも、だろうな、としか。出血しているのは解っていたけれど、気を失ったからどれだけの量なのかは解らない。どうしても他人事のようになってしまう。
「三日も寝たきりだったのよ!」
「えっ、そんなにですか」
それは衝撃だった。三日はまずい。机の上に山と積まれた書類が浮かんできた。誰か代わりにやっててくれないかなぁ。
なんだかお顔が険しくなっていた。どこにご立腹される要素があっただろう。
「ずっと、ついてて……もう目が覚めないかと」
「なんという……大変なご迷惑を」
頭を深々と下げる。傷が痛いけれど、それどころではない。三日も、私だけではなく、カルロータ様のお仕事も滞らせてしまったなんて、とんでもないことだ。
「そうじゃない、そうじゃないの」
「えっ?」
顔を上げると、そこには涙でぐしゃぐしゃになったカルロータ様がいた。これは一体……?
「心配したのよ……ルシアがいなくなるんじゃないかって……死んでもおかしくないってお医者様が」
カルロータ様が立ち上がり、ゆっくりと、私を胸にかき抱いた。傷への配慮か。頬に感じるカルロータ様のぬくもりよりも、その配慮がすごく嬉しくて、胸が温かくなった。私のことを、大事に思ってくださるのだと。
「お願い……私を置いて、いなくならないで」
「カルロータ様……」
「あなた以上に大事なひとなんて、この世のどこにもいないの……だから、お願い。側にいて。黙ってどこかに行っちゃわないで……」
これは、夢の続きなのだろうか。
カルロータ様が、私を?
単なる多数の中のひとりではないことは理解している。だけど、今のカルロータ様のお言葉は、まるで……。
ぎゅっ、と、一度だけ力を込めてから、カルロータ様は身体を離した。距離は近いままだ。心臓が早鐘を打っている。こんな距離は馬からお助けして以来? いえ、たまに一緒に寝たこともあったから…辺境伯領以来?
「好きよ。ルシア」
「へ?」
混乱から呆然へと。どうもまだ私は夢の続きをみているようだった。
いや、違うな。夢でもカルロータ様はこんなご褒美をくださらない。
じゃあこれはなに?
実は私は未だ死の淵を彷徨ってて、願望を幻視している?
だってそうじゃないと説明がつかない。こんなこと、カルロータ様が仰るわけが。
「ルシア」
カルロータ様は両手で私の頬をはさんだ。ばちんと軽い音がした。全然、痛くなかった。
「もう一度だけ言うから。もう二度と言わないから、しっかり聞きなさい」
少し眉を寄せた、真剣な顔。
「……はい」
ああ。夢じゃないんだ。
「貴女が好きよ。愛してる。私の心は、いつも貴女ともにあるわ」
「私もです。初めてお逢いしたときから、ずっと、貴女だけを見ています」
カルロータ様は笑顔で頷き、そして、私にくちづけた。
それは、ほんの十数秒のこと。満足そうな笑顔を見せ、カルロータ様は立ち上がる。その顔は、それまでの◯◯ではなく、為政者の顔をしていた。それでこそ、だ。
「しばらく休んでいなさい。適当な頃合いを見て、復帰させるから」
「はっ……仰せのままに」
頷き、私に背を向ける。
「……犯人の衣服を掴んで離さなかったのは、見事だったわ。これで、逆から辿ることができる」
意識を失った私は、それでも手のひらを強く握ったままだったらしい――唯一、カルロータ様だけが私の手を開かせたそうだ――その中にあったのは布の切れ端。それこそが犯人の着ていた服そのものだもしかしたら、ビジャフエルテまで辿り着けるかもしれない。そうなれば大きな武器となりうるだろう。
私は、頭を下げて言う。
「いってらっしゃいませ。カルロータ様」
「うん。行ってくる」
***
その後のことを少し話す。
結局、私に対する傷害事件ではビジャフエルテにまで手が届かなかった。
しかし、心胆を寒からしめることはできた。逮捕できたのが、なんとビジャフエルテに極めて近い彼の部下だったからだ。もう目の前だぞと。
「最初に手を出してきたのは殿下の方ではありませんか。今さら被害者面など都合の良い」
部下を救おうと裁判を要求したビジャフエルテは大きなお腹を揺らして大声で殿下を逆に糾弾した。
「最初は、貴方の目にも留まっていなかったからね。でも、視界に入ってからはそうじゃなかったはすだよ」
よほど、大切な部下なんだろう。それもそのはず情報によれば腹心中の腹心。
だから、悪手を打っていることに気付かない。
「こちらはね、死傷者が出ているんだ。僕は、そちらの誰にも傷をつけたりしていないよ」
「何を仰るか。我が配下にも死んだ者はおりますぞ」
死罪ではなく、死んだ者。上手く言ったつもりだろうけれど、それも調べはついている。
「それは、貴方が私刑にしただけだよね? こちらは、直接貴方の手の者にやられてるんだ。同じ括りにはできないよ」
偽計を信じ、ビジャフエルテに大損害を被らせた被官のうち、ふたりほど、責任をとらされたと聞いている。その他は降格やら解雇やら。しっかりと情報は入っているし、声をかける準備もできている。
「むう……」
なぜ知っている、とでも言わんばかりの表情。自慢の大きなお腹もどことなしかしょんぼりしているようだった。情報力の差が理解できたかな?
「政敵だからね。そりゃあ、お互いにいろいやるよ。でも、刺す? 同じ国の者同士を、殺そうとするなんて、ちょっとやりすぎじゃないかなぁ」
裁判官や傍聴する貴族たちに語りかける。彼らだってビジャフエルテのやり口は充分知っているし、公平な裁判を何度も潰され苦い記憶を重ねている立場だ。私情を挟むのはよくないけれど、果たして公正でいられるか。
主張は違えど、同じ国の民を殺そうとするなど、許されることではない。
実行犯は終生の炭鉱送りとされ、教唆したビジャフエルテの腹心は長期の禁固刑となった。
ここから、ビジャフエルテの斜陽が始まる。
「ここからは僕たちがやるよ」
と殿下はそれ以降、私の参加を許して下さらなかった。さすがの殿下も私が大怪我をしたことで負い目を感じられたのかな、と思っていたらそれよりも大きな理由があった。
「私が言ったのよ。今後一切やめて下さいって」
「ええ……」
カルロータ様だった。
「もう私は厭わないから。元はと言えば私が選り好みをしていたのが原因だもの」
複雑な気分だった。これからはどんな性質のものであっても一緒に考えたいと言って下さるのは嬉しいのだけれど、カルロータ様にはいつまでも綺麗なままでいて欲しかったのもある。
「もう……過保護すぎ」
こちらの心が見透かされているような、優しい笑みだった。理解されているなって感じて嬉しくなる。
ちなみに、あれからあんなことは二度となかったとだけ。
それでも、心はいつも暖かかったし、温めてもらえた。カルロータ様もそうだといいけれど、さて。
ビジャフエルテは、積極的にやらずとも、王太子殿下に頼もしさを覚えた貴族たちが雪崩をうって陣営に集ったおかげで先細り、閑職に回されて最後はひっそりと死んでいった。
直接ざまあみろと言ってやりたかったけど、そこまではやりすぎかな、とそっとしておいた。あんなに目立っていたお腹がね、ぺたんこになってたの。ビジャフエルテの方が“枯れ木”の称号に相応しいくらい。
あんなに巨大な、聳え立つ壁だったのに、若芽みたいになっちゃって、これ以上の追い討ちはどうなんだろうと思ってしまったの。
殿下から相談役として招聘された父親にその事を伝えると、最初は複雑な顔をした。でも、隣に立つ、すっかり腰が曲がってしまった人がひとこと言えば、それですぐだった。
「貴方じゃ到底果たせなかった敵討ちを娘がしてくれたというのに、いつまでぐちぐちやってるの!」
いやぁ、我が家の女性は怖いなぁ。
王太子殿下は、無事に王位を継がれたけど、徐々に元気をなくされていった。
残された時間的に急ぐ余り、昏い部分が強調されたけれど、長く接していて解ったのは、意外と、人情家でもあったこと。カルロータ様を奪った相手だけど、人間としては尊敬できるお方だった。もっともっと長く、治世を見たかった。
だってそのお陰で、カルロータ様は余計に苦労をされることとなった。枯れ木もさっさと陛下の後を追ってしまったし、ひとり残されたカルロータ様が奮起するしかなかった。
王妃さまを姉として敬い、心をお慰めして。
幼き王には時に優しく、時に厳しく。その政治をお助けした。
カルロータ様は、ひとりではなかった。
カルロータ様の中には、幼いときに自身を導いてくれたセレナ・アルマールという家庭教師の教えが息づいていたからだ。
私の自慢の姉の教え通りに、幼き王を教え、導いた。その光景を見た私は、懐かしさでちょっと泣けた。
私の存在も、ひとつまみくらいは支えになれていたと思う。宮廷侍女長としてお仕えし、夜遅くまで広範囲のサポートを行った。
そして、下級貴族たち。
カルロータ様が王都に来て最初にしたのが国費による彼らへの援助であり、今こそ恩を返すときとばかりに多くの人材が集まってくれたお陰で、治世が安定したのだ。
実に三十年ほど。
カルロータ様は赤心をもって王国のために身を捧げ、ほとんど失政をせず、素晴らしき為政者としての評価を得て、その生涯を閉じた。
私も、最後までカルロータ様に付き従い、カルロータ様が亡くなったあとは、その墓守として。
最後の最後まで、ともにあったのだ。
おわり