1話
男は真っ白な消毒の臭いと言い表しがたいケミカルな臭いの染みついた病室のベッドに横たわっていた。どの薬の副作用か忘れてしまったが、男は一日に数時間しか意識を保っていられない。
その貴重な時間である昼の間に男はじっと動かずに窓の外を眺め続けていた。外には枯れた大きな木が見えた。漠然と眺め続けているとその木の枝に一匹の鳥が停まった。その鳥は男の長い人生でも見たことがなく、自然に目が惹かれるようなそんな不思議な鳥だった。
「ホホホ、ヘキョヘキョ」部屋に鳴き声が聞こえてきた。
「ふ、間の抜けた鳴き声だな」
男が掠れた声でつぶやく。その鳴き声はゆっくりと繰り返される。久しく感じたことのないような自然な眠気がゆっくりと這い上がってきた。部屋の中に聞こえてくる声は止まることなく繰り返される。すでに閉じ切った瞼に思考も徐々に重くなっていく、完全に意識を失う前に男は小さな違和感が覚えた。人の顔見えた。男は少し速くなり始めた鼓動に動かされるように、顔だけを外に向けた。そこにいた小さな鳥は米俵ほどまで大きくなっていた。それよりも異質なことは首から上の羽毛が徐々に抜け落ちていき、その下からは鳥肌とは思えない綺麗な肌が見えていた。「ヒッ」全身が硬直し汗が吹き出した、その瞬間それと”目が合った”。
ゴゥー。男の黒く塗られた脳内に音が入り込み、微かに意識が浮かび始めた。重たい瞼を持ち上げると、そこは変わらず暗闇だった。不思議なことに男はベッドに横になって寝たはずだったが。目を覚ますと椅子に座っていた。徐々に瞳が暗闇に馴染んできた、どうやら男は車の後部座席に座っているようだった。運転席のほうを窺うと若いスーツ姿の女性がハンドルを握っていた。
「あの、ごめんなさい」
どうもおかしな状況に陥っていると感じ取った男は少々の焦りを抱きながら、運転席に座っている何者かに声をかけた。
「はい、ああどうも、起きましたか?」
その者の声は車内にやけに響いて聞こえた。
「もうしばらく目的地まで時間があるので、どうぞお寛ぎになってください」
その丁寧な言葉使いと雰囲気に、私はまるで自分がタクシーに乗っているような気になってきた。
「目的地とはどこですか?それに私はなぜ寝ている間に勝手に車に乗せられているのでしょうか?」
「十和田 寿彦さんですよね?五十二年間大変お疲れさまでした。貴方の肉体はすべての機能が停止したのを確認しました。これから向かう場所は"一つの町"と言われています。予め言わせてもらいますが、車内で暴れたりしないでくださいね。それから質問は一つの町の人に聞いてください」
私は死んだらしい。そのことについてはあまり思うことはない。死ぬのも薬で眠り続ける生活もたいした違いはないだろう。しかし死んだというのに意識があるとは私の生前の思想から思えば突拍子のない話だった。得体のしれない物は恐ろしい。いま私は私自身が恐ろしい。自分とは何だったのかと不安になってくる。私が俯き黙っていると、ふと運転手の彼女が横目でこちらを窺っているのが分かった。
「もし、よかったら到着まで時間があるので後ろのテレビでも付けましょうか?」
どうやら気を使って話しかけてくれたようだ。よく見ると天井に収納されたテレビがついているタイプの車だった。
「いえ、大丈夫です。もう少し状況を整理しようと思っています」
私がそういうと、運転席の彼女が小さくため息をついたのが聞こえた。なぜだろうか?そこまでテレビを見なかったのが嫌だったのだろうか?たしかに送り届ける側からしたら、おとなしくテレビでも見ていてくれたほうがいろいろ楽なのだろう……ん?テレビ?一体なにを見られるというんだ?死後の世界で。
「ああ、お迎えするのが決まってから、十和田さんの人生をいい感じに見やすく編集し走馬灯を作成し
たんです。私が担当する方には毎回専用の走馬灯をおつくりしているのですが、皆様それどころではないご様子で……あまり見ていただけないのです」
「走馬灯ですか、しかし私の人生を改めて冷静に映像としてみるというのはあまり気が進みません。覚えていたくなくて忘れている記憶も多分にある気がします」
「はあ、そうなんですね。ではやはりこのような状況でなくとも、走馬灯は見たくないんですかね?ああ、なんか私ずっと空回っていたかも」
そういう彼女の声は徐々に暗くなっていった。彼女の声は相変わらずしつこく車内に、脳内に、響く。
「それでしたら、どこか見たい記憶だけピックアップして流しますか?どんな場面がいいですか?」
私は走馬灯と聞いてから頭の中を占めていたある出来事について考える。もう一度だけ…もう一度だけ味わいたい。
「なら、一つだけ2020年の4月8日の午後6時頃から見られますか?」
「ええ、分かりました。その日は十和田さんがちょうど還暦を迎えた日でしたね」
私は少し腰を持ち上げ手を伸ばして収納されているテレビを引き出すボタンを押した。すぐにテレビが青い画面に代わる。私は心が騒がしくなるのを抑え込むように全身に力を入れて、映像がつくのを待った。……しかし映像はしばらく待てども流れてこない。
「あの、映像始まらないのですが」
「え?そんなはずは無いのですが……映しているはずですよ?」
彼女がこちらに顔を向けた時だった、唐突に画面が変わり映像が流れ始めた。私はとあるアパートの駐車場に停めた車の中に隠れていた、手には60センチほどの竹やりを握り、ある男の姿を鼻息を荒くして探していた、すると駐車場に一台の軽自動車が入ってきて私の車から一つ空けた左に駐車しドアが開く。男が下りてくるのに合わせて、私はドアから飛び出して狙いなど一切定めずに男に槍を構え全力で突進した。「カッツン」槍が空を切り男の乗ってきた車に当たった。
映像が終わり、画面が再び青くなる。
「え?」
彼女が前で大きな声を出した。しかし私はそれどころではなかった。男が私はたしかにあの忌々しい男を殺したはず。あまりの混乱で身体が震えてきた。何かに八つ当たりしないと気が済まないほどだった。
ドゴンッ。
「なんで殺せてないんですか?今消えましたよ、あいつ」
あまりの事実に衝動を抑えきれなくなり前の助手席の背を殴ってしまった。金属で出来たシートの下の枠組みにまで届く勢いで殴ったため固く握られた拳がひどく痛む。
「分かりません。ただ、もし過去が過去では無くなってしまっているなら一度戻る必要がありますね、このままでは貴方を一つの町に連れていくことができなくなってしまいます。」
彼女がゆっくりと振り返ってきた。その瞬間私は急に眠くなってきた。そしてまただ、また私はあのおぞましい姿を見た。
*
目を覚ますと、自分の部屋にいた。部屋の中はごちゃごちゃと物が散乱していた。そしてその一角では段ボールが敷かれ、その上にのこぎりとナイフで尖らされた竹やりが置いてあった。そうだ今から私はあの男を殺す気だ。
「十和田さん、ここは10月28日の朝です。時間がありませんから、すぐに向かう準備をしてください。」
玄関のドアの前にスーツ姿の女がいた。正面から見るのは初めてだがおそらく運転席の彼女だろう。
「どういう状況ですか。なんで私は過去に来たんですか?」
「詳しい事や推測を省いて簡潔に言うと、あなたの過去が変わってしまっています。直ちに治さないと、一つの町に連れていくことができなくなってしまいます。もっと結果だけ言うならあなた自身が消滅します」
衝撃の事実を告げられたが、彼女の焦ったような語り口調のせいで質問ができなかった。私はベッドから眠気を我慢し無理やり起き上がり、洗面所に向かい顔を洗う。水垢だらけで白くなっている鏡には、三十代のころ自分が写っていた。髪の毛は艶がなく、顔も酷く血色が悪い。二十年前、急に妻に出ていかれ、ほとんど何も考えずに生きてきた。急にすべてが馬鹿らしくなり、それまで長く勤めていた会社をやめて、自宅から徒歩三分で行けるビルの清掃のバイトを始め、子供の将来用にしていた貯金を使いながらなんとか生活を送っていた。私は寝巻のまま竹槍を引きずり買い置きの段ボールに入ったお茶を二つ脇に抱え玄関で待つ彼女のもとに向かう。車のカギは靴箱の上が定位置だ。
「お待たせしました。行きましょう。あ、これ良かったらお茶どうぞ」
彼女が小さくお礼を言いお茶を受け取ると、こちらを不思議そうな顔で見る。
「それ、隠さないでいいんですか?」
彼女の指と視線は竹槍を指さしている。
「ああ、問題ないです。罪は自覚し罰はすべて受け入れます。だから隠す必要なんてないです。」
彼女は首をかしげていた。
「罰を受け入れる。そうですか……ではいきましょう」
そして私はまたあの場所であの男を待ち構えていた、車を止めると助手席に乗っていた彼女は訳の分からないことを言い降りて行った。
「邪魔の邪魔をしてきます」
しばらくして車が一つ空けた左に停まり、男が降りてくる。槍は男の腹部に刺さり、勢いから男が後ろの車体にぶつかり地面に倒れた。大きな声で悲鳴とも怒声とも分からない声を上げた。私は興奮から動悸を激しくし、その場に蹲ってしまった。
「十和田さん戻りますよ」
彼女の声が上のほうから聞こえてきた。
*
目を開けるとまた暗い車の中に戻ってきていた。テレビの画面には救急車に運ばれる男と警官二人に取り押さえられている私が映っていた。
「ふう、これで大丈夫ですね。では十和田さん降りましょう。着きました一つの町です」
そう言うとすぐに彼女は車から降りて行った。私もそれに続こうとしてふと今まで考えてこなかった、不安が浮かび上がった。質問をするなと最初に言われていたが、そもそも一つの町とはなんだ?疑心が次々に生まれてきて窓から外を窺おうとして気づいた。車内が暗いことから外が見えないのも夜だからだと勝手に思い込んでいた。しかし窓に鼻が触れる程顔を近づけても一切外が見えないことは少しおかしかった。
「逃げよう」
私は助手席と運転席の間から前に乗り出し運転席へと収まった。運転席にはハンドルとアクセルペダルとブレーキペダルがあるのみで他には何もついていなかった。
「一体何をしているんですか?」
ドアが勢いよく空けられ腕をつかまれ物凄い力で引きずり降ろされた。上から無表情の彼女が私を見下ろしていた。外は真っ白な地面と灰色の空が広がる広い空間だった。
「凄いですね。ここでは、そういった行動はあまり起こせないようになっているのですが。先ほどの定まっていない過去といい、本格的にきな臭い感じがしてきましたね。まあいいです。一つの町はあれです。あなたの疑問や全ての説明は門番がしてくれます。行きますよ」
私はよろよろと起き上がりながら彼女の向く方へと視線を向けると。50mほど先に巨大な白を基調とした壁があった。その巨大な壁は縦にも横にも終わりが見えず、ところどころに長方形や四角のカラフルな色の部分がある。まるでその部分だけつぎはぎしているみたいだった。
彼女が壁に向かい前を歩きだした。
私は先ほどの経験からおとなしく彼女の後をついていく。
「十和田さん。なぜ山田慧を殺したのですか?動機は分かります。しかしあなたの記憶をどれだけ探っても、あなたの思考も感情も読み取ることはできません。できれば詳しく教えていただけませんか?私個人的にあの殺人はとても良いものだと思っているんですよ」
「殺されかけたんだ。あいつは俺の首を絞め殺そうとしてきた。意識が落ちる瞬間私は明確に死を感じていた、あの恐ろしい感覚はいつまで経っても忘れられなかった。だから奴のことを探し出して殺さないとまずいと思ったんだ。トラウマでパニックになるたび後で怒りが湧いてくるんだ、あいつさえいなければと」
*
還暦の日は休日の土曜日だった。私は夕方から珍しく外食をした。市内巡回バスに乗り駅前の飲み屋街にある牛丼屋に向かった。最近の牛丼屋にはビールが置いてあることに少し驚きつつ、一杯飲みながら久しぶりのおいしい晩餐を楽しんだ。いい気分で店から出て歩いていると、急にすれ違った20代くらいの青年に肩をつかまれた。その青年はとにかく、なにか物凄い形相でこちらに怒鳴ってきたが、しかし酔っているのか呂律が回ってなく何を言っているか私には分からなかった。そしてついには肩を掴んで離そうとしない奴と取っ組み合いになってしまった。しかし私もほんの少しだけ酔っていることもあって態勢をくずして倒れてしまった。それから男が上に乗っかり両手で首を絞めてきた。私は抵抗をしていたが、青年との力量差は明らかでやがて私は気を失った。
どうやら数分から十分ほど気を失っていたらしく目を覚ますと警察と救急隊が私を取り囲んでいた。どうやら巡回中の警官に発見され救急隊を呼ばれたらしい。
幸い命に別状もなく、後遺症も残らなかった。しかし心は別だった。襟が首に触れるだけでパニックになるようになり、冬でも夏でも関係なく私はタンクトップしか着られなくなってしまった。必然的にバイトも続けられなくなった。
「ふむ、トラウマに対しての怒りが動機だったんですね。自分の息子でも殺されそうになったら殺す。それは素晴らしい事ですね」
今、なんて、意味が分からないことを。
「は?なんだって?息子なんか殺してない。だいたい息子なんて小学生の頃には妻と共に出て行ってしまったきりだ。人づてだが妻と息子は実家の他県に引っ越したらしいし、第一あいつみたいな人間が息子なはずがないだろう!」
訳の分からないことを言われたせいか急に頭痛がしてきた。彼女は進んでいた足を止め意外そうな顔をし、こちらに近づいてきた。
「ああ、そういえば忘れているんでしたね。これから先に受けることを受け入れられるように、罪を意識し"罰"を受け入れられるように、一から説明しますね。もう気づいたと思いますが、山田はあなたの妻の旧姓です。貴方のだらしない生活態度と何かあった時にすぐに物に八つ当たりする癖に愛想を尽き出て行ってから、実家の北海道に帰っていました。しかし大人になった慧さんは就職後に配属された場所が生まれた地である町だったんです、そういえば面白ポイントなのですが、貴方の行った牛丼屋とは別の牛丼チェーンで夕食を食べた後の帰り道でしたね。自宅のアパートに向かう途中、長く会っていなかった父の顔を見つけて声をかけたんです。しかし貴方は酩酊状態でその声が聞こえてなかったみたいですね。無視されたと思った慧さんは貴方の肩を掴み呼びかけました。そこからはあなたの言っていた通りですよ、取っ組み合いからヒートアップして気絶まで持ってかれたって感じですね。それでバイトを辞め、駅前で毎日張って慧さんの家を突き止め、準備はすでにしてあった為すぐに実行に移しました。殺した後、十和田さんは犯行現場に残り続けましたね、死体の横でお茶を飲みながら誰かが発見し警察に通報するまで待っていました。自首するのが面倒くさかったんですよね。何度か警察に電話しようとして止めていますね。」
「違う!それはただ昔から電話が苦手なだけだ。電話をかけようとすると緊張で胸が苦しくなるんだ!」
「ええ、そうだったんですね。私は人間の思考も感情もまだまだ理解できてなかったみたいですね。それはお詫びします。では続けますね。警察に逮捕され拘留中の取り調べで担当官から被害者が息子の十和田慧だったことを知ります。当たり前ですがかなりのショックを受けたようで拘留中に暴れまわり果ては自分の頭を壁にぶつけ始め自殺未遂。その後、大学病院で治療を受け目を覚ますときにはいくつかの後遺症が残り記憶喪失状態でした。まあここまででいいでしょう。そういえばもう一つ面白ポイントなのですが、貴方の死因って他殺ですよ。慧さんって結構モテたんですね。一人暮らしを始めてからすぐに彼女を作っていましたね。であなたが入院した病院はその彼女の職場です。貴方が薬で就寝中にナイフ持ってグサッって殺してましたね」
私はすべて思い出した。いや私の知らない衝撃の事実なども多分に含まれていたが、そんなことはどうでもよかった。そうだ私は息子を殺してしまったのだ。出ていかれてから一度も会えずに、いや会おうともせずに愛していたなどとは口が裂けても言えないが、あの小さかった頃の息子の顔が何度もよみがえってきた。泣き出してしまった私に彼女の手が肩に触れる。
「十和田さん、行きましょう。歩けますか?」
彼女が手を取り先へと手を引っ張っていく。やがて私は大きな白い壁にドアノブが付いている部分にたどり着いた。つなぎ目はなく扉には見えなかった。
「十和田さんここが、人が人のために創った地獄です。そちらのドアから入ってください。無いとは思いますが拒否は許されません。」
私はあの事実を告げられてから徐々に考えていた。ここが死後の世界ならやはり向かう先は地獄だろう。足が震え声は出なかったが、歩みは止らなった。そして私はドアノブを捻ると白いドアが現れ開く。
「十和田さん、死後の世界に選ばれたのは、慧さんではなくあなたですよ。うまくやればその街ですばらしい生活を手に入れることも可能でしょう。幸運を祈っています」
彼女は出会いから最後までなにを言っているのか分からない部分があったが、それは仕方のない事だった。赤茶色の羽毛に覆われた大きな一羽の鳥がこちらに向かい鳴く。それはあの病室で何度も聞いた鳴き声だった。
*
鳥の女性に見送られ扉に入ると。そこは小さな白い部屋だった。いつの間にか先ほど入ってきた扉は消えていて、私は出口を探したが扉のようなものはなく、先ほど入ってきたようなドアノブも見えなかった。私が途方に暮れていると、前方の壁の一部が透けて中年のぼさぼさの頭に堀の深い濃い顔に無精ひげを生やした目つきの悪い男が映った。
「ああ、十和田か。もう来たのか。私は日本人担当の常田だ。ようこそ地獄へ。すぐに町を案内することも可能だが、どうせいっぱい質問があるだろ、俺が知っていることならなんでも答えてやる」
男がこちらを見てひきつった笑みを浮かべながらそういってくる。質問と言われても何からしたらいいのか分からないので、正直ここに連れられた理由とか一から説明してほしかった。
「私をここに連れてきた者はここを一つの町って言っていましたが、地獄とも言っていました。ここはどういう場所なんですか?」
男はまるで私の言葉を予測していたように間髪入れずに返答を出した。
「ここは地獄だ。一つの町なんて気持ちの悪い呼び方をする奴はホトトギスの奴らか最初にこの場所を作った狂人くらいだ」
男は眦を吊り上げ不快そうな雰囲気を滲ませたが未だに頬が持ち上がり引き攣ったような笑みは変わっていなかった。私が彼の変わった様子に尻込みしていると、男は話をつづけた。
「ホトトギスって知っているか?よく戦国武将とか信長の妹とかが辞世の句で使ってるあの鳥だ、なんでも死んだ人間の魂を冥途に連れて行くらしいな。それに因んでここではお前を連れてきた得体のしれない存在がホトトギスって呼ばれている。この場所自体がどこなのかは分かっていないがいくつか整合性のある証言だと、死んでから魂になって浮かんでいると不気味な赤茶色の鳥に咥えられ連れ去られ、雲の中に浮かぶ巨大な鳥の口の中に入って暗い場所を進みやがてここに着いた。っていう話がある」
「つまりここは天国でも地獄でもなく化け物の腹の中だと?そんなまさか、先ほどはあなた自身が地獄だと言っていたじゃないですか」
常田は肩をすくめ笑いながら答えた。
「さあなー、でも実際地獄だと思っていただいて構わない。ここに連れられて来る魂はなぜか悪人や犯罪者、凶暴な人間しか来ないし、まあ地獄の悪魔や大げさな贖罪の方法が用意されている訳ではないが、とにかく地獄だよ。あと町には一つだけ絶対のルールがある」
「どういうことですか?」
「必ず一人で行動すること。これだけだ。一時間以上他人と意図的に行動を共にしてはいけない。これはまあそのうち分かるだろう。違反するとその違反の程度によって3~7日間ほど町を追放される。例外はいないもちろん管理側の俺も同じだ。よし、質問はこれで終わりな」
そういうと常田は腕時計を見て言った。
「もう20分くらい経ってしまった。あと40分で町を軽く案内してやる。行くぞ」
そう言うと常田の姿が消えて、右の壁にドアノブが現れる。この町に入ってい来た時と同じようにドアノブを回し外へとでた。入口から出るとそこはアスファルトで舗装された大きな広い道だった。歩道は存在せず大きなビルが両脇に隙間なく並び果てのない道の先にまっすぐと続いていた。その光景はビルと言うよりもまるで大きな壁がどこまでも続いているように見えた。
「ここは管理人と私のような者が住んでいる場所だ。町で千年間自我を保っていた者や、町に大きな影響を与えた者が居る。ここでは役割と食事と娯楽が与えられ、また管理区内では一時間以上の交流も認められている。もし何百年後か君がここに来ることがあるかもしれない。今後町でどれだけ絶望を繰り返すか分からない。一つの目標、一つの希望としてこの景色を覚えておくといい」
そういうと常田は顔だけ振り返り顎で進むことを示唆してきた。私は周りを見渡しながら彼の後を続いた。しばらくして一つのビルの入り口まで来ていた。歩いている途中で築いたのだが周囲のビルは窓も入口もスモークが入っているようで中が見えなかった。常田が入口に近づくと扉がゆっくりと開いた。ビルはどうやらオフィスビルのようで、白を基調としたロビーに人のいない受付デスクのようなものがあり、そしてその奥にはエレベーターが二つ奥見えていた。
「こっちだ、時間がないから早く来い」
常田が入ってすぐ左の壁に付いていたドアの前で腕時計を見ながら急かしてきた。ドアの先は下に降りる階段があった。私は常田と共に降りていくと、その階段はとても長く続いていった。そしてその階段の終わりにあったドアを開けるとそこはとてもひろい灰色の土地だった。町など一切見当たらなかった。見渡す限りの無の空間。前に立っていた常田が我慢の限界のように吹き出しながら笑った。
「いやあ、やっぱり驚いた顔っていうのは、みんな違った面白い顔になるから良いな。安心しろ、町自体は途轍もなく大きいからどの方向に進んでもいずれ辿り着くだろう。ここ管理区への入り口は周囲300km圏内に建造物を作れなくなっている」
「三百キロっ!?それって?もしかして歩いていくのか?」
「もちろんだ。基本を教えてなかったな。ここでは疲労も痛みもそのうち忘れていく。今はまだ魂に刻まれた記憶から痛みも空腹も疲労も感じるだろう。だが実際それはただの記憶であって気のせいだ。死ぬわけじゃない。ああ、というよりそもそも死後の世界で死ぬことはない。例えばナイフで刺されて血が出ても気のせいだ。やがて血も痛みも忘れる。ではここまでだ。最後にどれだけ自我が損耗してもどれだけ発狂してもルールだけは忘れるな?」
そういうと常田はいつの間にか顔に満面の笑みを浮かべ気持ち悪くニヤニヤしながら私の全身を見てから踵を返し先ほどの階段のドアへと消えて行った。無理やり笑っているような引き攣った笑みが満面の笑みに変わった瞬間、私の手足は震えていた。あれは人間のふりをしていたが地獄の鬼か悪魔か恐ろしい存在に違いなかった。私はやがてコンクリートのような感触の地面を踏みしめ歩き出した。この時はすでに町でまともな人に会うことが希望になっていた。
私はひたすらに灰色の土地を歩く。どれくらい歩いたかなど分からない。精神的、肉体的疲労に加えて脱水と空腹で何度も気が狂って空に向け奇声を上げて飛び跳ねながら進んだ。またいくばくかの時が流れたとき、ふと男の言っていた通りに事が進み始めた。初めに忘れたのは痛みだった。それから疲労を感じなくなった。依然として空腹と脱水でもがいていたが反面精神はとても安定していた。私は怖くなってきた。すべてが記憶であり気のせいだと男は言っていた。人間と記憶にアイデンティティが詰まっているものではないか?人生とは人間性とはそれらの答えは今私が実証し始めているのかもしれない。
「う……ふーふ」
独り言をしているはずだった。少しでも意識を保つために先ほどから思考をそのまま口に出そうとしていた。しかし思ったように言葉が出ない、話せないもどかしさに鼻息は荒くなり目が血走る。破壊衝動のまま地団駄を踏んで痛みがないので足が壊れてしまうほどに灰色の忌々しい地面を蹴りつけ続けていると急に意図が崩れたように体の力が抜けて地面に倒れこんでしまった。消えかける自意識の中で私は自分の手で殺してしまった息子のことを考えた。そういえば息子はその後どうなったのだろう?悪人がここにいるのは分かったが恐らく息子はここには来ていないだろう。そんなことを考えていたら息子の声が聞こえた気がした。
*
数十年後、十和田の進んだ道を辿る常田の姿があった。顔には相変わらず引き攣った笑みを浮かべている。長い道を一切の疲れを見せずに早足で歩き続ける。やがて道の先に一人の人間がが落ちているのを見つけた。
「ぶっ!!ハハハ!!ハハハッ!」
声を上げ男は笑い転げた。
「ふふ、はーはー。あーまさか自分の殺した相手に変わっているなんて。十和田さんの最後に残ったのがこれか!いいなーストーリー性があっていい!!これは別の物に変えずに取っておこう!なんなら物語にして管理区での新しい娯楽を提供しよう!うん」
途方もない時を経て常田に残った唯一の娯楽は町に辿り着けなかった魂の化石を集めることだった。
*
「起きろ」
誰かの呼び声が聞こえた。
ゆっくりと目を開けるとそこは透明な大きなケースの中だった。記憶が混濁して自分自身のことがよく分からなかった。私が入っているケースはおそらくどこかのホテルのロビーにあった。しかしその一見して高価な内装とエレガントな雰囲気と反してところどころに透明なケースに入ったガラクタのようなものがある変な場所だった。ロビー内はシャンデリアの灯りと間接照明できらきらと光っているがその豪勢さを謳歌する人の姿は見えなかった。静まり返ったロビー内で透明なケースに入れられ身動きすら取れずに飾られているという状況に焦りを感じ始めたころ不意に声が掛けられた。
「おい、親父。どうやら神様が贖罪の機会を与えるらしいぞ。」
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