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プレ・クリスマスコンサート1997

作者: 弓月城太郎

 十二月初旬の日曜日、「プレ・クリスマスコンサート・一九九七」と題されたクリストファー・アーサー・レイノルズ主演のピアノ演奏会が教会で行なわれた。

 この日、聖日礼拝の後の昼の部では、午後二時に開演の予定が組まれていた。

 ――照明を落とし、アンバー・ブラウンのダウンライトの光が降り注ぐ礼拝者席には、教会の信徒たちや伝道対象者など、たくさんの人が集まっていた。演出効果を高めるために窓には遮光性の高い分厚いビロードの暗幕が掛けられ、外からの光が入らぬよう工夫してあった。暗い礼拝者席とは対照的に、壇上には明るいスポットライトが当てられ、大きな花瓶に盛った豪華な生け花と、黒塗りのグランドピアノだけが闇の中にくっきりと浮かび上がっていた。

 しばらくして、もうひとつ別のスポットライトが点灯した。そこには鼠色のスーツを着た日本人の司会者が立っていた。そして手に持ったマイクを通じて、会場に集まった人たちに向けて退屈な挨拶と演奏者の略歴を伸べた。「皆さん、クリストファー・アーサー・レイノルズ長老を拍手でお迎えください」司会者はひときわ大きな声を残して礼拝者席に姿を消した。

 替わりに壇上のスポットライトの中に登場したのは、純白のタキシードに身を包んだクリストファーだった。観客の中から感嘆の溜息が洩れた。クリストファーはひと言も語らずに観客に向けて静かに一礼した。万来の拍手が会場の中から湧き起こった。気の早い女性が花束を持って駆け寄る。するとまたひとり。

 ひと抱えもある花束を司会者に預け、クリストファーはようやくピアノの席に着くことができた。

 ――演奏が始まる前の緊迫した一瞬。会場は水を打ったようにしんと静まり返った。クリストファーは、すうっと、何かを念じるように背筋を伸ばし、軽く天を仰いだあと鍵盤に指を降ろした。すると、軽やかなピアノの旋律が、春の夢から醒めたときのようにやさしく流れ出した。雪解けの水を運ぶ小川のように音は澱みなく、春の息吹に目覚めた緑の野原を横切って生き生きと流れ、やわらかいタッチで飛ぶようにして行き交うクリストファーの繊細な指は、あるときはひらひらと蝶のように、またあるときはきびきびと蜜蜂のように鍵盤の上を舞った。

 モーツァルトの『ピアノ・ソナタ第十五番ハ長調・第一楽章』明るい感じの曲だ。ほのぼのとした雰囲気が会場全体を包み込んだ。

 やがて最初の曲の演奏が終わり、短いインターバルのあとに次の曲の演奏が始まった。最初のフレーズを聴いたとき、『ああ、この曲知っている』と会場の誰もが思ったことだろう。有名なベートーヴェンの『エリーゼのために』だった。――突然の恋の告白に揺れる乙女心。深窓の令嬢のとまどいにも似た気持ちの揺れを想わせる可憐なメロディ。『あの方はいい人よ。できれば私もあの方の気持ちに応えてあげたい。でも、お父様は何とおっしゃるかしら』――散りゆく秋の薔薇がひらひらと花弁を落とし、水盤の水面を震わせるかのようだ。

 語りかけるようなクリストファーのピアノの音に、全員が心を奪われたかのように、ただじっと聴き惚れていた。

 演奏は三曲目に入り、会場の陶酔感はさらに増していった。

 ――限りなく遠い存在への憧れを夢見るかのように甘美でロマンチックな旋律が流れ始めた。不思議な感情を揺り動かす音の繋がり。涙を誘うほどに美しい! フランツ・リストの『愛の夢』――女神の心にも似た薔薇色の空に愛しい女性の面影を投射し、その空の果て、彼女の住む街の情景を想い浮かべる。するとどうだろう! 心に翼が生えたかのように私の想いは一瞬にして時空を超える。両手を差し伸べ、いまにも愛する女性をこの胸に掻き抱くことができるかのように、湧き起こる感情に押し流されそうになる。

 街角のカフェを出て、夕立の過ぎ去ったあとの石畳の上を君と共に歩く。私は君の手を取り、ふたりで丘に昇る。私は君に見せよう、この世界の素晴らしさを! どんな成功も、どんなしあわせも築いて見せよう! もしも君が信じてくれるなら、私は空を飛ぶことだってできるだろう! あの夕映えの空に、私は太陽に向かって身を投げよう! ――しかし、その想いはあくまでも夢なのだ。愛する彼女の幻影に差し出されたその手は、やがて虚しく我が胸に返り、そしてその想いだけをそっと抱き締める。

         *

 純白のタキシードに身を包み、うっとりと酔い痴れてしまうほどの表現力でピアノを弾く金髪の貴公子に、会場の誰もが魅了されたに違いない。特に女性は、一度でいいからクリストファーのような素敵な男性から愛されてみたいと願うものなのだろう。

         *

 この日、クリストファーは、クラシックの曲だけでなくジャズの曲も何曲か披露した。あるときには情熱的に、またあるときにはくだけた調子で、聴衆を飽きさせないプログラム構成だった。そしてプログラムの最後の曲は、ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ第一四番・嬰ハ短調・作品二七の二〈月光〉・第一楽章』であった。

 ――哀しみにうち沈む、愁いを帯びた旋律が静かに流れ始める。小さな波のうねりにも似たピアノの音が岸辺に打ち寄せる。青白い月の光だけが、晴れた夜空をただ煌々と照らし、人跡の絶たれた古城と己の分身を、山奥の湖に映し出している。風は冷たく、鳥の啼く声さえもない。枯れた梢が、月を見上げる私の目の高さにあり、萎びたその腕を月光の下に晒している。荒涼とした寂しさ。何という寂寥感! ――人生において挫折を経験したときに訪れてみたい場所の情景が思い浮かんでくるかのようだ。

 祈りを捧げる聖者のように真摯な思いでピアノを弾くクリストファーの姿は、月の明るい夜、ゲッセマネの園で最後の祈りを神に捧げたイエス・キリストを彷彿とさせた。

 いまも、スポットライトの光を浴びて闇の中に浮かび上がった彼の姿は、淡い燐光に包まれていた。体の輪郭に沿って揺らめき立つ透き通った青白いオーラのような光。

『聖霊の降臨』――条太郎は、あのときクリストファーが語った言葉を思い出さずにはいられなかった。

         *

 プログラムがすべて終了して、クリストファーが会場をあとにしてからも、アンコールの声は鳴り止まなかった。再び会場に現われた金髪の貴公子は、全員から熱烈な歓声と拍手で迎えられた。

 クリストファーは、全員から浴びせられた祝福に両手を振って応えたあと、もう一度ピアノの席に着いた。

         *

 導入部の、運命の悪戯を予感させる弦の響きを残し、先ほどまでのしんみりとした曲のイメージを追い払うかのような、テンポの速い、それでいて詩情豊かな旋律がクリストファーの指先から零れ落ちるように流れ出した。運命の激流に弄ばれる木の葉のように想いは千々に乱れ、抗う術もなくどこまでも流れ堕ちてゆく。――ショパンの『幻想即興曲』だ。

 超人的な指捌きを披露するかのように、クリストファーはこの難曲を事もなげに軽々と弾きこなした。観衆は皆呆気にとられて見守るばかり。――やがて曲想が変わり、緩やかな上昇に向かうパートでは、人生に訪れる束の間の安定を物語るかのように、クリストファーは全身にありったけの情感をこめて弾いた。夢見るように志を保ち、感傷に浸りきることなく、やがてまた自分の歩むべき道へと戻ってゆくかのように。

 演奏が終了しても、まだアンコールの声は続いた。『もう終わりかな』と誰もが諦めかけた頃、クリストファーはもう一度、観衆の前に姿を現わした。会場全体が歓喜の声に沸き返った。だがクリストファーが演奏のためにピアノの席に着くと、全員が固唾を呑むようにして黙りこくった。

 クリストファーは、演奏会の最初に見せたときのような仕草で、すうっと息を吸い、背筋を伸ばし、軽く天を仰いだ。今度はどんな素敵な曲を演奏してくれるのだろう。誰もが次の瞬間に期待した。

 いままでとは打って変わって、単調な日本の曲が流れ始めた。

 タン、タン、タ、タン。タンー、タン、タ、タン……

 会場から笑いが洩れた。鍵盤を指でつつくようなおどけた仕草で、クリストファーがわざとヘタクソに弾き始めたのは、『蛍の光』だった。しかし、次のフレーズで曲調が変化した。主旋律は『蛍の光』のままだが、ジャズ風に崩して弾いている。それがいつの間にか『史上最大の作戦』のマーチに姿を変える。続いてスウィング・ジャズ風に楽しそうにジャン、ジャンと弾く。気分が乗ってきたようだ。酒場で閉店まで粘る客を喜ばせて返すときのようだ。それだけではなかった。今日のプログラムで演奏された聴き覚えのある曲が、ジャズに姿を変え、次々とメドレーで繋がってゆく。ほとんど原形をとどめないくらいアレンジしてあるため、まったく別の曲に聴こえるが、微かに聴き覚えのあるフレーズが入っていて、その部分が心をくすぐる。曲の終盤でもう一度、『蛍の光』のアレンジ曲が入り、最後は再び『史上最大の作戦』に戻り演奏を終えた。と思いきや、ダン、ダ、ダ、ダン、ダン、ダン、ダン、と間抜けな節を入れた。

 ぱあっと、華やいだような高揚感が会場全体を駆け巡った。観客は大喜びだ。十分に堪能した。もう誰もアンコールをせがまない。それにしても『蛍の光』をこんな風にアレンジして弾いたのは、クリストファーが初めてだろう。これを即興でやっているとしたら凄い才能だ。

 クリストファーはサービス精神たっぷりに愛嬌を振りまき、貴族が宮廷で王様に謁見するときのような芝居がかった仰々しいおじぎをし、観衆の拍手喝采に応えた。花束を贈ろうとする人、握手を求める人、ひきもきらぬファンからの祝福に、クリストファーは逃れるようにして会場から姿を消した。

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