ある日の素朴な疑問
十月二日。
この日も午前中から、松永大佐が次の定例会議で使用する資料作りを手伝っていた。作り終えた資料の最終チェックを行う前に、腕を組んで軽く伸びをする。筋肉は凝り固まっていない。魔法による微弱な振動を全身に使えば、簡単な全身マッサージが出来る。やり過ぎると揉み返しによる筋肉痛が起きるが、二分程度なら問題は無い。
パソコンの画面に視線を向けた時に、ふと、八月の会話を思い出した。
……そう言えば、『卒業後に所属部隊で教わる事だ』とか、何か言っていたな。
十年前の作戦が失敗した云々と一緒に、そんな事を誰かが言っていた。飛び級卒業した自分はそれを知らなくて良いのか。松永大佐が休憩している時を狙って尋ねた。
「ああ、それか。気にしなくても良いぞ。卒業後に教える事は必要になった時に、その都度『事前に教える事』になっている。卒業後に受ける銃火器類の講習は、星崎が十六歳になるまで待ってから、行う事が決まっているが、どの道まだ先の事だ。現時点で、星崎が気にする必要は無いし、受ける講習類も無い」
「そうだったのですか」
必要になりそうな時に教えてくれるのなら良いか。でも、銃火器の講習なんてものが存在したのか。
「パイロットなのに、銃火器類の講習を受けるのですか?」
「確かに我々はパイロットだが、一応が付くも『軍人』だからな。銃火器に関しては、卒業後に講習を受ける。以降は、年に一回以上の訓練が義務付けられている。ツクヨミにいる間に、好きな時間に一回一時間の訓練を受ければ良い事になっているから、月面基地駐在兵も訓練は受けているぞ」
詳細を聞いて八月の事――マルス・ドメスティカが保管区で暴れた日の事を思い出す。
あの時、訓練学校のOBの松永大佐と佐藤大佐に、佐々木中佐と井上中佐も銃火器を持っていた。あれは講習と訓練を受けていたからだったのか。納得はしたが、別の疑問が沸く。疑問を口にする前に松永大佐からの説明が入る。
「余程の事が無い限り起きない筈だが、毎年、訓練を受け損ねる奴が一定数いる。その場合は再講習となり年間の訓練数が増える」
やっぱりかと思ったが、自分が抱いた疑問の解答では無かった。
「通常は訓練生『全員』で、講習を受けるんですよね?」
「そう言う事になるな。講習は全部で十時間――いや、待て」
松永大佐はここに至って、漸く最大の問題点に気づいた。
普通に卒業したら、卒業生全員で受ける。飛び級卒業生の場合はどうなる?
「松永大佐。一人で講習を受けに行っても良いのですか?」
「却下だな。佐藤大佐に教官の練習としてやらせても良いが、佐久間支部長と相談するしかないのか」
松永大佐はそう言うなり、腕を組んで考え込んだ。
一人で受けに行くのは却下された。一人で出歩くともれなくトラブルが寄って来る。トラブルが寄って来ただけの事を証明するボイスレコーダーを持ち歩いても、効果は無かった。飯島大佐の仕事の仕事を手伝いに行った時も、トラブルがやって来た。『さらっと拷問するんじゃねぇ』と工藤中将にも言われたが、録音データを聞かせただけで拷問にはならないと思うの。
ルピナス帝国にいた頃の近所に『お説教おばちゃん』がいたし。あのローズマリーの女将は『説教をしながら刃物を研ぐ』のが好きだったんだよね。説教を受ける側は床に正座したまま震えていたけど、研ぎたての刃物による殺傷事件は起きていない。
と言うかね。女将は金物店を営んでいるおばちゃんなのよ。研いでいる刃物は店頭に並べる商品か、『研いで欲しい』と依頼を受けた刃物なのだ。でなきゃ、大量の刃物を所持しているのはおかしいのよ。一部の人は女将を『魔王』と呼んでいたが、お説教をしている時以外は良い人なんだよね。
「星崎」
松永大佐に呼ばれた。返事をしつつ意識を戻す。
「一人で講習を受けに行く事が出来ないのは確実になる。佐久間支部長と相談しても、どの道、来年にならなければどうしようもない」
来年にならなければどうしようもないのに、松永大佐はどうして考え込んだんだろう?
「話は変わるが、星崎は銃火器を使った経験を持っているのか?」
「ルピナス帝国にいた頃になりますが、たまに使いました」
急な話題転換だが、経験は有ると回答する。ついでに使用した経験の有る銃火器の種類も挙げる。
オートマチック、リボルバー、ガトリング、マシンガン、ロケットランチャー、狙撃銃……色んな種類の銃火器を使っていた。全部道具入れに入っている。
「銃火器の使用経験持ちだったか。だったら、安全装置の解除方法以外の講習は受講済みにしても良いかもしれないな」
松永大佐の中で、自分が受ける予定の講習の内容が変わって行く。
でも、多分が付くけど、使う未来は来ないと思う。仮に使う時が来ても、道具入れに仕舞っている銃を『先に』使う気がする。使い慣れている方が安全確実だし。それに現代の銃火器は、使う人間を選ぶように安全装置の解除が煩雑化している。
覚えるのが億劫だから免除にならないかな?
「どうなるか分からないが、使用経験持ちの事だけは佐久間支部長に報告しておく」
松永大佐の中で何かが完結した模様。この言葉を最後に、話は打ち切られた。
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「――と言う事が判明しましたが、どうしましょうか?」
この日の夜。松永は映像通信で佐久間支部長に昼間の事を報告していた。
『経験持ちなら、講習免除で良いかな? 今の星崎に銃火器を持たせるのは、別の意味で問題しかないし。安全装置を解除してから渡せば良いね』
「現実逃避を止めて真面目に考えて下さい」
口の端に煎餅の食べかすが付いている佐久間を見て、松永は嘆息しそうになった。そして、何故かげっそりとしている佐久間に『現実に戻って来い』と苦情を言う。
『松永大佐。来年の事を言えば鬼が笑うって言葉が在るんだけど、知っているかな?』
「明日は明日の風が吹くとでも、仰りたいのですか?」
『そんなところだね。まぁ、覚えておくよ』
「そう仰って何度忘れたか、覚えていますか?」
松永が笑顔で返すと、佐久間の蟀谷あたりから、たらりと、一筋の汗が流れた。この反応から考えると、忘れていたのだろう。
『回数を聞いたら教えてくれる、のかな?』
「知りたいのなら教えますよ」
『それは止めておく。互いに忙しい身だからね』
佐久間支部長は逃げるように通信を切った。松永は怒りもせずに黙って映像通信機を停止させた。
報告する事が目的だったので、通信を切られても問題は無い。だが、別の問題が発生した。
「煎餅の食べかす。また健康診断で『血糖値が高い』と言われたのか」
発生した別の問題。それは、佐久間支部長の健康不良だ。
実を言うと、佐久間支部長は忘れているのか、半年毎に本人の好んで食べるものが変わる。ここ数年は、甘いものと少し塩辛いものが交互に来ている。『血糖値が高い』と言われると一口サイズの塩煎餅を日に二十~三十枚食べ、『血圧が高い』と言われると一口サイズの甘いもの――饅頭一ダースか羊羹を一本――を食べる。
佐久間支部長の体調不良が原因で、日本支部全体に何かが起きては困る。大林少佐を経由して秘書課の面々に知らせて、佐久間支部長のお茶請けに数量制限を課すように言っているが、効果は無い。松永と飯島大佐が揃って直接言っても、同様の結果だ。
しかも、最近は松永と飯島大佐の目を盗むように健康診断を受けている。
……ここまで来たら、一度倒れたところを徹底的に締め上げた方が良いのかもしれない。
そう結論付けて、松永は寝る事にした。
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「――ぶぇくしょんっ」
その頃、執務室で小腹満たしとして煎餅を食べていた佐久間は強めのくしゃみを飛ばしていた。
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