ある日のお仕事風景
九月下旬某日の午前九時。
飯島大佐と二人で通路を歩きながら説明を受ける。
「――と言う訳で人手が足りないって事だ。報告書だけ纏めてくれ」
「判りましたが、十五時から演習に参加する予定がありますので、お手伝い出来るのは十三時までとなります」
「それで構わねぇよ。少しでもやってくれれば、それだけで助かる。自称優秀が、これまた役立たずなんだ」
「心中お察しします」
上役は大変だなぁ。
飯島大佐に同情していると、執務室に到着した。共に室内に足を踏み入れると、複数人の男女が慌ただしく書類仕事に追われていた。大変分かりやすく、仕事に忙殺されている。入室した飯島大佐に気づきもしない。
「飯島大佐。仕事はあの机に載っている分だけですか?」
「ああ。そこの報告書だけ頼む」
「分かりました」
応答を飯島大佐に返して、椅子の背もたれすら見えない程に報告書類が積まれた机に向かう。
「飯島大佐。こんなところに使えない子供を連れて来ないで下さい」
「伊藤」
眼鏡を掛けた神経質そうな男が、入室した自分と飯島大佐に気づいて声を上げた。
飯島大佐がギロリと睨み付けた事から察するに、こいつが自称優秀なのだろう。事実、飯島大佐に睨まれた事で、震え上がり周囲からも『またか』みたいな視線を集めている。
「見た目は子供でも、階級はお前よりもずっと上だ。軍人なら階級が上の人間には、年下であっても敬語を使えと言っているだろう」
「ええ!? こんなガキが、あ、いや、その、す、済みません」
渋々と言った感じに謝罪の言葉を口にするが、自分を睨む事は忘れない。良い根性しているな。
「はぁ、そんじゃ頼む」
「分かりました」
ため息を吐いてから、飯島大佐は席に向かった。その背中はどこと無く疲れていた。
見送ってから自分も席に着いて仕事を始める。事前の打ち合わせ通りに、報告書の山を捌いて行く。
一回集中すると周囲の声が入らなくなる。この癖は良い時もあれば悪い時もある。
報告書の山が半分ぐらいにまで減った頃。
処理済みの報告書を載せたカートを空きのカートと入れ替える為に席を立った時、何かが飛んで来たので掴む。掴んだものを見るとボールペンだった。ゴミ箱に捨ててから、カートの入れ替え作業を行う。
席に着いたら、不審な足音が近づいて来たので、報告書を移動させる。空きスペースに誰かが倒れ込んで来た。わざと倒れ込んで来たのが丸分かりだったので無視する。
仕事の邪魔をするように、机の中央に手を伸ばして来た。
小学生でも、いや、本物の小学生に失礼だな。
幼稚園児でもない。 保育園児のようだな。それも一歳ぐらいの。
「子供の邪魔をして、恥ずかしくないんですか?」
自称優秀ともなると、羞恥心が消えるのかと疑問が湧いたので正直にぶつけた。
すると、上半身を起こした眼鏡の男が睨み付けて来た。迫力がないので、子供が涙目で怒っているようにしか見えないが。
「あ゛あん? 階級が上だからって調子に乗るな」
「飯島大佐より、隊長経由で頼まれて来ているだけです」
「生意気なクソガキだな! 俺の方が優秀なんだぞ」
「他人の足を引っ張らないと優秀でいられない無能なんですか?」
「ぐ」
「優秀なら、幼子のような嫌がらせをしないで、黙って仕事をやって下さい」
そう言ってから机の上から追い出した。
「な、な……」
色々と無視して仕事を再開する。
「このクソガキっ」
「おい、いい加減にしろ! 仕事の邪魔してないで、仕事をしろよ!」
「うるせえっ、伍長如きが軍曹の俺に指図するな!」
この眼鏡、軍曹だったのか。一回こいつの功績を見直した方がよくない?
「大体、階級が上って、どうせ准尉だろ!」
「私の階級は中尉ですよ」
「……」
自分の正しい階級を教えると室内にいた全員の顔色が変わった。眼前の眼鏡に至っては驚きの余り二の句が継げず、金魚のように口をパクパクと動かしている。
「軍曹って言うのは随分と威張り散らせる階級だったんですね。飯島大佐のところの空気が緩いのか知りませんが、相手の階級を確認せずに決めつけるのは、はっきり言って馬鹿がする行為ですよ。余所の隊所属の四階級も上の人間に暴言を吐いた挙げ句、仕事の邪魔をしたら、飯島大佐はどう思われるんでしょうね?」
眼鏡を見てから、出入り口に視線を向ける。そこには飯島大佐がいた。気配を消していたとは言え、ドアの開閉音には気づくだろう。眼鏡を含む、室内にいた全員が飯島大佐に気づいて、皆立ち上がり直立不動になる。
「おう、伊藤。嫌がらせはやるなと散々言った筈だが、何時になったら止めるんだ? お前の仕事の進みが遅くて、ミスが多いから余所に頭を下げて手を借りて来たんだぞ」
飯島大佐がヤクザのようにメンチを切っている。ただでさえ強面なのに、声を低くして怒りを滲ませると、本物のヤクザ以上に迫力がある。怒りを向けられた眼鏡は腰を抜かして、その場に尻餅を着いた。
「全く、俺に睨まれて腰を抜かすんなら、始めからやるんじゃねぇ」
飯島大佐はそう言ってから眼鏡の襟首を掴み元いた席に引きずり戻した。
「さっさと仕事に戻れ! 昨日も言ったが、今割り振った仕事が今日中に終わらなかったら異動だ。嫌なら早急に終わらせろ!」
「わ、分かり、まし、た……」
眼鏡を叱り飛ばすなり、飯島大佐はこちらにやって来た。
「悪いな。午後に演習参加するってのに」
「時間に余裕があるので良いですよ。演習も十五時からですし」
ぼそっと、今回限りならと付け加える。かなりの小声で言ったにも関わらず、飯島大佐の耳には届いたらしい。去り際にすまねぇなと、再度謝られた。
そのまま再度仕事に没頭する。
カートの入れ替え作業を行うついでに時計を見る。時刻は十二時前。仕事は殆ど残っていない。集中してやれば、十分程度で終わる。
カートを入れ替えて、集中して捌いたら十分かからずに終わった。
軽く見直して飯島大佐に纏めたものを提出する。
「飯島大佐。今日分仕上がりました」
「お、おう。もう、終わったのか」
「はい。もう少し掛かると思いましたが終わりました」
「……そうか」
飯島大佐の顔が引き攣ってから、諦めたものになった。なぜだろう?
気になったが、答えて貰えないので、退出する事にした。
「では、これにて失礼します」
「待て、送る」
「一人で大丈夫ですよ」
「そう言うと、絡まれるんだぜ」
心配性だと思っていると飯島大佐が椅子から立ち上がった。
「送る。変なのに絡まれて演習に遅れたら、俺にデカい雷が降る」
「そうなんですか?」
「ああ。支部長からもお小言貰うしな」
目を丸くして尋ねると首肯された。
念の為断ったが押し切られて、飯島大佐に送られた。
午後の演習には間に合った。代わりに、演習出張先のところで一悶着起きた。けれど、どうにか演習自体は終わった。
その翌々日。
再び飯島大佐からの依頼で仕事を手伝う事になった。前回と違い、今回は別室で仕事を行う。前回と同じく、飯島大佐の案内でやって来た部屋は、机と書類を載せたカートが数台あるだけだった。前回と違い誰もいないのは、飯島大佐の気遣いだろう。
退室する飯島大佐に礼を一言言ってから仕事に取りかかる。
仕事は順調に進んだ。
集中しているからか、邪魔が入らないからか、進みは極めて早い。
依頼された仕事の四割り近くが終わった頃になって、前触れもなくドアが開いた。
誰がやって来たのか。顔を上げて確認すると、一昨日の眼鏡だった。
興味を無くして、仕事に戻ると何やら喚き始めた。
曰く「お前のせいで異動が決まった」、曰く「お前のせいで降格が決まった」、などと眼鏡は喚く。
何度聞き直しても、自業自得としか思えない内容だ。何故その原因が自分だと主張出来るのか?
被害妄想にしても酷いな。
ただ、これ以上喚かれても煩いだけだ。眼鏡がこちら背を向けた瞬間を狙い、音を立てずに立ち上がって背後に忍び寄る。眼鏡がこちらに気づいていない事を確認してから、手刀を首筋に叩き込む。悲鳴すら上げずに、眼鏡は白目を剥いて気絶した。そのまま床にドサッと音を立てて倒れる。完全に気絶した事を確認してから、念の為に持って来た梱包用のビニール紐で手足を縛り、起き上がれないようにする。次に、スマホを取り出し、録音データを再生して、眼鏡にも聞こえる音量に設定する。最後に耳栓をして終わり。
仕事に戻ろう。
※※※※※※
工藤が飯島と打ち合わせをする為に隊舎に顔を出した時、通り掛かった部屋の前に人だかりが出来ていた。
不審に思った工藤は、歩み寄って何が起きているのか、一人を捕まえて尋ねた。
「変な音と啜り泣く音が聞こえる?」
「はい。既に何十分も聞こえてきます。憲兵部に連絡を入れた方が良いのでしょうか?」
「まだ入れていないのか。だったら、俺が見てから連絡するか決める。下がってろ」
工藤は野次馬と化している面々を下がらせて、室内に入った。
「……」
室内を見た工藤は思わず絶句した。
「な・ん・だ・こ・れ・は?」
それ以外の感想が思い浮かばない。
工藤の目に飛び込んで来た光景は。
黙々と無言で仕事をこなす星崎。
手足を縛られて、床に無造作に転がされて啜り泣く男。
延々と響く、刃物を研ぐ音。
訳の分からない光景が広がっていた。
ついでに星崎がいる事から、工藤は憲兵部を頼れない事も理解した。
「大至急、飯島に、連絡を入れろ!」
状況の解決を図る為に、工藤は指示を飛ばし、星崎に近づいた。今になってか、それとも足音を聞いてか、顔を上げた星崎は左右の耳から耳栓を外し、通信機を操作して流れていた音を止めた。
奇妙な音と今まで無視されていた原因が判明した。
「流石魔王の部下」
「工藤中将。誰が魔王の部下なんですか?」
「独り言だ。気にするな」
「松永大佐より、疚しい事がないならボイスレコーダーを身に着けていろと、指示を受けているのですが?」
星崎が受けていた指示の内容を知り、工藤は近い将来にやって来そうな、精神的な危険を感じ取った。
「さっきの発言消せないか?」
額に吹き出た汗を感じて、工藤は一縷の希望に賭ける。松永を魔王呼ばわりした事がバレると、床に正座した状態で本人と恐怖の個人面談(強制)となる。
「無理ですね。松永大佐と神崎少佐が設定したロックを解除しなくてはなりませんので」
「……そうか」
一瞬で未来が暗くなり、ストレスで工藤の胃が痛みを訴え始めた。
「おう、工藤中将。来たぜって……どうなってんだ、これ?」
そこへ、飯島がやってきた。
俺も知りたいと、工藤がぼやけば、星崎が簡単に説明する。
馬鹿が喚きにやって来て、うるさいから気絶させた。
ここまでなら、まだ理解可能だ。
だが、梱包用のビニール紐で手足を縛り、刃物を研ぐ音を延々と聞かせ続ける必要は、果たしてあるのだろうか。
「伊藤が悪いのは認めるが、そこまでする必要はあるのか?」
「? 録音を聞かせただけですよ」
星崎は、どうしたんだろうと、言わんばかりに首を傾げた。
工藤からすれば、何故首を傾げるのか理解出来ない。
「伊藤は反省していないなら、神崎のところに突き出せばいいか。こいつは回収して行く。一時間後にもう一回来る」
「分かりました」
工藤はそれで良いのかと思ったが、ここを預かっている人間の決定なので口を挟むことは避けた。
工藤に決定権は無いし、余所の隊の出来事と言うのもある。
飯島は野次馬を散らし、手足が縛られたままの伊藤と呼んだ男性兵を肩に担いだ。そのまま工藤と共に移動する。
憲兵部に連れて行く前に、適当な空き部屋に伊藤をそのまま放り込んだところを見ると飯島も怒っているのだろう。
その後、隊長室で二人は話し合いをしてから解散した。
なお、星崎は仕事が終わるなり一人で帰ろうとして飯島から注意を受けた。
トラブルホイホイを野放しにしたら何が起きるか分からない。飯島の行動は正しい。
後日。
伊藤は神崎の元で説教を受けてから、強制的に本国へ移送された。
工藤はボイスレコーダーの録音削除が出来ず、松永からのお説教を受けた。