2024習作①「素描」
彼に話しかけられたのは5限の講義が終わり、まさに帰ろうとカバンを背負った時だった。階段型の教室を降りようとした足を止め向き直ると、彼は興味と期待を交えた、端的に言えば野次馬精神丸出しの顔で俺に尋ねた。
「なあ、この間一緒にいたゴスロリの子って彼女なのか?」
「ゴスロリ?」
この馬の名前は何だったか。思い出しながら答えを考える。詳しくなければ、少しフリルが多くてスカートにパニエが入っていれば、何でもゴスロリに見えるものだ。ゴスロリ、甘ロリ、クラシカルロリータ。おそらく『クラシカルロリータの子』の事だろう。尤も、服装の名前については彼には重要ではないのだろう。俺にも関係はない。
「彼女では無いよ。近くの美大の子でね。作品作りを手伝ってる。」
「いや、彼女だろ。スーパーで買い物してるの見たぞ。同棲?」
「家にたまに来るから」
へぇ、と彼は半信半疑だった。正しくは半分も信じていないだろう。が、事実である。一々外食する程の事では無い。どこで食べようと、夕方に食べれば夕食である。この間美大の子に会った時、即ち先週末はたまたま1人分程度しか食材が無かった。それに、うさぎが買い物をする所を見たいと言ったのだった。そうしてスーパーに寄り、かの学友に目撃されるに至ったのだ。と、言う経緯は彼にとって関係の無い事であるし、興味の無い事だろう。彼が気になっている事は、本質に於いて近くとも、表象に於いて遠い事に違いない。
「じゃあすぐヤれるんじゃね。ちゅーかヤった?」
そんな所だと思っていた。本人に聞かせられない類の仮定は、口に出さないに越した事は無い。尤も、彼がそう考えない事をわざわざ咎める必要も無い。その性根は俺には特段関係は無い事であるし、興味も無い事だ。
「どうだろうね。モテないからね。妙な期待するものではないよ」
愛想笑いで会話を打ち切る。結局彼の名前は思い出せなかった。愛想笑いを崩すほど付き合うものではない。そもそも元より名前など知らなかった。
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約束していたのは公園、その真ん中の池にあるベンチだった。大学からも家からも遠いそこは、うさぎの通う私大の隣にある。池には北から渡って来た鴨が群れをなし、ベンチには誰も座っていなかった。ベンチで待つ事にして、池を眺めた。少し寒い。日は傾き、近くの道を家路に急ぐ人影が見えた。松原うさぎに出会ったのはもう少し寒い頃だった。1ヶ月も経っていないから、何と言われて出会ったかも覚えている。
「すみません、そのまま動かないでください」
あの日うさぎはそう言って俺を呼び止めると、そのままスケッチブックを広げたのだった。曰く、作品を歩きながら見ている姿と目つきを、人物画の課題のために使いたい、とか。偶然入った美大の作品展で、何か期待していた訳では無かったが、自分が作品にされる事は期待も予期もしていなかった事は言うまでもない。
「お礼なんて良い。この程度どうという事はないよ」
「ありがとうございます。でも、お礼はさせてください。でないと、私の方が収まりませんから」
ラフスケッチを済ませると、彼女は細かいところを描きたいから、と言って近くの喫茶店へ俺を連れて行った。元より外が寒すぎて作品展に入ったのだから願ってもない話だった。ただ、求められるままにポーズを取らされながら、彼女がお礼を申し出た時は難儀した。そんな事を期待して応じた訳ではない。それに今に加えてお礼まで受けていては、時間がどれだけかかるか分かったものではない。お礼を申し出られた時点で、最初に声をかけられてから数時間が過ぎていた。喫茶店の机にはホットサンドの皿が、平らげられた状態で重ねられている。
「では、一つ」
「はい、良いですよ!何ですか?」
「描いた絵のコピーを1枚貰えるかな?モデルになんてなったのは初めてだから、その記念に」
嘘は無かった。俺をモデルにした絵は、一体どんな物なのか。絵の中で俺は、一体どう振舞っているのか。確認しておくだけしておきたい。それに、彼女は一応芸術家である。作品を評価すれば、落としどころとしては悪くないはずだ。交渉はこうして成立し、彼女はコピーで良いと言ったにもかかわらず、スケッチブックから1枚破り取り、俺に渡した。描いていたのは1枚だけではなかったらしい。俺は座って、足を組んでいた。顔や座り方は確かに自分だが、自分ではないようだった。
「じゃあ、次はいつにしましょうか!」
「次?」
「まだ足りません!もっと作品の参考にさせてください」
交渉内容に誤認があったらしい。
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こうしてうさぎは付き合ってもいないのに家に来て、時折殺風景な部屋の片隅に泊まってゆく。彼女の言う『作品の参考』と言うのが何の事だかは分からないが、『ヤれる』と勘違いする事は、不快な話だが承知している。尤も、だからと言ってそれが俺にとって喫緊の問題である訳ではない。ここにいることも、そうしなければ彼女が勝手に家にいるだけだからに過ぎない。一度メールを見落とした時は、玄関前で待機していた。それに比べればこの程度の足労は何てことはない。
「何がそんなに楽しいかね?」
口の中で尋ねる。絵の中と違って不機嫌な顔をしているはずだ。求められるままモデルとなり、部屋を見せ、本棚を見せた。一つひとつに彼女は全く新しい物か何かでも見たように、大きく目を見開いて輝かせる。彼女の部屋は一体どんな部屋なのだろうか。風に乗って漂う微かなペインティングオイルの香りに、彼女が着ていたフリルが縁取るAラインを連想した。絵は飾ってあるだろうか?飾っていない訳がない。クローゼットは?彼女の宝物庫だろう。いずれにも、彼女の愛するいずれについても、特段興味はない。
彼女が何を思って俺に付きまとっているか、あれこれ想像するつもりはない。たとえ理解できたとしても、それは俺には関わりのない事であり、その理由の理非を定めることはできない。彼女の恰好と同じだ。フリルを奢った可愛らしいドレスであっても、ブルージーンズに無地のTシャツだろうと、人民服だろうと、毎日同じでもそうでなくても。そのうえで、敢えて予想するならば、だからだろう。詮索しないから、踏み込まないから、付きまとって作品のネタにできる。
もうそろそろいいだろう。回想も思索も。背もたれを掴んで振り返り、ケヤキの根元に座り込む影に声をかけた。すでに日は落ちかけている。
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「大鰐さんは弟とか妹とか、いるんですか?」
夕食を済ませ食器を洗っている時、うさぎは俺に尋ねた。この時間はいつもそうなっている。質問はまちまちだ。普段の生活のことや趣味はあるか、嫌いな事はなにかなど。食事は2人とも黙って食べることが多いので、食後に彼女はお茶を飲むかスケッチブックに何か描きながら尋ねる。普段から使用後の食器はためないようにしている。放っておけるほど食器は無いし、次使うときに探したり洗ったりする手間がないから、当然というべきだが楽だ。この事は彼女に問われて初めて考えた事だ。習慣にこだわるつもりはないが、同じ枠組みを繰り返すことで不確定な要素が減るならば、こだわるだけの価値はある。同じ様に、いつどこでも質問が飛んでくるという環境よりは、いつも同じタイミングである方が好ましい。
「いないよ。いそうか?」
そう問い返したのは珍しい。下の兄弟がいそうな人はどんな人だろうか。身内が垣間見えそうな質問である。兄弟姉妹はいない。両親の中は悪くないが、特筆するほど仲が良いとも思わない。俺がいない間の2人のことは分からないが。ただ言えるのは、極端に仲を悪く振舞う事が家族を維持する仕組みではない、という事である。人には社会において果たす役割がある。1人の時に果たす自分がいて、恋人の前で果たす仮面があって、家族の中で果たす機能がある。
「私のお兄ちゃんに似てるんです」
「俺が?」
「そういう所が。普段あまり話さないけど、優しくて」
いつも、お話してました。そう語るうさぎの声は、どこか寂しそうだった。普通なら、ここで彼女の兄について尋ねるものなのだろうが、俺は何も聞かなかった。代わりに、流しに顔を突っ込むように背中を丸めながら皿を洗った。珍しく関心はあったが、それを聞いたらこの関係は終わると思い、水を流した。
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大鰐さんに大学の作品展で運命的に出会ってから、早や3週間と4日。私はアパートで皿を洗う彼を見つめている。彼の背中に触れた事は無いが、こうしてカーペットに座って眺めると、ずっと前からくっついていた様な気がして寂しい。
『その大鰐さんって人、本当に良い人なの?』
友人は問う。良い人に決まってる。こんなにも親切で、私の我儘にも付き合ってくれる。何も対価を求めずに。
『都合よくキープされてたりするんじゃない?もしかしたら、他に好きな人がいるのかも』
そんな訳がない。大鰐さんはそんな人じゃない。キープ…と言うのはよく分からないけど、とにかく彼の事を何も分かっていないから、そんな事が言えるのだ。他に好きな人がいるのに、それを隠して私と会う様な、無責任な人ではない。
『ふぅん…で、うさぎは好きなんだ。その人の事、さ』
…。彼は黙って皿を洗っている。この背中は何?スケッチブックに鉛筆を走らせる。鋭い線で描いてゆく。男の人の、背中。シャツを脱いでもらおうか?そうすればもう少し分かる、かもしれない。その向こうの、心が。
「元カノとか、いるんですか?」
「沢山はいないよ」
何だい、今日はそういう事を聞く日かい?後ろ向きの肩が、可笑しそうに揺れた。
「年上が多いですか?それとも年下?」
くだらない事ばかり訊いている。色恋に興味津々な女の子に思われてしまうかもしれない。それでも、今日は他に質問が思いつかない。さっき友人と話したせいだ。
「どうかな?多分年上が多いと思う」
いつの間にか付き合う事になって、いつの間にかいなくなってしまうんだよね。冗談めかして彼は言う。こんな言い方。愉快に思っている訳がない。彼はそうやって、何でも済ませてしまう。儀礼的なしぐさと、本音らしき嘘。いなくなってしまう…。もし、大鰐さんが急にいなくなったら。そう考えるだけで、瞼が熱くなる。これが執着。そう人は言う。
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初めて大鰐さんを描いたのは、大学の作品展だった。飾られているのは嘘。努力への侮蔑を、評定の無理解を、賞賛で隠した表情。
『描かせてもらっていいですか?』
頼んだのは何故だったのだろう。歩く姿が綺麗だったから?無関心に歩く姿が正直に見えたから?それとも、後ろ姿がお兄ちゃんに似ていたから?何にせよ無意識と言う言葉は嫌いだ。今は運命と言う言葉しか嵌まらない。
それでも、描きたいと思った気持ちを間違いと思った事は無い。そして良いスケッチができるのならば、尚更だ。初めて残しておきたいと思えたのは、その向こうにいる人がそうだから。スケッチブックをめくれば、最初の頁から10頁。深いカッターの十字。
それからは、色々な事をした。こっそり後をつけて、アパートの場所を探したり。普通の服を着て、彼の大学へ行ってみたり。年下だったんだ。分かった事が増える度、ノートに書き留めていった。恋愛に詳しそうな同じ大学の人に、話しかけてもみた。彼女は少し怖そうに見える。でも親切だ。テクニックを教えてくれた。彼に出会ってから、自分の中で何かが開いてゆく。
『押し倒しちゃえば良いのよ』
実行できるかは別の話だけれども。そもそもそれは技術ではない様に思う。
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しかし、運命なのだ。恋でも依存でもなく。ワンピースをハンガーにかけ、ボレロを重ねて思う。ニーソックスを脱ぐと、フローリングの床が冷たい。お気に入りの服を脱ぐと、自分の一部がいなくなったかの様だ。
『これも運命だよ。大丈夫』
お兄ちゃんは口癖の様にそう言った。額面通りに受け取れる程、もう子どもでは無い。それでも『運命』は私達を導いてゆく。お兄ちゃんを遠くへ。私をここへ―。
『運命?』
運命を信じるかと問うた時、大鰐さんは怪訝に聞き返した。
『私は大鰐さんに出会うのは、運命だったと思うんです』
『俺はあまり運命とは言わない…が、それを信じるべきでは無いとは思わないよ』
はいともいいえとも取れる回答。これはある意味予想通りだった。
『一座の人の交りも、機を見る心、皆兵法也。下手に運命と言えば、縛られるからね。苦手なんだ』
冗談めかして彼は言った。自分の行き先を言わなければ、妨げられる事もない。皆兵法也。彼なりの合理性を見た気がした。しかしそれは、彼に行き先が無い訳では無い、と言う事かもしれない。
ペチコート、パニエ、キャミソール。床に落ちてゆく。何処かへまっすぐ向かって行く。温厚なマスクも、たまに見せてくれる虚無主義的な眼差しも、すり抜ける方便。別れの準備はできているのだろう。そして、いつかその日―。思索を止める。フローリングに落ちたパニエは花の様に白く開いた。
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シャワーを浴びて、大鰐さんのいる部屋に戻ると、彼はパソコンに向かって何か書き物をしていた。脇には何冊かの本と、印刷された論文を綴じたファイル。私には関係の無い物たち。何をしたいのか、何を目指しているのか、私には理解できない。
「大鰐さん。シャワー出ましたよ」
「ああ…そう」
スケッチブックを抱えてベッドに背中を預ける。彼をスケッチする時の定位置。でも、今はそうする気にならない。本の山に埋もれて、画面を覗き込む。描くに相応しい姿だ。彼の宝物は本。そして小さなオイルランタン。時折彼はホヤを磨き、パラフィン油を入れて火を灯す。おかしな話だ。別に眺める訳でもないのに、大切にしている。私はそのホヤを叩き割りたくなる衝動を覚える。私は彼の宝物では無い。
『推して駄目なら引いてみろ、よ。ちょっとだけ我慢してみたら?』
友達は言う。もっともな話だ。だけど、できない。私は彼の宝物ではない。そのままいなくなるだけ。せめて彼が追い出してくれるのなら…。たぶん、彼の無関心に甘えてる。きっと、できない。
しかし、運命なのだ。宝物になれなくても。恋にならなくても。スケッチブックを置いて、膝立ちになる。大鰐さんは横目で一瞥をくれると、本に目を落とした。隙を伺う。誰の?鳴りやまない心臓の。現実に逆らう―運命と。
ぽすっ…
「隙あり、です!」
彼が苦笑いする。凪から引き出されて、膝の上を見詰めている。スケッチだけでは済まない。まだまだ次はある。何故なら、運命だから―。