あなたが異世界の噴水前に来た理由
ふぁ~、と間抜けな声が出た。
バイトからの帰り道、少し暗くなった住宅街をあくびをしながら歩く。
近くを歩いている人もいない。多少間抜けな姿も、見る人がいなければいいだろう。
今日も疲れた、明日は講義もバイトも、何もない。風呂に入って、眠たくなるまでゲームするのも悪くない。起きたら、お気に入りのとりだめていたアニメを見よう。帰ってからの癒しの時間を思いつつ、明るい茶髪の頭をぼりぼりとかく。
ズボンのポケットに入れていた携帯を確認する。18時を少し過ぎた頃だった。
彼は、だるそうに自分の家へと帰っていった。
ゲームが好き。漫画が好き。アニメが好き。ワクワクと胸躍る。様々な架空の世界に没頭することは退屈を紛らわしてくれる。
現実は、大学とバイトの往復で、彼はそれを不満にも楽しみにも思わない。
ゲームをしながら、ぼうっとそんなことを考える。眠いなぁ、ベッドに行くかと、頭によぎるが面倒だった。
椅子の背もたれに寄りかかりながら少しだけと、目を閉じる。目を閉じる前、パソコンの画面が少し変わった気がしたが、
もう、眠くてたまらなかった。
*
ざわざわとした雑音、眩しい光に、目が覚めた。
目を開けると、外にいた。
それも、見たことがない、空想上の生き物のはずのモノが闊歩する、そんな景色が広がる世界に。なにも考えられないまま、辺りを見回す。
石畳が敷かれた広場、木と花が装飾的に配置され、噴水の近くでは額にトナカイの角のようなモノが生えた女性と数人の子どもがいた。
目の前を通り過ぎていく、手押し車を押す老婆の後ろ姿には長い爬虫類のような尻尾があった。ゆらりゆらりと揺れるそれはとてもリアルだった。
猫のような耳をはやしたおじいさん、二足歩行のうさぎ、太陽が真上に差し掛かる少し前の穏やかであたたかな光景がそこにあった。
さきほどまで、自分の部屋でパソコンの前にいたはずだ。それでうとうと、と眠くなって、目を覚ましたら外の、それもゲームのような世界の、ベンチに座っている。
ドクンドクン、と自分の心臓の音がいやに大きく聞こえる。
あたたかな日差しと木や花の青い匂い、がこんなにも感じられる。
夢とはこんなにもリアルなものだったか。
まるで現実のようだ。思わず叫びだしそうになる口を慌てて、抑えた。
「お兄さん」
高くも低くもないが自然と耳に通る声が聞こえた。
自分のことではないかもしれないと思いつつも、思わず声の方へ振り返る。
黒いスーツに、眼鏡の女性がまっすぐにこちらを見ていた。
「大丈夫ですか」
表情を変えずに質問をしてくる。
何が、大丈夫なのか。
何の心配をしてくれているのか。
もっと別のことを指しているのか。
女性は周囲の光景から、ひどく浮いている。この黒目黒髪のどこにでもいそうな、このヒトが。
まるでちぐはぐな写真の合成をしたようだ。
ざわざわとした、周囲の声がどこか遠くに感じる。
先ほど見ていた子どもたちの大きな笑い声も、今はまるで壁を隔てたように感じられる。
様々な疑問が浮かんでは、声に出す前に消えていく。
返事をしようと、口を開くも言葉にならない。何を言ったらいいのだろう。
彼が返事をしないことに、聞こえていないのかと思ったのだろう。
「大丈夫ですか」
女性が彼に近づきながらもう一度問いかけた。
「何が」
どう答えればいいのか迷った末、結局口をついて出てきたのはあまりに短い言葉。女性がゆっくりと首をかしげながら答えた。肩でそろえられた髪がさらさらと動く。
「様子が変というか、お困りの様子に見えまして。あなたは、日本の方ですよね?」
彼は、日本の方、という言い方に違和感をいだきつつ、思考が全く働かない頭ではい、と答える。
「あなたは?」
あなたは、だれですか。ここはどこだ、自分は何でここにいるのか。
これは夢なのか。
聞きたいことがたくさんあるのに、うまく言葉にならない。
女性は的を射ない彼の返事を気にする風でもなく淡々と話しを続ける。
「私はサトウと申します。ここは、日本ではありません。お気づきかもしれませんが、日本があった世界ではなく、異世界になります。」
慣れた様子でサトウが説明する。
その言葉に、思いうかんだのは、やっぱりという思いと、この人危ない人なんじゃないのか、という不安。
自分より少し年上に見えるスーツ姿の女性が、返事をしない彼を心配そうに、眉を寄せてのぞき込んでくる。
その表情に警戒しているのが、申し訳なくなってくるが、それも計算のうちかもしれないではないか。
「異世界です、なんて言葉、今まで生きてきて初めて聞きましたよ」
「そうですか。私はもう慣れてしまいました」
顔を見合わせて、互いを見つめること数秒。
夢なら夢でいつか目が覚める。
手の込んだいたずらなら恥ずかしいけれど、いつかばらしてくれるはずだ。
もしこれが現実なら、この女性に頼るしかない。何もわからず、気が付いたらここに、部屋着姿でいたのだから。
パニックになりかけていた思考がサトウとの会話で少しずつ収まっていく。
考えても何も解決しない状況に、開き直り、この状況を少しは楽しもうと思う。
ちょうどゲームに飽きてきたところだった。
反応を返さない彼に、
「あなたのお名前をお聞きしても?」女性、サトウが言った。
「すみません。ちょっとぼうっとしてて、アオキっていいます。ここは異世界?なんですよね。あなたも日本から、ですか?」
開き直ったアオキは、先ほどよりは、幾分かましな返答ができた。
「私も日本からです。田舎にある、小さな会社で営業をしていました」
サトウが少し驚いた様子で答える。アオキさんはとても落ち着かれてますね、と感心したように頷いている。
「いえいえ、とてもびっくりしましたよ。みっともなく取り乱す前に、サトウさんが声をかけてくれたので。それに夢ならいつか目が覚めるかな、と」
アオキの言葉を聞いたサトウが「ゆめ」と小さくつぶやいた。それから、にこりと笑う。
「なるほど。私は夢の住人というわけですね」
ふふふと、笑う姿が少し幼く見える。アオキもつられて、へらっと笑って答える。
「僕の願望ですけどね」
「それでは、夢の中の私から一つ。夢でも現実でもこちらは楽しいところですよ」
サトウが楽しそうに目を細めて言う。
ほほ笑むサトウにアオキも面白い冗談だと笑う。
笑うサトウに若干のずれを感じたが、違和感は具体的な言葉で言い表せず、深く考える前にほろほろと消えていく。
ただ、子どものような、楽しそうな笑顔だと思った。
「まるで、小説やアニメみたいな話ですね」
アオキが言うと、その通りだとサトウが答える。
「私は1年ほど前にこちらの世界に来ました。私は最初、アオキさんと違って、ひどく取り乱してしまいましたよ。今は、少し慣れてきましたが」と、照れたように言う。
ここは、面白いですよ、魔法だって存在するし、前の世界では見たことがないモノがいろいろある、とニコニコと教えてくれる様子に、最初のサトウの固い印象が、薄らいでいく。
「よければ、いろいろと教えてくれませんか」
もちろんですよ、とサトウが笑顔で答えてくれる。
「ありがとうございます」
アオキの隣にそっと座ったサトウがまずは、と話し始めた。
サトウによると、この世界にサトウが来たのは1年ほど前。会社へ出勤するために電車に乗ろうとした瞬間、瞬きをしたら、この広場の噴水の前にいたそうだ。そこから、いろいろとあってこの世界の警察に保護され、今はこの世界の常識を学んでいる最中。
まだ働かなくていいので前より少し楽ですね、と冗談めかして笑う。
今日は、たまたま広場に来たらこの辺りでは見ない、親近感のある服装のアオキがきょろきょろしていたので、思わず声をかけたそうだ。
「ちなみに、元の世界に戻る方法は?」アオキがこらえきれず、サトウの話に割り込む。
「今のところ、わかりません。この世界の警察や、えらい先生方に聞いてみたのですが、世界を渡る魔法は、まだ無いと言っていました。でも、異世界があるのは広く知られているようなので、そのうちできるかもしれませんね」
宇宙旅行みたいなものでしょうか、とサトウが何でもないように言う。
あまりに、軽い調子で言われ、アオキはどう反応したらよいのかわからず、黙ってしまう。
少しの沈黙の後、ぽつりと尋ねた。
「帰りたくないのですか、元のところに」
「帰りたいのですか、あなたは」
質問に質問で返してきた、彼女の顔を振り返る。先ほどと何も変わらない笑顔だ。
アオキもそれには答えず、ほかの言葉を口にする。
「帰ることができないのと、帰らないのは、違うでしょう」
あぁ、確かに、と呟くサトウは、アオキではなく噴水の近くにいる親子の方を見ている。
「私は、どちらでも構わないのですよ。あぁ、でも、アオキさんが帰りたいのであれば先生方を紹介しますよ」
どうします?とこちらを向いて聞いてくる。サトウにお願いすればおそらく、そのえらい先生を紹介してもらえるのだろう。実際に、日本に行くことができるのかどうかはわからないが。
また、サトウの質問には答えずに疑問を口にする。
「最後に一つ質問していいですか」
「どうぞ」
アオキの態度に気を悪くした風でもなくサトウが答える。彼女にとってその答えも、どちらでも構わないのかもしれない。
「あなたは、なんでココに来たのですか」
周囲を見れば、太陽が真上にきて、さんさんと光がそそぎ、緑が青く眩しい。噴水の水がキラキラと輝いているようだ。人々は、穏やかで、まるで日本を錯覚する。
空を飛んでいるのは、竜かもしれない。
サトウは立ち上がりながら答えた。ベンチに座るアオキからは、ちょうど太陽と重なって、陰になった表情がよく見えなかった。
「あなたと一緒ですよ、たぶん」
なぁんてね、とどんな顔で言ったのか。
機嫌のよさそうな声だ。
あなたは?そう質問された。
アオキはよく考えずに、ぽろっと答えてしまった。
…数年前に書いたものをちょこっと修正。