私の、執事は、名前が覚えられない。
私には幼馴染の執事(まだ見習い)がいる。
幼い頃から英才的に徹底した執事教育を受けた彼は、どこに出しても恥じることのない立派な執事である。
そんな彼が未だに、見習いという肩書が取れないのには、彼の唯一の弱点というべき、誰も知らない欠点があったからだ。
それは、
人の名前を覚えられないこと。
彼はなぜか、致命的に人の名前が覚えられない。
雇い主である私やお父様、侯爵家の屋敷の人間の名前は十数年の間になんとか覚えられたらしいのだが、それ以外、他の貴族の中でもとりわけ、自分にとってあまり必要に思えない人物になると極端に覚えられなくなるのだ。
何度聞いても覚えられないし、何時間経っても思い出せないし、思い出せたはずの名前は違うと言われると愚痴っていた。
そんな極端で、端的な、物忘れ(?)のせいで、優秀なのにいまだに見習い扱いなのである。
そんな彼に私は誰にも言えない想いを寄せていた。
私は侯爵家の娘で、彼は一介の使用人。
それに私には婚約者がいた。
8歳の時に、王宮で開かれたお茶会で指名され、それ以来、私は王太子殿下の婚約者となっていた。
私に拒否権はない。
この婚約に否ということは赦されない。
だから私は、殿下以外の人に思いを寄せながら殿下の婚約者になった。
そんな私に彼がおめでとうと言ったのを今も忘れていない。
あの日の悲しみを、心臓を引き裂かれるような痛みを、私は未だに忘れられないままでいた。
10歳の時、父様は彼を私の傍付き執事にした。
私は反対したかった。
彼の傍で、彼以外の人へと嫁ぐ準備をするなど、したくなかった。
私より先に色々なことを学んでいた彼は、小さな先生のように私がわからないことを丁寧に教えてくれた。
家庭教師の先生よりも丁寧に、楽しく、わかりやすく教えてくれた。
私は運動は好きじゃなかったけど、彼と踊るダンスは好きだった。
先生に指導されながら、身長がちょうどいい彼と踊る。
手を握り、彼の手が私を抱くように背に回る。
その瞬間が好きで、ずっとこの時間が続けばいいのにと思った。
ダンスの時間は泣きたいほど嬉しくて、痛いほど切ない時間だった。
12歳になったころ、私と彼は魔力があることがわかった。
私は水の魔法。彼は風の魔法。
嬉しかった。小さな違いはあるけど、彼との繫がりを感じた。
私は魔法学校に通うことが決まった。だから彼も連れていくことにした。
彼には才能がある。
彼は使用人などに収まる器ではない。もっと広い世界へと飛び立てるぐらいの人物だ。
彼の才能を見せつけられるたびに、彼の凄さに惚れ直し、手の届かなくなるような寂しさを覚える。
彼は私の執事だ。
他の誰でもない、私だけの執事だ。
誰にもあげない。誰にも渡したくない。
彼が私の執事でいる限り、彼は私の物。
執着にも似た、酷く醜い感情を彼に知られたくない。こんな感情を彼に向けているなんて知られたくなかった。
私は自分の執事に懸想しながら、順調に婚約者との関係を続けていた。
ああ。誰か殿下の事を好きになって、私から殿下を奪ってはくれないだろうか。
巷で人気のロマンス小説のように。
メイドが差し入れしてくれるロマンス小説。
略奪愛に身分差の恋。
とりわけ、従者が自分の仕える姫に懸想する物語がお気に入り。
メイドもそれをわかっているのか、私が気に入りそうなものを毎回持ってくる。
私はその物語の主人公に私と彼を重ねて、行き場のないこの想いを昇華させる。
ロマンス小説はいい、どんな苦難があっても最後はハッピーエンドで終わるのだから。
現実の私とは大違い。
夢と現実の差を思い知らされて、意気消沈するのはいつものこと。
でも、そんなある日。私の灰色の人生に一条の光が差し込んだのだ。
市井生れのある少女が、男爵家の血を引いているらしいとその家の養女になり、この学校に編入してきたのだ。
彼女の名前はアルメリア。
栗毛のふわふわとした髪を二つに結った可愛らしい少女だった。
光の魔法というとても珍しい魔法が使えるらしい。
天真爛漫で前向きな彼女はあっという間に学校の有名人になり、殿下と仲良くなった。
「人形令嬢」とか「氷姫」などと揶揄される私とは正反対によく笑う少女に、殿下は惚れた。
ああ。この展開はまるでロマンス小説のようではないか。
私は私の気持ちを知っているメイドと共謀し、殿下に婚約を破棄させることにした。
有能すぎる私の執事がいたおかげで計画の半分ほどは綺麗に消し去られたのは忘れたい。
彼はなんであんなに有能なんだ。
どれだけ惚れ直させれば気が済むのか。思わず問い詰めたくなった。
……ごほん。それは、置いておいて。
ついにやったわ!
「ルクレティア嬢、貴女と私の婚約をこの場で破棄させてもらう!」
私は歓喜した!
ああ、この瞬間をどれほど待ちわびたことか!
私は私の前で見せつける様に殿下に腕を絡め、勝ち誇ったようにほくそ笑む彼女に感謝をする。
「殿下…そんないきなり、婚約破棄など…」
「煩い!口答えするな!これは私が決めたことだ!貴様は努力をするアルメリアを妬み、数々の嫌がらせをしてきた!」
そんなこと一切したことはないのだけれども、それは黙っておく。
私は殿下の騒がしい声を聞き流しながら、目の端に見えた彼がここに飛び出してこないかだけを心配していた。
彼は私を大事に思っている。
雇主として、侯爵家の令嬢として、誰よりも私を大事に、大切に思ってくれている彼が、この場に飛び出してこないかハラハラした。
婚約破棄を突き付けられた私は、それをしおらしく受け入れ、人が集まったその場から退散する。
私が歩いていく後ろを、彼は静かについて来てくれる。
そのことが嬉しくて、泣きたくなる。
殿下にはそれほど好意は寄せてはいなかったけれども、少なからず情はあった。
そんな人から一方的に詰られるのは、意外と堪える。
私が振り返らずに彼の名前を呼べば、彼は深く頭を下げて庇うことができなかったことを詫びる。
そんなことがしてほしい訳じゃない。
私は8歳の時のおめでとうを取り消してほしかった。
貴方にはおめでとうなんて言ってほしくなかった。
「うちの兄は、自分への好意には鈍感なんです。だから、お嬢様から迫っちゃえばいいんです。迫って、追いかけて、囲い込んで、お嬢様だけを見るようにしちゃえばいいんです。そうすればもう逃げられませんから」
ふと、彼の妹で、私のよき理解者で、ロマンス小説仲間のメイドの言葉を思い出す。
彼女の働きで、父様から婚約破棄がされた場合は私の好きにしていいという言質は取ってある。
父様が新しい婚約者を見つけてくるのではなく、私が自分で選んでいいと。
だから私は、彼に宣言するのです。
全力で、私の持てるもの全てで、貴方に振り向いてもらえるように努力すると。
侯爵家のお嬢様でなく、一人の人として、女として、彼に愛してもらえるように、大事にしてもらえるように、努力すると、宣言するのです。
覚悟はよろしくて?
* * * * *
おまけの蛇足。
「ねえ、あの男爵令嬢の名前覚えてますか?」
私がそう彼に聞くと、彼は小首を傾げて宙を向き、暫く唸る。
「んー…えーっと。あ、マラリア」
「違います」
彼は、人の名前が覚えられない。
「私の名前は憶えていますよね?」
「ルクレティア様の名前は、忘れるはずがありませんから」
彼の、その言葉だけで、私の醜く歪んだ心は消えていく。
誰も知らない、そんな些細なことで、私の心は救われる。
私の、執事は、名前が覚えられない。
なんかウケた。
お嬢様ガンバ。
…etc.ありましたら感想ください。
「いや、俺、攻略対象じゃないんで。」を評価してくださった方々、ブクマしてくださった方々、感想くださった方々、本当にありがとうございます。嬉しい限りです。
この場を借りて。感謝を申し上げます。
見切り発車で書いているので、連載にするのかは考え中ですが、ネタが浮かんだら書くかもしれません。