色づいた光景
その日は、特に何もない、本当に何もない、ただの木曜日の夕刻。
おそらく学校帰りだった。
雑多に並ぶ建物。
嫌気が差す人混み。
車のエンジン音。
排気ガスや煙草や、いろんなものが混じったニオイ。
点滅する信号の光。
犬の声。
緊急車両のサイレン。
路肩で歌うミュージシャン。
アスファルトに描かれた鳥の糞アート。
シャッターの落書き。
その一つ一つを、私は鮮明に覚えている。
なぜなら、
きっとその全てが―――私にとって特別な『あの光景』に紐づいているのだと思うから。
高層ビルの隙間。
変哲もない、ただの道。
私がふと見上げた空には、美しい以外の言葉が見つからないほどの、夕焼けがあった。
見たのは、その一瞬だ。
すぐに人混みの流れに呑まれてしまったから。
それでも、私の瞳に映った光景は、景色は、心に、記憶に紐づいた。
橙の火を灯し、揺らぐその空の色に、私は一生忘れることが出来ない、『色づいた光景』を見たのだ。
―――そう、丁寧に教えてくれたおばあちゃんの昔話。
今は白いベッドの上で、大半をそこから窓の外を眺めている。
あのときの景色を、もう一度見られたらいいのに。
そう願う声は、もうだいぶ掠れている。
わたしは。
わたしには。
おばあちゃんが見たという、とてもきれいな夕焼けを、分かってあげることが出来ない。
わたしの瞳に映る景色は、カラフルに色づいているけど、どこか平淡だから。
だから、景色一つで感動できるおばあちゃんの心に、羨ましいとすら思う。
おばあちゃんが眠ったように息を引き取ったとき、少し残念だった。
神様はいじわるだ。
こんなにも品行方正で、心が豊かだったおばあちゃんに、その思い出の光景を、死に際に見せてあげても良かったと思うから。
でもこれが現実だと、冷めたわたしの心が言う。
でも。
おばあちゃんが亡くなってから、不思議に思うことがある。
ほとんど色の無い部屋。
おばあちゃんの懐かしいニオイと、混じった独特なニオイ。
風に揺れるカーテン。
窓から見える山の景色。
誰かの笑う声。
誰かの泣く声。
囁くような声。
ゆったりとした、おぼあちゃんの声。
引きずるような誰かの足音。
押し車の音。
テレビの音。
すすり泣く母親。
皺くちゃなおばあちゃんの顔。
白くて、無垢で、どこまでも真っ白なその光景が。
どうしてかな。
わたしはその一瞬の光景を、今でも鮮明に思い出せる。
綺麗だと思ったわけじゃない。
悲しい、と思ったわけでもない。
わたしの冷めた心が言う。
それはきっと、わたしだけが持ってる記憶の『白色』。
わたしの、色づいた光景なのだ。