忘れられた王子①
ライザールの宰相が、軽く手を挙げる。
すると、部屋の隅に立っていた文官が近づいて彼に何かを手渡した。
深紅の表紙の一冊の本。
それが何かわかった時、セリノの心に暗い気持ちが込み上げた。
「これは数年前に作られたある恋物語本だ。読んだが王子と聖女の中々美しい恋物語だった。女性には特に好まれるのではないかな。……君はこういうのは好きか?」
宰相の視線がセリノから、その後方へと動く。
振り替えれば、リーシェが無表情を保とうとしているものの好奇心が抑えられないような目をして本を見つめていた。
「良ければ差し上げよう」
差し出された本を一瞬ためらって受けとり、一言礼を述べてリーシェに渡すと、受け取った彼女はそのまま表紙を見やり更に目を輝かせながら動かなくなった。
まさか、彼女がこんなに食いつくとは。
意外な姿に驚きつつ、セリノは注意する。
「リーシェさん」
「……え、あ!…ありがとうございます」
宰相は可笑しそうに笑い声を立てた。
しかし、それはリーシェにではない。
「喜んでもらえて何よりだ。だがセリノ。君は見るだけで反吐が出るといった感じだな」
リーシェが驚いてセリノの方を見た。
セリノは宰相の表情と言葉に軽い苛立ちを覚える。
嫌な予感しかしないからだ。
「…このまま続けても良いか?」
再び、宰相はセリノの後方へ視線を送る。
リーシェ。そしてクライブ
そうだ。
このふたりとは出会ってそれなりに信頼を築き、 テオの事情も高貴な身分の血を引く庶子である、と説明はしてある。
しかし、ここからはどうすべきだろう。
これから宰相は、それこそ反吐が出る話をする。
ぽふ、と頭に大きな手がおかれる。
「気にするな」
答えるように、頭の上からクライブの声が降る。
「と言うより、すでに遅い。そもそもこの人は俺達も巻き込む腹だ。でなければ同席を許すはずがない」
「そうよ。ていうか、テオの正体をさらっと言っちゃってくれてるじゃない。聞かなかったってのはなしって事でしょう?」
頭をもしゃもしゃと撫でた大きな手が離れると、それより小さな手が代わりに置かれ、それももしゃもしゃと撫でる。
二人の表情を見る為に振り返ろうとすると、その小さな手は頭をがっと掴みんで阻止した。
「ダメよ。今はこっち」
宰相と向き合うように頭を固定される。
わかりましたと軽く座り直す。
頭の上の小さな手は、セリノの頭を優しく撫で離れていく。
二人の手の温もりに知らず微笑んでいたセリノの表情を、興味深そうを見ていた宰相は右手をあげる。
「では続けよう。……セリノ。先程からの様子では、君達がテオと呼ぶ少年はテオドール王子で間違いないな。そして先程の本。あれに書かれていない【忘れられた王子】であるというのも間違いでちはないようだ」
文官がまた宰相に何かを手渡す。
今度は書類だ。
「更に気分を悪くするだろうが、これはこちらの調査報告書だ」
そして一方的に語られていく。
テオにまつわる秘密を。
リーシェがもらった恋物語の忌まわしい真実を。
結論から言えば、「死神に祝福された7年間」は人災だった。
何がきっかけなのか、何が理由なのかは今もわからない。
しかし、全ては現王の計略だった。
自分の生死ですら周りを欺く為に使い、次々と兄妹を色んな策を用いて殺害した。
神に遣える身でありながら権力志向の強い教会の幹部を煽って流言を流させ、民を動かし王族に揺さぶりをかけた。
揺さぶられて不安定になった王太子の側に入り込み、目的の為になにも知らない娘を計画に巻き込ませて、目障りな教会を黙らせた。
新王を真摯に支えて国を安定させ、後継者への土台を着実に固めた。
「第5王子の思惑はともかく、見方を変えればこれは改革だな。教会との関係についての王宮の意識を変える為、国政に深く入り込もうとする教会を抑える為、軍事強国となり剣で権力を示す傾向になった国政へ畏怖を抱くようになった民の意識を変えさせる為、【聖女】の存在を復活させた。【聖女】の効果に皆が目を向ける間に、反対勢力や欲に溺れた不忠者共は叩き潰す。そして、どん底からの国の建て直し。……今のグラシアを訪れれば、軍事国に変わりはないが【死神の祝福】前より豊かで穏やかな国情を知ることが出来るだろう。結果的には成功だな」
書類を見ながら、宰相はふんと笑った。
セリノもそう思う。
自分とてこの流れに関わらなければ、物語は多少誇張された事実なんだろうと思っただろうし、裏を知ったところで前より良くなった国情にそのまま幸せを感じていただろう。
だが、後にセリノが恋物語の本を嫌悪するくらいの関わりを持つことになった事が、第5王子が聖女へ婚姻を申し入れたのをきっかけに起きるのである。
当たり前だが、人には心がある。
「殿下。無礼を承知で申し上げます。此度の事、大変光栄なのですが御辞退させて下さいませ。殿下と同じように、私も私に出来る事でこれからも…… 国のお力になりたいのです」
何も知らない田舎娘は、たおやかで清廉な聖女に正にふさわしい女となった。
神々の加護を取り戻した聖女は、今やと教会関係者の絶大な信頼をうけている。
王族との婚姻が決まればもちろん祝福をするが、この時側に控えていた教会の関係者は、聖女の言葉に安堵していた。
まだ「グラシアの聖女」でいて欲しかったからだ。
第5王子もそんな彼らの内心に気づいていたし、心情にも理解した。
そもそも彼にとって「聖女」はあくまで道具であって、婚姻は盤石になった彼の地位に色を添える程度の狙いであったのだから、拒まれたとしても問題はなかった。
ならば共に国を支えようと物語のように、この件を終わらせようとしていた第5王子は、ここで聖女の表情に気づいてしまう。
それは、聖女の恋だった。
表情に違和感を覚えて調べてみれば、想いを寄せる相手は新王であった。
その上、新王も聖女に想いを寄せている様子を見せていたのだった。
子を亡くしていたが、新王の正妃は存命である。
聖女を新たな妃として迎えたとしても、民から絶大な信頼を得た彼女を側室にするなど反発が予想された。
聖女もまた、後継者を残さず一人の女にあっさりと戻るなど、周りが許さないだろう。
第5王子が気づいた時は、まだ二人の立場がそれ以上の進展を阻んでいて、二人も状況を理解しているようで、今は想いを交わしているだけのようであった。
しかし、人の心はわからない。
ままならぬ状況に、思い詰めた二人が一線を越えてしまったのなら。
王の子という、状況をひっくり返す花を咲かせてしまったら。
ー第5王子は激怒した。
セリノは古い記憶が甦ってくるのを感じ、再び不快な気分になっていく。
孤児だったセリノは物心つく頃から、聖女の住まう教会の本堂で下働きをしていた。
流石に聖女のいる建物には連日多くの人が出入りしていて賑やかだったのだが、逆に夜は静まりかえる。
セリノはそんな夜の教会の中を、こっそり歩き回るのが大好きだった。
ほぼ毎日、月明かりが差し込む廊下を歩き回り、夜の静けさを楽しんだ。
ところがある部屋の近くから、泣き声のような悲鳴のような声が聞こえる事に気づく。
幼いセリノには、何故泣き声が聞こえるのかが気になって仕方なかった。
だがその部屋は昼間に近づく事ができない場所にあった為に、夜の散歩は泣き声が聞こえる部屋の様子を見る事に目的が変わっていった。
何度その部屋に近寄っても、ほとんど毎回泣き声は聞こえた。
いったい誰が、どうして泣いているのだろう。
そして、セリノはとうとうその理由に遭遇する。
悲鳴と泣き声が漏れる部屋の扉が開き、中から明らかに身なりの良い男が出てきたのだ。
『ー誰だ』
いつものように隠れて様子を見ていたセリノは、あっさりと気配を見破られてしまう。
ビリビリとした空気に包まれ、逃げてはいけないと何故かわかった。
おずおずと出るしかなかったが、代わりにはっきりとその姿を見ることができた。
茶髪の偉丈夫。
しかし、こちらを見る目は腰を抜かしそうなくらい冷たい。
『子供か』
『あなたは神官さま……?部屋の中の人は大丈夫……?』
恐ろしかった。
しかし、セリノが幼子と知った男が弱冠気を抜いたのに気づいて、知りたかった事を尋ねてみた。
『ほう……』
男は面白そうに目を瞬かせた。
『私は神官ではない。そして中の女は罪を犯し償っている最中だ。気にする必要はない。……それよりも』
セリノの胸元を捕まれ、ぐいっと持ち上げらる。
小さい体は簡単に持ち上げられ、首を絞められる。
『ここの事は忘れろ。私と会った事も忘れろ。2度とここへ来るな。でなければ、子供とて許さん』
『かっはっ………!』
息が苦しい。
男の言葉が聞こえてくるが、それが段々ボンヤリとしてくる。
『リーロイさま。そのくらいでお許し下さいませ』
焦ったような神官長の声。
教会では聖女さまの次に偉い人。
どうして、この男に敬意をはらっているのか。
セリノはそこで意識を失ったのだった。
宰相の声が、記憶から現実に戻してくれる。
「……リーロイ。それが第5王子であり現王の名だ。教会の神官長を抱き込み、聖女へ罰を与えた。毎晩、無理矢理体を開くという恐ろしい罰を。そして君はその後、一人の子供の世話をするようになったのだな?」
そう。
あの出来事から、神官長に釘をさされずともリーロイの存在が恐ろしいものとして焼き付いてしまい、心を閉ざした子供となった。
そして、2年後。
心を閉ざし口も閉ざしてしまって黙々と教会での作業をこなすセリノに、茶髪の赤子の世話の手伝いを任された。
それが、テオ。
聖女と王子の間に出来た望まれぬ子供であった。
長くなってしまったので分けます。