世界の崩壊
世界の終りがやって来た。
ジニアは震えていた。なにが起こったのか理解できなかった。ただ胃の中にある全てのものが逆流してしまいそうなほどの恐怖を必死にこらえようと震えていた。
その日はいつもの日常となにも変わりは無かったはずだった。ジニアが野ウサギを狩りに行こうと弓を持って外に出たとき、森の様子がおかしかった。奇妙な気配を感じたのだ。いままで感じたことの無い生命の気配を。
ジニアは無意識にある方向に目を向けた。
その先には未知の者たちがこちらに近づいて来ていた。ジニアは直観で母と同じだと感じた。なにが同じなのかは分からないが、自分とは異なり母に近い何かがあの者たちにもあると感覚的に悟ったのだ。
近づいてくる者たちは皆森の獣たちとは違いジニアと母と同じように二本の足で立っている。母より頭一つ分程背が高く、胴周りなど身体の一つ一つのパーツが一回りほど大きく感じられた。それだけなら以前母に教えてもらった『くま』なるものかと思ったが。野生の勘なのだろうか、獣とは圧倒的に違う何かを感じた。
刹那の時の長さで思考している間もその者たちがこちらに近づいて行く。このままでは自分か母が見つかってしまう。ジニアにはそれが何故かとても危険に感じた。
妙な焦りを抱え家に戻り母に未知の者たちのことを伝えると、母は青い顔をした。あの者たちに心当たりがあったらしい。
母は何かを探すように部屋中を見回した。そして、ジニアの腕をつかみ農具や狩り道具の入った小さな物置に押し込んだ。
「何かあったら森の外に、黒髪で、詳しくは机の引き出しに、」
母が早口でそう困惑するジニアに言い終えたすぐ後に強く物を叩く音が響いた。母はいつものように、何もなかったように明るく返事をして自分のそばから離れた。
何故、あのとき母はあんなことを言ったのか。当時のジニアには理解が出来なかった。
しばらくして戸の開く音が聴こえた。そして、聞き覚えの無い声と母の震えるような声がジニアに届いた。
食器が割れ、家具の砕ける音が響いた。ジニアは不安になり物置の戸にてをかけ僅かに開いた隙間から部屋を覗いた。
そこには腕を掴まれ家から引っ張り出される母の姿とそれを引っ張る母とは異なる人間。母と自分はこの森にいる生き物たちとは根本的な何かが違う。ジニアはその意味がいまいちわからなかったが昔母から聞いた話によると自分たちは人間と言う生き物で種族が違うからと言っていた。自分と母以外の人間にはあったことがなかったからその時はジニアには実感がわかなかった。しかし、今なら分かるこれが人間だ、と。
母と良く似た身体のつくり。獣にはない知的な目。自分たちと同じ言語を扱う者。これが、人間の男。ジニアは新たなる発見をしてその者たちに見とれた。
未知の発見に見とれていたら母が部屋から見えなくなってしまった。あの人間に家から出されたのだ。自分の失敗に気づき状況を理解した瞬間、見えなくなった母にジニアは懐かしくも忌々しい焦燥感を覚えた。母が消えてしまう。
なぜそのように感じたのかはわからない。ただ、このままなにもしなかったら母は自分の届かない所に行ってしまう、とジニアの勘が警報を鳴らしていた。
助けないと、と衝動に任せて飛び出そうと物置の戸に手をかけたとき、部屋に残っていた人間と目があった。
その瞬間、身体が硬直して恐怖が駆け巡った。
口を押さえて息を殺す。みつかってはダメだ、と頭ではわかっているのに部屋にいる人間と目が離せなかった。
ジニアは当たり前のことに気づいた。母に乱暴する者たちが安全なわけがないじゃないか、と。本能がいち早くそれを察し、体に恐怖という警告を流し自分に伝えたのだと言うことを。
ジニアと人間はしばらくの間お互いに目を合わせていた。しかし、ジニアはだんだんと胃から物が逆流するような恐怖に耐えきれなくなり目を反らした。合わさっていたものが外れた瞬間身体から力が抜けジニアはそのまま闇に包まれた。
次にジニアが目を開けたときには、母もあの人間たちもいなかった。慌てて物置から転がるように飛び出し回りを見渡す。しかし誰も見つけることはできなかった。ジニアは家の戸にてをかけ外に出た。
見上げた空は黒く染まっていた。月の照らす僅かな光が地面に注ぎジニアの周囲を明るくする。あれから随分と時間がたっていたのだ。
ーーおかあさんはもういないのかな……?
最悪な結果が頭をよぎる。ジニアは慌てて首を振りその考えを打ち消した。
何処かに、何処かに母がいるはずだ、と回りを見渡す。
ーー何かあったら森の外に、
不意に掠めた、母の言葉。ジニアは母を探す動きを止め、あのときの母の言葉の意味をゆっくりと考えた。
森の外に世界があるのは知っていた。
しかし、森の外に出る事はジニアにとって禁忌であった。母の許しが出たからといい、そう簡単に破れるものではない。
そして、ジニアは森の外の世界のことを何一つ知らなかった。
ジニアは躊躇した。森の外に出ようと踏み出そうとした足が重くなった。
ーーなにもしなかったらおかあさんはもどってこないよ
頭の中で一人の少女の声が繰り返される。よく知っている声だった。でも誰なのか思い出せない。
ジニアは少女の言葉の意味を考えた。根拠もない、勘のような事を告げる少女。
そのときジニアの脳裏によぎったのは、見知らぬ人間が母の腕を掴み何処かへ連れていったあの光景。それを認識した瞬間、ジニアの中に焦がすような焦燥と燃えるような怒りが生まれた。その感情に流されるようにジニアは強く足を踏み出し森から出た。
あとから気づいた。あの少女は自分の声とよく似ていた、と。