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溺れ──あ、夢か。バカなことをした、と改めて背筋が寒くなった。
あちゃ、今朝は配給食か、呼んでるオフクロの声もちょっと暗い。
玄米と豆と乾しカキの粥、ラクダ肉と芋と海藻とへんな塊としか言いようがない代物の煮物、ぬか漬けしかない。
「わかってるわよね……お説教はなし、食べちゃお」
あの頃をしのぶため、今朝のように配給に頼った食事を時々するのがならわしとなっている。
人類皆、たとえ政府が財政破綻しても餓死しない。最弱者の充分幸福が、文明の持続と一体で今の人類の主要な目標の一つだ。そのための配給制だ。
オヤジやオフクロも、日本始め世界中が財政破綻して大変だったころは配給に頼って生活していたこともあったらしい。今の、ここのように景気がいいところでも一応、配給券は配られている。そのほとんどは何かと交換するか寄付することになっているが。
まったく、どうにも最低のものだ。食料は原則として精白されていない玄米や全粒粉、そば粉や雑穀、芋、タピオカ|(注:キャッサバのデンプン)、大豆、干し貝、オキアミ、ラクダの肉やチーズなど。最悪なのがネイなど遺伝子操作された新しい作物の加工品。要は“生きていければいい”“人はパンだけで生きるものではない。けれども地では皆最小限はパンがいる”。家畜の餌みたいなもんだが、今でもこの配給以上の食事ができない人は何億人もいる──それがなくて飢え死にするよりはましか。
牛肉や豚肉はまずなく卵もごくたま。砂糖、コーヒー、酒なども本当にこれだけで暮らすとしたら──もちろん衣服や住居も配給で与えられるのは、実用的すぎる最低限のものだ。
ここでは魚や貝、海藻の配給はまああるが、それも商品価値が低いものばかりだ。むしろおいしいものもあるけど。
この配給がいきわたっているからこそ、もし仕事を失っても生きていくことはできる。誰もが、だ。少なくとも人類は飢えは克服した──飢餓は、葉波としでかした漂流事件で一応わかっているつもりだ。誰も餓死させない人類の一員であることの誇り、か。
ついでに、情報が電話も含め、ちゃんと義務を果たしていれば全員使い放題なのは実にありがたい。電気、水道なども制限は一応あるが、まあ充分らしい。
この粗末な食事も、よく噛めばそんなにまずいもんじゃないが、やはり普通の食べ物の方が好きだ。
「玄米は五十回は噛まないとちゃんと消化できないわよ」
「わかってるよ、でも学校船が出ちゃう」
「かむのが嫌いなのは人間の本性だから、ちゃんと乗りこなさないとね」
「習ったよそれぐらい!」
人間の本性を知り、それを乗りこなせ──いつもそう教えられる。それが嫌だと思うことがあるが、『ではどうする』と常駐ソクラテスにいわれると、どうしようもない。
常駐ソクラテスは誰もがコンピュータに持っている、ある種の相談相手というか厄介なソフトだ。子供にとっては家庭教師でもあるし、ある意味家族でもある。『なぜ?』『ほんとう?』『ほしいものは?』『うのみにしてないか?』『現実にできることは?』『やりなおせるとしたら?』『別の見方はないか?』『いい点と悪い点は?』『自分に嘘をついていないか?』『本音は?』などとしつこくしつこく聞いてくる。あれと話したがる人は多いけど、大抵はこのソクラテスが相手をしてくれる。それで十分だって話だけど。
学校に着くと、いきなり女子に囲まれた。
「ねぇっ、溺れかけた岡野さんを助けたんだって?」
「どんなふうに? 飛び込んだの!? キャーッ!!」
一瞬戸惑い、それで嬉しく──だが、なぜか突然震えが来た。
あの幽鬼のようにしがみつく手──身長より高い波にもまれ、何度も息が詰まり──
ふ、と倒れかかったところを、葉波に支えられた。
「こまりますねえ、インタビューはマネージャーの私を通してもらわないと」
至近距離で、ちょっと怖い──船長としての笑顔がそこにあった。
「え、えー!」
「ずるい!」
背中に当てられた手が暖かい。ふっと気持ちが落ち着く。
「バカなことをしただけだよ」
まさにそうだ、前に、葉波と漂流する羽目になった時と同じく。
「岡野! って叫んで、嵐の海になんのためらいもなく飛び込んだんでしょ?」
「すごいよね」
「そういえば、一緒に住んでるんだって? もう運命よね!」
「葉波ちゃんはどうするの」
「てめ……表に出ろよ、一発殴らせろ!」
「やるのか?」
にらむと、そいつはあっさり引き下がった。
二十年ほど前、明治時代から生きていた決闘禁止法が改正され、未成年の決闘が、ルールを守れば容認されるようになった。複数の大人が立ち会うこと、男女対等は十二歳まで、武器なしの一対一、ひどい傷を与えないことなどが条件だ。女子同士、男女、年齢差などで複雑なルールが慣習としてできている。
ふん、やっかみやがって。
「バッカみたい」
「あ?」
ふり向くと、当の岡野がむくれていた。なぜか、顔が熱くなる。
「ねえ、それはないでしょ? 由くんが助けてくれなかったら、死んでたんじゃないの?」
「ひどいんじゃない?」
そうだ。もしオレがマニュアル通り、救命具を投げるだけにしていたら──あの嵐の中では、人魚も出せはしなかった。遺体さえ出てこなかったかもしれない。
「騎士にそんな言いかたないよ」
「ふん」
つん、と、彼女はすまして席に戻ってしまった。そういえば、あれから一度もお礼一つ言われてはいない。
お礼が欲しくて助けたわけじゃないけど、少しは感謝してくれないと、あんな危険を冒したのに。キスの一つぐらいくれてもいいんじゃ?
「由」
何か、葉波が叱るような目で見ている。やめろよ。なんだよ。
ぷい、と、彼女も、目を一瞬細めてそらし、手を離して去った。
「あの台風の中で、海に飛び込んだのかよ」
「どんなだった?」
男子もいろいろ聞いてくる。
「ま、なんでもなかったさ」つい、格好をつけてしまった。「おかものに着衣水泳なんてできるはずがないしな、とっさに飛び込んで、抱えて」
つく、と手のロープずれのような痛みを感じた。
「そこにちょうど、葉波が投げた救護具につかまって、引っ張り上げられたんだ」
「海、荒れてたろ?」
「寮は低気圧からはずれてたけど、それでもかなり荒れて外には出られなかったんだぞ」
「稲刈りの後でよかったよなぁ」
「そうだ、前から聞きたかったんだけど、寮に台風が直撃したらどうなるんだ?」
メガフロート暮らしだと、荒れたらどこにも行けなくなる。農場を最低限護ったら、居住区に閉じこもってオンライン教育か、修理にかり出されることになる。
「どうもこうもないよ、船も飛行艇も飛行機も出られないから、ひたすらお前らがいない、がらーんなガッコで勉強して、体育館や寮で遊んで、大掃除をやらされるだけさ」
「海のみんなも似たようなもんだろ?」
「まあな」
「でも、もうすぐ──」
そう、春稲の刈り入れが終わって台風シーズンが来たら、農場も一部を除き緑肥を育てつつ“地下”に水をためこむのに専念し、学校も休みになる。その間は──生存公役がたまっていれば、世界のどこかで植林か何かをすることになる。野外活動も義務教育に含まれているから、それも消化しなければならない。
今年はどうするか、今年ずっとやってきたメガフロートの立ち上げを手伝うか、それともゴビ砂漠にいるオヤジを手伝うか──
「晴と僕らのグループは荒天帆走訓練をやったけど、死ぬかと思ったよ! あの海に服着たまま飛び込むなんて──」
やめてくれ、そんな眼は。オレは単に、ほとんど自殺と言っていいバカをやっただけなんだ──
でも、やはり気持ちがいい。こたえられないよ。
「現在、日本の一次発電は原発が34%、石炭火力発電が19%、天然ガス火力が15%、風力・太陽光・バイオマス・波浪など自然エネルギーが28%、水力が4%。ただし、火力発電は二酸化炭素を環境に出さないよう、いろいろ工夫している。
その方法は立地によって異なり、沿岸にあり大都市に近い発電所では」
ケーコに浮かぶ、何度か野島崎から見る光の柱。
「火力発電は炉の排気と熱い水、石炭の場合灰が出る。その排気は二酸化炭素、硫黄・窒素酸化物、煤塵などが含まれている。その排気と熱い水、空気を混ぜ、東京湾など近くの、極端に汚染された海の底に放出する。二酸化炭素は水に溶ける。そして熱いから」
対流の図。
「海底にたまる栄養塩と共に海面に上がる。日光が不足して、混ぜた空気だけでは酸欠になるから、宇宙から鏡で二十四時間三百六十五日、日光を当ててやる。そうすると年に、東京湾だけで三百万トンの海藻と貝類が収穫でき、二酸化炭素も固定できる。
メガフロートでやっている、外洋海藻栽培と似たようなものだ。
ただし、収穫した二酸化炭素はすぐ大気中に戻ってしまう。本当の処理は深海処理で」
『由、由』
『なんだよ』
葉波からのメール。まあオレも退屈だし。
『あのときは傑作だったよね』
『ああ、カスがのバカが』
「地球温暖化は、外洋施肥や人工干潟・珊瑚礁・海水灌漑など海水バイオマスを増やす対策の成功、実用高速増殖炉など原子力技術の進展、そして地球自体の制御力のおかげか最悪の予想よりはましだ。でも最悪の予想が当たっていたかもしれない、予測できるものではなかった。本来は全員分の救命ボートが必要だったのだが、その視点はなかった。今だってそれほど余裕はない。核融合は技術的にまだ無理なので、一刻も早く宇宙太陽発電を主力にして」
宇宙?!
『由!』
『ああ』
『由……なんで宇宙と聞くとこんななの、海じゃご不満?』
ああ、宇宙……星空の向こう……
『誰でも、あんなふうに助けるの』
一瞬そのメールが浮かんだかと思うと、直後に消された……が、オレは軌道エレベーターと静止軌道太陽電池リング、月面や水星の太陽電池に夢中だった。
昼、聞いてくる連中から一人になりたくてとっておきの場、体育館の屋上にある日陰に行った。
岡野が一人、食事をしていた。なんともまずそうに。
なんだか腹が立った。オフクロが作った弁当がそんなにまずいのか?
「なに?」
彼女の目が、いきなりこっちを見た。何と話しかけていいかわからない。
「あ……」
いつもどおり、きつい言葉があれば別の場所を探せるのに、彼女も黙っている。
そこでうわっと、熱い西南西風が吹いた。
「ちょうどいいな」
「何に?」
「この風、帆をグースウイングに絞れば」
「わからないんだけど」
そうか、おかものだった。
なんとなく同情する──ほとんど異民族のような連中に囲まれて暮らすんだから。
オレは風上に坐ると、弁当を出した。
彼女も何も言わず、食事を再開する。
「昨日とれたばかりのトビウオだ、うまいだろ?」
「そうね」
ふ、と表情がゆるむ。また、熱い風が吹く。
なんだかどぎまぎし、さっさと食べ終えて体育館に走った。
「由、今年はどうするの?」
帰りの船で、葉波がふっと聞いてきた。今オレたちは非直だが、岡野にロープワークの基礎ぐらいは教えてやれ、と言われている。
「うーん、オヤジのところかな」
「そうね。あ、それじゃ輪が締まっちゃうわよ。もやい結びはこう、まず基本的な結び方をしっかり覚えないと」
「航海術のコース、とるつもりないんだけど」
「でも、嵐の時とか、全員が手伝うことがあるからある程度できたほうが恥をかかずにすむし、いざというとき安全よ」
「うう……」
たどたどしく、……ほらやった!
「おい!」
「何よ!」
手首をつかんだオレの手を、あれ? 水をつかんでいたように外された。
「なんなのよ」
「だから、結ぶときに絶対指を輪に入れるな。今こうして」と、紐を引っぱる。「綱に力がかかったら指がつぶれるぞ」
「よけいな……バカ」
ごん、と葉波に殴られた。
「海が嫌いなのか? 酔わないのに」
それがうらやましくてならない。オレはこんなに海が好きなのに。
「由、何書いてるの?」
「ハッキングするなよ」
葉波はコンピュータでもかなりの腕利きだ。数学はオレのほうが得意なんだが、それとこれは違うらしい。
「あ、例の日記? まじめにやってるの?」
「まあな」
今書いているこの文章、学校で勧められた、“汝自身を知れ”日記だ。自分自身を、今暮らしている文明を含め外から分析するような視点で書く。また自分の感情も素直に書く。──そうすることで、役に立つもう一つの自己ができるし、自分の心が邪悪に呪縛されるのも防げる、とのことだ。とりあえず二一世紀初頭の視点から記述してみている。
「何が書いてあるの?」
「そっちのも見せてくれ、そしたら見せる」
「ごめん」
「これが太陽電池?」
「そう」
「なんか大きな板がたくさんのった、三角のジャングルジムみたい」
そう、太陽電池ユニットは、水面下にある中空球形の支浮脚から基本的に正四面体で組まれた、水面上数メートルに伸びる柱に支えられている。
海水面に触れていないから、海水の蒸散はほとんど妨げない。近い将来、他のメガフロートもそのやりかたで造るようになるらしい。
新型の太陽電池は半透明で40%を電気に転換、30%を透過して海面に、30%は反射だから生態系にもさほど影響はない。それが何千枚も、太陽を常に追っている。
表面にはいつも掃除している、ヒトデに似たロボットがいる。
風力発電塔の自動レーザーに海鳥が追い払われている。
「で、メンテナンスって何をするの?」
「ロボットの点検と行き届かないところ、あと脚の掃除だな。脚の掃除は大人がやるから」
「水中なのに何を掃除するの?」
「どうしても底にフジツボとかがつくんだよ」
「きゃあっ!」
岡野の悲鳴に、あきれてものも言えなかった。おかものの女はなぜフジツボを怖がるのか、あんなにおいしいのに。
「本当にここに来るまで、海を見たこともなかったんだな──どこで暮らしてたんだ?」
ぷい、と彼女はオレを無視し、
「どうやって水中で掃除するの?」
と、船から海面を見下ろす。うらやましいぐらい酔ってはいないようだ、この不安定な波で。もうオレは──うっ。いつもながら、ゲロに魚が集まってくるのを見るのは情けない。
それにしても、岡野は本当におかものなのか? この海で酔わないなんて。
「じゃあ、今日はそっちを見学するか」
春おじさんがにこやかに笑った。
「“人魚”使わせてくれるの?」
葉波が目を輝かせた。
「──よし」
オレも勇んで、船酔いもふっとんで帆脚索をゆるめて転桁索の手応えを感じ、
「風よし、左舷開きに上手回しいくよ」
「上手回しよし!」
葉波の舵と息を合わせ、風に向かって大きく船体を躍らせた。
残念ながら、岡野は回る帆桁に頭を殴られる洗礼は受けなかった。葉波のやつ、事前に注意したな……裏切り者。
大きく傾きながら裏帆を打たせ、エンジンを使わず微妙な調整で太陽電池のベースに着くと、もやい綱を投げて船から飛び降りた。岡野が葉波につかまって降りている。
「水面下メンテの見学だってさ、出してやれ」
「ま、さっきの上手回しなら大丈夫だろ。ほら、壊すなよ」
バスケコート程度の海上倉庫に大型車程度の大きさの乗物がいくつかある。
イルカを思わせる優美な流線型に二本の人間のそれに似た腕と象の鼻を思わせる腕、そして下に二つの車輪とキャタピラが一つ、流線型を損なわぬよういくつかの箱状のものや、小型のスクリューがついている。
頑丈な窓とカメラアイもいくつか見える。
「実物ははじめて見た──これが人魚?」
「そう、特殊水中作業機。古典アニメ好きが強引に腕をつけちまった代物さ」
と、点検し、ドームを開けて補助席を引き出した。
「長谷川、前やったことあるだろ? 岡野さんはそっちに乗って」
「え、はな──いやわかった、わかりました」
岡野と乗れば、葉波は春おじさんと乗ることになる。そうしたいなら……岡野に我慢してもらえばいい。
「ちょ、ちょっと!」
当然岡野は文句を言う。
「しょうがないだろ」
「いっつもそう、海の人ってしょうがないだろばっかりで、すぐ大人の言うなりになって! しかたがないは奴隷の始まりよ」
「だって相手は海なんだから。どうしろってんだよ」
と、補助席を示して──あちゃ、わかっちゃいたけど狭いから思ったより密着してしまう──
「鼻の下のびてるよ!」
葉波に言われ、
「そっちこそ!」
言い返すとシートにつき、足をあぶみに入れてケーコと人魚のコンピュータをリンクさせ、操作グローブをつけて指を一本ずつ点検する。
それからシートから出たマスクで鼻と口を覆い、口と舌の操作に合わせて象の鼻が動くことをチェックし、足の操作でコンピュータの点検モードをチェックして……
「岡野、そのホースをしっかりくわえて。しっかりシートベルトをして、ナイフだけは確認しておけ」
「指図しないでよ! ナイフなんて持ってるわけないでしょ、そんな野蛮な物!」
「命にかかわるんだ、ったく──」
オレは自分の、足にとめてある予備をはずし、
「左利きだよな、なら右腕にでもテープでつけて」
「指図しないでよって言ってるでしょ! ナイフなんて危ない物、触りたくないわよ、ましてあなたのなんて」
「岡野!」
くそう、そんなに命を粗末にしたいなら、オレはあのとき何のため、あんな危険を冒したんだ?
「えまちゃん」
春おじさんが、いつもとは違う厳しい目で見ている。
「最低限の準備ができていないなら、海に入るべきじゃない。もし事故が起きて、シートベルトがはずせなくなったらそのままおぼれ死ぬのかい?」
「事故なんてないわよ」
「あるんだ、いいからつけなさい」
と、強引に彼女に押しつけた。
全体が特殊チタン合金製で錆びない。刃渡り7センチほどの短剣形で、一方が普通の刃+湾形糸切刃、もう一方が波刃。柄は金属のままのワンピースで、細長くとがった柄頭はマリンスパイクを兼ね、軽量化を兼ねたシャックルキー穴が抜かれている。文字通り最後の最後で命を預ける一本だ。いらないんならオレだって、一瞬だって手放したくない。
「こちらの点検は終了しました、見落としはないですね」
「大丈夫だ、掌紋確認、起動」
コンピュータにしても何にしても、年中掌紋を使うこともあり、ケーコ操作用手袋は掌部分が開いている。
機体付属の超高画質両目接眼ディスプレイ──かなりごついゴーグル──とヘッドホンを装着し、表示を確認する。古典になっているロボットアニメでは、全天周囲リニアシートとかいう全面がディスプレイになった球状コクピットだったけど、それはどう考えても無駄だ。ディスプレイは目の前だけ、いや技術が許せば岡野のように視神経の中でいい。
もちろん、窓から直接外を見ることもできる。
手動開放よし、酸素供給よし、緊急用サブラングよし。
「緊急用に、このサブラングは引っ張り出せる。それで、ここを操作すればハッチが開くから覚えておいて」
「ついてこい!」
春おじさんの通信が入る。
「周囲だいじょうぶですね!」
周りを見回す──目のディスプレイに入る映像は、事実上壁がないのと変わらない。一度シミュレーターで、ドックで人をはねてしまったことがあるから、気をつけないと。
「よし」
足を軽く踏み込むと、特殊な大容量畜電池|(と、水中ではあまり使えないが燃料電池のハイブリッド)で音もなく前進し、海にそのまま通じる坂に進んでいく。
「海に入る時、切り替えに気をつけろ!」
「はい」
「足の力を抜け、手袋は今どこにつながってる?」
「作業アームの操作です、コンピュータではなく」
普段、ケーコは専用の手袋で操作する。手袋に無数のセンサーが入っていて、指の微妙な動きも捉えている──キーボードと同じ感覚でどこでも使えるし、手袋ならではの操作系もいろいろある。
それがこの“人魚”だと、手袋は“人魚”の腕にそのまま連動しているから、作業中はコンピュータの操作に使えない。それが混乱すると事故につながるのだ。オレもシミュレーターで何度か、かなりひどい事故をやらかしている。
主に本体の移動はフットペダルで行い──今ちょうど水に入って、
「あ、沈んじゃう」
「だいじょうぶだ、ほら同乗者を安心させて」
「はい、だいじょうぶだから、もし水が入ってもそのホースをくわえていればそれが、別のシステムで酸素を送ってくれる」
「うるさい、聞いてないわよ」
坂から海に滑り出し、前に行く数機の“人魚”を追う。
「そこで停まって、沈降」
船、特に帆船とは違う、すごく直接で乱暴なパワーに振り回されないよう、しかも足での操作で間違えないよう、ゆっくり動く。前に初めて操縦した時は、いろいろ混乱して大変だった。
足の操作に合わせてすっと海に潜ると、前にはとてつもない眺めが広がっていた。
多くの、いろとりどりの魚やクラゲ、そして入り組んだ、想像を絶する大きさの玉。
表面はもう、びっしりといろいろな生き物に覆われている。まるで妹の絵だ。
「20─4、由、通信、ソナーは?」
「通信良好、ソナー良好、どうぞ!」
耳に、立体的な音がある。周囲をソナーで確認し、その像を耳に投影しているのだ。
ソナーによる三次元空間認識は、特殊な音楽としても楽しまれているが、実際にそれを使っているとまた違う眺めだ。
はっきりと目の前の球が聞こえるのだ。
「な、なに?」
岡野の声。
「不安ならケーコを切っておけ。ほら、向こうに鯨とイルカがいるよ」
「え、うそ! そっちいってよ!」
「だめだ、待機して見学するんだから」
「あとで自由運転していいから、ちょっと見とけや」
と、通信が入った。
二本の、見かけは無骨な機械だが実の手とまったく変わらず使える腕と、口と舌の操作で想像以上に自由に動く“鼻”が様々な道具を用い、球を覆いつつある貝類を掻きおとし、収穫していく。
ここだけでも相当量の貝類などがとれ、それも肥料などいろいろ使い道があるのだ。
“人魚”の優雅な動きとパワーは、何度見てもすごい。無骨な機体だが、本当に人魚のように自在に動けるのだ。
太陽電池を支える特殊強化コンクリート、特殊鋼、超炭素繊維複合非生分解プラスチック、生チタンなど多層の大きな中空の球にはとてつもない強度と耐蝕性があるが、油断すると、波や潮、生物の想像を絶する力で徐々に破壊されてしまう。
かといって、船のように銅板など生物にとっての毒で覆うのも害が大きすぎるからできない。
ある程度表面の生物を許容し、食い食われる関係を作ってそれでコントロールし、メンテナンスはそれを助ける程度にするわけだ。
やはりオレは、資源の無駄遣いでも板を浮かべたメガフロートのほうがいい。
少し離れた海中に、ひときわ大きな球が並んでいる。太陽電池の上に降った雨水を貯めるタンクだ。直接大型の艀で曳航することも、輸送船に積むこともできる便利な代物だ。
びっしりとついて、よけいな重さを加えている貝をかきとり終わると、声がかかった。
「ちょっとだけ、遊んできていいぞ!」
ぶるっ、と喜びがふくれあがる。
ベースに道具を置くと、葉波の人魚が一気に加速した。オレも追う。
「ハナちゃん」ぴったりくっついている岡野が、あえて葉波に聞く。そこまでオレと話したくないんだ。
「なんでこの“人魚”って、遠隔操作にしないの? 安全だし、同じことじゃない?」
「由、教えてあげて、あ! イルカ、ついてきて」
葉波の、面倒くさそうな声が興奮に変わった。
「OK! 窓からみてごらん、こういう臨場感が遠隔操作にはないんだよ」
岡野に言うと足を微妙に動かし、一気に超伝導推進を加速させた。
耳が、周囲をとらえている。今水面から5メートル。下の奥に泳ぐ十数頭のおおきななにか。
加速し、近づくにつれてその形がわかる。体が温かいものを感じている。
大きく曲がって減速し、姿勢を制御して、耳を澄ます。
さまざまな声が聞こえる──
「きた」
「うごく」
「こっち」
「いこう」
「えさ・なかま・かりうど?」
「この声?」
岡野がとまどっている。生の不思議な音もいっしょにある。
「イルカの声さ、コンピュータが人語に訳してる」
「今は仲間だ、少し遊ぼう」
「今のは葉波の言葉を訳したんだ」
窓に釘付けになって、きいていないようだ。
「いいよ」
「いこう」
「におう」
「後ろからつく」
海での電磁推進はどうしても塩素が出る。極力減らしてはいるけれど。
「由、ついてきて!」
「OK!」
先頭が方向転換をするのに合わせ、一気に潜る。
魚の群れにつっこみ、豪快にほおばるのを見る。
急な方向転換の連続で、上下の感覚がなくなりそうになる──ソナーの情報が複雑に変わるが、空間認識は失わずにすむ。
「手をうまく使うんだ」
と、前の葉波の機から春おじさんの声。
腕と鼻を微妙に使って、くるりくるりと舞うように方向転換している。
こうしていると、まるで自分がイルカになったようだ。空を飛ぶのに匹敵する自由。
ずっとこうしていたかったが、時間が来て浮上する──
「もう終わり?」
と、岡野が女の子らしくかじりついてきた。こうしていればかわいいのに。
「ほら」
すいっと、巨大なマンボウがクラゲを食べているのを横切ってちょっとだけそのひれを触り、加速して腕の力も使って水面からジャンプした。
「うわぁ!」
「ほらガキども、遊びは終わりだ! ちゃんと帰れよ」
「はいっ!」
そういわれると、どっと疲れが来る。もう一度潜って、ディスプレイに浮かぶソナー誘導線をつかまえ、坂に下りるとキャタピラに切り替えて上がり、コクピットを開けると──神経の切り替えがうまくいかず、しばらく立てなかった。
「ほら、ぼーっとしてないで、自分で乗ったのは自分で点検しろ!」
鬼──
5
目ざめると、何かすっごくいい夢を見ていたような気がする。思い出せないのが残念なぐらい。
朝、一人で早起きして運動してきたのか、ひどく疲れた様子の岡野がいた。
今朝は東南アジア風の、ココナッツミルクのきいた辛いスープか。
「あれ? コンポストは?」
かなり残した皿を持った岡野が台所を見回して、聞いてきた。
「はぁ?」
コンポスト──聞いたことはあるような。
「だから、これは──」
と、手の皿の残りに視線を落とす。
「あ、流しの穴に入れてペダルを踏めば、ディスポーザーが処理して流してくれるよ。危険だか」
「ディスポーザー!!」
何か、えらく衝撃的な表情だ。
「ディスポーザーって、生ゴミを切り刻んで砕いてそのまま下水に流してしまう、っていうアメリカ式の野蛮な代物じゃないでしょうね!? 殺人の死体を隠すのにぴったりな!」
むっ。
「コンポストってのは、生ゴミを堆肥にするとかいうお笑いでエネルギーの無駄な代物じゃないだろうな」
お互い呆れたような、奇妙な表情でにらみ合っているのが窓に映っている。
「地域無償幼児教育レベルでいうね……ディスポーザーで砕いた生ゴミをそのまま下水に流したら、川とかが汚れるでしょ」
「二年前の復習になるな、こりゃ……生ゴミといっても調理したものが多いから塩分、化学製品など不純物が多い。そんなの堆肥にしたら家の庭ぐらいならともかく、畑に塩分が入っちまって安定した食糧生産には使えない……ミミズかハエでも育てて飼料にしたほうがましだ。
食糧生産メガフロートはただでさえ海から塩が入りやすく、貴重な雨水やエネルギーを使って淡水化した海水を使っているから塩分は大敵なんだ。そして、こないだ見たあのマングローブメガフロートは生ゴミも廃水も全部海の栄養に返して再生利用できるからだいじょうぶ。
都会は人口が多いから、処理しきれないのか──いや、できるはずだ。あ、それどころか本土には簡易下水さえなくって、川に直接流している場所もあるんだってな──」
「なんですって」
本気で怒る表情。なんだか目が離せなくなる。
「いいか、調べてみろよ、自分で。処理できないはずがない、房総半島沖の黒潮だけで人工干潟メガフロートが十五基、筏式の海藻・貝類養殖や防波柵があれば外洋で浮かんで増える遺伝子改良海藻のコロニーもたくさんあるんだから」
あえて口調を穏やかにすると、彼女もおとなしく目を閉じた──溺れかけた事故で改良版ができ、それはディスプレイまで視神経に直結させてしまったらしい。もう完全に体内にケーコが内蔵されている、ってことだ。体内のだけじゃ小さくて性能が悪いから、普段はチビリュックを背負っているけど。大丈夫なのか?
自分でもケーコで調べてみると、処理できる容量はあるのだが本土ではコンポスト派が多いため、それが定着してしまっているそうだ──これだから本土は。
というか肝心なことを言い損ねた。食べ物を残すな! どれだけ苦労して作ったと思ってるんだ。まあオレも、食べ残せないけど好き嫌いはあるし、ときどき吐くから大きいことは言えないが。
『熱い』
葉波からきたテキストメールは、暑いではなく熱いだった。わかる。
『まあね』
回帰線で海の真ん中の夏は、真上に近い太陽からの猛烈な日光と、わき上がる海水の湯気のダブルパンチだ。時にさわやかな風もあるが、それもあっというまに、甲板を焼く日光と海の照り返しで炙り返される。
だが、この強烈な陽光こそが──
「聞いてるのか?」
と、峰の兄貴が講義を続ける。船が遅れているので、ちょっと船内で授業。
「ごめん」
とケーコのノートと教科書以外を一時停止にした。
「海で一時間ほど泳いでくるか?」
「それだけは勘弁して」
「泳げないの? 何がそんなに恐いの?」
何も知らないんだから、おかものは──
「一度経験してみるか?」
すっぱだかで海に放り込まれ(レッコ)、船が視界の外に出てしまう──うねりしかない大海、雲一つない空! 思い出しただけでちびりそうだ。
もちろんどこかに発信器がついていたり、近くに人魚が待機していたり安全は確保されているのだが、小さい頃のオレが知るはずはない。まあ、最近はかなり多くの子供が、一度は自然の中に安全は確保してしばらく放置され、恐怖と不安を叩き込まれる。もちろんそんなことがあり、安全が確保されていることは、小さい子には絶対に秘密だ。妹のときには本当に心配だった──どんなに安全だと言ってやりたかったか。
安全対策はあっても、あれをまたやる気にはならない。もしタイミングよく鮫が来たら終わりだ。
あれから何度か海に放り込まれたり、悪仲間とボートで数日流されたり、それにあの漂流──
「さて、続ける」
ケーコに、講義データベースからの映像が浮かぶ。
「石油涸渇が迫り、人類は大量のエネルギーを確保する必要に迫られました。現在でも中心は石炭と原子力ですが、代替エネルギーの研究も急速に進みました。
特に無尽蔵の日光のうち、生物があまり利用していない、外洋や砂漠に注がれているものを利用する技術が開発されました。バイオマスの総量を増やすことは、二酸化炭素削減にも有益です。
光合成をする、人間にとって重要な生物は主に日光、水、酸素、二酸化炭素、必須元素つまり肥料、適温を必要とします。砂漠は水が少なく、外洋海面には肥料が少なく、極地は温度が低すぎ、地下や海底は日光や酸素がありません。
さて、代替エネルギーに少し戻ります。アフリカから中東の砂漠地帯では太陽と風力が、主にヨーロッパの余剰労働力と聖杯による自己増殖生産技術で発展しました。初期は海水を利用できる沿海域を中心に、太陽熱発電のほうが多く行われました。太陽は夜間などの限界がありますが、宇宙から鏡で日光を追加しています。
今でもアラビア半島などには海水を引き込む大規模な運河と、その周辺の太陽熱発電所・海水淡水化工場を中心にした工業地帯がいくつもあります。太陽熱発電は高純度シリコンなど環境負荷の高い資源を必要とする太陽電池と違ってガラス、アルミや鉄、建材、水や油と発電機だけでできるという利点があります。
そして外洋では太陽光や風力も利用されていますが、バイオマス生産も研究開発されました。そのためには海に降る雨水や淡水化した海水を利用し、陸上と同様の農業として食料とバイオマスを得る方法、海自体に肥料をやって海藻を養殖する方法、浮力だけ与えて珊瑚礁をつくる方法、沿海砂漠地帯で海水灌漑可能な作物を育てる方法があります。
海藻の養殖にも浮きで固定した筏で天然種を育てるやりかたと、自分で浮くことができる海藻を遺伝子改良で新しく作る方法があります。制御しやすいかわりに地上の資源を消費する前者と、勝手に増えるけれど制御しにくく、深刻な生態系破壊の恐れがある後者のどちらがいいかはかなりの議論がありました。
後者の研究が進まなかった間に、特に汚染がひどい海域を中心に、筏やメガフロートと不足必須元素肥料、宇宙鏡からの日光を用いたバイオマス生産が発達しました。
それはここ二十年さらに規模を拡大され、日中米比の共同研究で建造された黒潮での海藻筏と人工干潟、人工マングローブ、人工珊瑚礁は周辺国の廃水と製鉄残渣、宇宙鏡を利用することで、沿岸とあわせてアメリカ合衆国の農業以上のバイオマス産出量があり、アジア太平洋のエネルギーの23%をまかなっています。メキシコ湾流、西太平洋、北大西洋でも本格的に稼動し始めています。
近年はバイオテクノロジーで先行するアメリカを中心に、遺伝子操作品種の浮かんで増える海藻も急成長しています。この技術は、深層水の利用とあわせ近い将来世界の持続可能なバイオマス生産を三倍に増やすと予想されています。
ネイの耐塩性も海水と淡水を同量混ぜればいいぐらいに向上し、完全海水灌漑までもう一歩です。
課題として、二十一世紀初頭当初において、当時の諸条件を考えつつ、海洋でのバイオマス生産はどうしていれば最もよかったか検討してください」
と、さまざまなデータがダウンロードされる。
「当時の人にとって一番大事なのは経済効率、金だ。当時の人の身になって考えるのと、今のやりかたで合理的に考えるのを並行してやるんだ。前に、鎌倉時代の地頭や豪農などいろいろな立場の仕事をやってみたのを思い出せ」
峰の兄貴が補足する。いろいろなミミズがのたくったような漢字ばかりの手紙を見、花粉などから当時の気候や肥沃度、当時ある技術や作物の種類まで考えて農業方針を立て、東大寺再建に寄付したり鎌倉に訴えたり親戚と小競り合いしたりするのは面白い経験だった。
「資源を使いたくないなら、空気の窒素を固定できて浮く遺伝子操作海藻を使うのが断然いいんじゃないか?」
「いや、それを開発すること自体と、除去のコストを考えろよ。当時の技術で」
「あのころのバカは除去のコストなんか考えないんじゃないか?」
「ちゃんと最善、現実、最悪の三つのシナリオを出せよ」
「浮きだけでいい珊瑚礁もいいだろ」
「今やってるように、薄いメガフロートで海水灌漑できる作物でもよかったんじゃ」
「肉やチーズにできなきゃ意味がないわ、まだお父さんはラクダがダメなのよ」
「当時の遺伝子技術の低さ」
「あのころは科学技術を理解しておらず、信じていない人が圧倒的に多かった!」
「教育史はおまえ得意だろ?」
「確かチェルノブイリ二十周年で」
「遺伝子改良作物に対する反対運動など、頑迷な反科学派が」
「今もいることはいるけどな」
「実際には」
「しっ、“実際には”どうなったかは当時の人は知らないし、その“実際には”が本当に最善だったかはわからないんだ。ケーコが発達するまでタイプライター由来のキーボードが使われていたことは知っているだろう?」
「今のケーコにも、標準で入ってるけどな|古典(QWERTY)キーボード」
今日は船が遅れて体育に間に合わないので、別の形で運動の義務をこなさなければならない。
まあ学校でも居住メガフロートでも、楽しく運動の義務をこなすため、楽しめるよう配慮されている。ちなみに学校がある日は、幼児以来共通で国語や読書、理数、体育が毎日一時間ずつあるので、義務は自動的に満たせる。
学校でも運動で何をやるか自由な日もある。サンドバッグを殴ったり蹴ったり、木刀や杖で柱を殴ったり突いたりするのはすっとする。もちろん海の特権で海で泳いだり、ボートを漕いだりするのもある。
選択単位や部活動で集団でやるスポーツもあるが、グラウンドには限りがあるので制限が多く、自然に待ち時間を懸垂などスペースを使わない単調な運動で潰す羽目になる。
昔は単調だったらしいランニングマシンも、ケーコをつないでおもちゃの銃、剣、弓などを手にすれば、恐竜に追われて走っては撃つなどいいゲームになる。
もちろん、そういうのはゲームセンターがもっとすごい──ゲームセンターは一時ケーコや繭の発達で廃れかけたが、カラオケおよびスポーツジムと融合した体感ゲーム中心になって復活した。
今は個室でプレイするのが主流で、入り口で床や天井、壁に無数のワイヤーでつながった特殊な服に着替える。体が軽くなる感じから、非常に重くなる感じまで楽しめるし、動きを精密に判断してくれるし、いくらダッシュしても跳んでもその場に戻ることになるので、狭いスペースでいくらでも暴れられる。
それで好きな武器を選んで存分に楽しむことができる。さらに好きなだけ声を出せるので、歌い踊ることを魔法にするゲームも多い。
また、ヴァーチャル・ハンティングは狩猟採集生活を体験させる授業にも使われている。
数あるゲームでも、十年以上バージョンアップしながら世界中で愛されている「スターワイルダネス・ガンウエスト3」は二年前からオリンピックの正式種目にさえなっているほどだ。
もちろんオリンピックなどで使われる最高難度はとてもじゃないけどついていけない。銃剣つきライフルに加え3Gの重力と同じように引っ張られ、ハーフマラソンの距離をジャンプ、ダッシュ、坂の上り下り、梯子の上り下りの連発で走りぬき、時々水中並みの空気抵抗などもあり、さらに銃剣と射撃も高度なものを求められ、おまけにオペラ歌手の試験並みに歌呪文をほとんど歌いっぱなし、とどめに高度な数学パズルの要素さえあるのだ。
レベル5のクリアも今のオレの、大きな目標の一つだ。最近は新作の、流水プールで泳ぎながら戦う「ポセイドンの子供たち」や風洞室で飛ぶ感じを体感できる「イカルスの冒険」にはまっている。
まあ今は学校だから、とにかく泳ぐ。
学校が建つ大型メガフロートから少し艀で離れると、サメよけネットに囲まれた遊泳海域があるので、みんな次々に飛び込む。
「いいなあ、毎日泳ぎ放題なんだ」
と、岡野がつぶやいた。
「陸では野球とかが好きなだけできるんだろ?」
「んん、あんまり」
少し寂しそうな横顔──でも、つい薄手の水着から盛り上がる胸と、白い腕に目が行ってしまう。
「どこみてんのよ」
ビート板で、葉波に頭を叩かれた。こっちはまともに目を向けられないほどグラマーだ──ついこの間までおんなじガキだったのに。
「ほら!」
と、いきなり海に蹴りこまれた。そう何度もやられるか、と足首をつかんでこっちも海に引っ張りこむ。
みんなが思い思いに泳ぎだす。海生まれで泳げない者はほとんどいないが、苦手な子は上級者が何人かでサポートする。
教えるにまさる復習はない──誰でも少し下の子を教える義務がある。それが、一時世界から遅れた日本の基礎教育のレベルを高める切り札となったそうだ。
岡野を探したが、彼女はとても泳ぎがうまい──というか全力で泳ぎっぱなしじゃないか。大丈夫か?
「残念?」
また隣の葉波につねられた。
「由、また競争しよう?」
「ああ!」
と、二人クロールに切り替え、ペースを上げる。前はまるでかなわなかったのだが、最近は追いつけるようになってきた。
それがなんだか──あまり嬉しくない。なぜなんだろう。
第一、オレに抜かれると葉波がすごく悔しがって、しばらく口もきいてくれないし──もちろんわざと負けたらもっと怒るし。
なのになぜ競争したがるんだろう。
放課後、しばらくのんびりしていた──何人かはケーコでテレビや映画を見ている。皆が帰り、「おい、船出るぞ」
と、岡野に声をかけると──様子がおかしい。
肩に手をかけると、異常に硬い。服が冷や汗でじっとりぬれ、顔を拭くことさえも忘れている。
「きゃああああっ!」
いきなり、彼女が悲鳴をあげてものすごい力でしがみついてくる。
オレも、あのときの恐怖を思い出して呼吸ができなくなる。
が、手に恐ろしく暖かい感触──葉波が、オレの手をその最近やたらとでかい胸に?
あ──そうだ、ここは安全なんだ──
「ああっ、廃墟、廃墟……何もかもが崩れる、死──死!」
岡野が叫ぶ。
「何を見ているんだ、目を覚ませ!」
「まさか、体に埋め込んだケーコが暴走して?」
そうか──もしエンドレスでホラー映画が流れていて、現実と区別できなかったら!
「どこだ、外部ユニットはないのか……」
「だめ」
と、葉波がオレの目を手でふさいだ。ああ、服を脱がせて体を探るのは女じゃないと。
オレは目を閉じ、岡野を抱きしめる。華奢で柔らかいのに引き締まっている。
「あった、電源は」
「ちょっと待て、もし生命──メーカーに連絡を取るんだ」
「そうね、ちょっと待って。はい、……そうですか……」
そのあいだにも、彼女がオレを締めつける力はますます強くなる。骨が折れそうだ。
「ああ、死ぬ、腐る……ああ、腐った水……死体でも食いたい……人が人を……食う……ふくれた死体が、風船のように破裂して……伝染病が、腐肉に群がる──」
一体、何を見ているんだ? これ──
「助けて、違う! 夢よ、こんなの夢! 悪い夢! 今の世界は、もう何年も誰も餓死していない!」
まさか。
「そんな、夢じゃない……」
やっと、葉波が電源を切ったようで、女の力が抜けて──
目を開けると、半裸の──首筋が痛々しく日に焼かれて赤い、服に包まれた部分は透き通るように白い肌。
その黒い目が、徐々に光を取り戻していく。
「あ、あ──」
「岡野!」
「えま!」葉波がぎゅっと、彼女の手を握った。
「あ──」
あまりにも強い恐怖。なら──オレは彼女の手を、彼女自身の胸に押しつけた。
「どうだ……生きているだろう? 脈打っている、お前は生きているんだ!」
「夢じゃなくて? 夢じゃなくて?」
「現実だ!」
ふっ、とその体から力が抜ける。
「入っちまったのか、『何もしなかった未来』に」
そう、オレたちも何度となく見せられた教育映画だ。オレも悪夢は何度も見てる。
もし、二十一世紀初頭──それ以前からの運動が実を結んだのでもあるが、“選別をせずに持続可能文明に転換する”道を選ばなかったら。全世界最低生存保障とエネルギーの転換、持続可能な食糧増産の模索に舵を切らなかったら。円卓がなかったら。温暖化などがひどかったら。
恐慌と資源の枯渇、気候変動で社会が崩壊し、世界のほとんどは飢餓と疫病、戦乱で──普通の都市が、はじめはただの不況だと思ったのがあっというまに飢えに襲われる──飢えて武器しか持たない難民の、ゾンビ映画みたいなのが街を、国を飲み込んで全てを破壊していく──見せられたのを思い出しただけでぞっとしてしまう。
緩慢な飢餓が続くことで法は崩壊し、そこで不安と不満が敵を求め、民族虐殺はもちろん魔女裁判のように些細な密告でも残酷な私刑が起きる。
数十億の死、地球全体を覆う近代文明の崩壊は想像を絶する。地球が死体で埋まる──皆が飢えか伝染病か殺し合いで死んでいく、アメリカやヨーロッパのごく一部の、核も毒ガスも細菌兵器も遠慮なく使って他者を締め出し、油田と井戸を確保した要塞帝国以外は。
あまりにも多くの死。地球を覆う不潔と破壊と飢え。──そう、文明なんてバッタの大発生|(注:日本語ではイナゴの大群と言うが、蝗害現象を起こすのはバッタ)と、数年と数百年の違いしかない、どちらも地質学的には一瞬──緑を食い尽くし自分たちも死んで、地を骸で埋める──一人一人に名前と人生があって、それがバッタと同じただの死体に変わる、それが何十億──
「ケーコが暴走して、繰り返しあれを──まるで、今の生活が夢だったように……」
「言わないで、思い出す必要はないわ……人間は切り抜けたのよ。人間は賢明な道を選んだの」
「うそよ! 人間みたいなバカで邪悪な種族に、こんな道が選べるはずが──」
くそ、
オレは彼女の、半ばむき出しの胸をつかむように触った。
「あ──」
「──な、に、すんのよっ!」
蹴りが頭を直接襲う──
「ね、えま、夢じゃないでしょここは──」葉波が岡野と目を合わせてから、こっちを向く。「由……」
「悪夢よ!」
と、葉波と岡野、両方の足が上から顔に向かってきて──岡野は赤、葉波は青いストライプ──気がついたら船の上で、帆桁端から逆さに足首を縛られ吊るされていた。
もちろん、すぐに吐いたのが鼻に入って──それに頭に血が──た、助けて──
かろうじてナイフは──ある、左手で縄につかまって足首の輪を切って、それから登れば──できるか?
やっぱりあいつの脳直結ケーコ、欠陥品だ!
「さて、今日はメガフロートを下から見てみようか」
このあいだと同じ、オレと岡野、葉波と春おじさんでメガフロートの埠頭から人魚で海に潜った。
もちろんメンテナンスのついでだ。
「え……」
ソナーの描く像に、彼女が驚いている。
水面下十八メートルもの、下が見えないほどの深さがある。そしてその下は──
「由、気をつけて」
「わかってます」
「はい、だ。ちゃんと注意と敬意を払っていることを言動で示せ」
「はい」
ここは、メガフロートの縁の波力発電ユニットでかなり流れが不安定だ。その流れの恐ろしさはついこの間、生身で味わっている。
「ほら、ここが波力発電ユニット。外洋からの波を受けて、ここで必要な電力の八割はまかなえてる」
ゆっくりと沈んでいく。ひたすら目の前は、海藻や貝がびっしりつき、珊瑚が育ち始めている壁。
「どうなってるの?」
と、岡野が目の前の壁を指差した。
そこにライトを当て、ふっと近寄って鼻で体を固定した。
「この壁は非常に複雑な形に、わざとしてある。岩場を再現して、魚の隠れ場を確保しているんだ。これだけでこの周囲はかなりたくさん魚が暮らせる。潜るぞ」
「こんなに水面下に、何があるんですか? 春さん」
わざわざオレを無視するなよ──
「貯水設備さ。亜熱帯海洋気候のここはかなりの雨が降る。それを、上の太陽電池幕で受けて海面下に貯める」
と、春おじさんが説明する。
「ほかもそんな感じなの?」
「そう!」
ちょっと不機嫌に葉波が応えた。
「そろそろ底が見える──少しは、立体音響に慣れてきているか?」
「ケーコの世代が違うのよ、最新型よ」
つっけんどんな口調でいう。
「欠陥品だろ」
「うるさいわね、海が異常なのよ!」
「バカか、そんなの体に埋め込むな」
「こら由、運転に集中しろ!」
春おじさんの怒鳴り声にちぢみあがる。あの人が本気で怒ったら……ぶるる。
「オレがわるいのかよ!」
「いつもわるいのは由」
葉波の言葉にがくっとなり、そのままメガフロートの底にもぐる。
「うわぁ──」
すばやく操作して、映像を光増幅して音響定位映像を重ね、注視部の距離表示をオンにする。かなり暗くなるけれどはっきり見えるようにして、ぶつかりそうになったらわかるようにした。
メガフロートは、上では単なる板、平らな陸地にすぎない──だが、水面下には壮大な構造物が隠れているのだ。それも珊瑚の生長で日々変化する。
ブロックごとに巨大な球の下半分。貯水場だ。
その下に柱でつながれた三段の巨大な板。海中の板には無数の穴があり、メガフロート自体よりかなり広くなっている。
「な、なに?」
「あの球は貯水場、板は擬似的な海底を作って、海底で暮らす生物の楽園になってる」
オレの説明を聞いているのか、ただ呆然としていた。
彼女の目には何が映っているのだろう──最新型ケーコはどんな情報を、脳に直接流し込んでいるのだろうか。いいな──いや、あんな欠陥品、頼まれてもいらない。
「赤道直下ではもっと貯水場が大きいよ。雨の量の桁が違う、降雨だけで水田稲作が二回といろいろ一回できるぐらいなんだから」
オレの言葉を聞いていないようだ──ひょっとして、言葉をシャットアウトしているのか?
とん、と手を軽く叩いた。
「な、なによ!」
びっくりしてこっちを見る。ち、近いよ──意識してみると、すっごく──
「あ、あの……なんだ──」
うわ、──混乱して──まっすぐ目を見るなよ──
「由っ! 危険だから、普通の音や映像をシャットアウトしちゃダメよ、えまちゃん」
葉波が代わりに言った、妙に刺のある声で。助かった────
「さて、ちょっと底のメンテナンスもしておくか」
と、春おじさんがぱっと他の人魚に合流する。
「ここは原則禁漁、魚のいい産卵場になっているから。でもちょっとは掃除しないと、どんどん重くなって沈むからね」
「穴抜けるぞ、舌かむなよ」
「あぶな──」
春おじさんの声を無視し、するっと腕を振ってペンギンのように隙間をくぐった。
なんかちょっと気になった──今、春おじさんと葉波は狭い人魚で、こんな感じに密着しているのだろうか。
おば──おねえさんに言ってやろうかな。
6
ひたすら飢餓と伝染病、原始的な戦争。廃墟。砂漠と荒野。
それが、いつしか別の夢になる。
巨大な、工場のような研究所。
無数のラット、シャーレ、試験管、いくつものビルを埋める当時最強のコンピュータ──巨大光子コンピュータと量子コンピュータ、パソコン数十万台の複合体。
若い美女が白衣を脱いで震える手の注射器を見つめ、自分の腕に刺してゆっくりと透明な液体を注入する。
それから優雅なドレスに着替え、空の旅を愉しむ。猥雑な空港。カイロ、ニューデリー、シンガポール、上海、成田──
一年後、人々が一斉に、苦しみもがいて死んでいく。全身に赤と黒のできものを浮かべ、高熱に錯乱して。
世界中で。白人以外すべて。
アメリカでも黒人やアジア系、混血のヒスパニックが、もう白人より増えていた人たちが次々に死んでいく。
NBAの試合が中止された。
あ──夢か。よかった。あらためて、円卓騎士団に感謝するな。くそっ、岡野があんなことになって、つい同情して葉波と『何もしなかった未来』、ついでに『円卓の騎士たち』を見ちまったから──
もうすぐ夏休み。その前に稲刈りと期末。
本土では稲刈りは九月ごろだが、亜熱帯のメガフロートでは三月下旬に田植えをして七月には収穫できる。
「もう、飛行機とっとく? 父さんのところに行くんでしょ?」
オフクロが聞いてくる。
「ああ──」
どうしようか。やっぱりゴビ砂漠でオヤジを手伝うか、ずっと見てきた防風林がどんなふうに育っているか──
でも、僕らは緑前線を進めるだけで、一年中毎日面倒を見るのは現地の人だ。
あそこのように環境、交通に恵まれていない地域では自給自足と緑の維持を優先、具体的には大きな地域全体の半分は森に、そして残りの農地も木をたくさん植えて燃料や肥料、金になるものを確保する、という原則は守られてるだろうか。
原則自体は正しいけれど、現地の人たちと触れあってみればその格差を、どれほど彼らが不満に思っているかは伝わっているんだ。
しょせん子供は足手まといだ、と最近ようやく分かってきた。あっちの、まだ貧しいところではまだ子供が労働力になってはいるけれど。今年は少しはものの役に立てるだろうか──
「おはようございます」
相変わらずどこか他人行儀に岡野が──うわ、トレーナーが汗に濡れて、肌にくっついてる。
「由、あっちで食べてなさい」
「だいっきらい」
「お兄ちゃんのスケベ」
余計なことを言う美香の頭を軽くはたいた。今朝は煮魚と海藻汁と……
先生が来る前にテスト勉強で先週の復習をまとめていると、ふとなにかひっかかりを感じた。
あの太陽電池の、いつも見ている柱──発泡コンクリートの断面──
「“泡を正四面体を集めた構造に”」
録音の一語に、何かがおかしい気がする。
そう思っていたら、もう授業が始まっていた。
「EUは、地中海周辺から中東にいたる、古代文明のせいで砂漠化した地域の緑化に力を入れています。最大の問題であった若年失業者を振り向けることで、社会不安を解消する努力がすすめられ──
「まずEU内部の緑化で当時若者の30%を越えていた失業者に植林、緑化、アグロフォレストリーの素養を学ばせ、後にギリシャ、アルバニア、トルコからイランにいたる広大な地域を緑化──
「ユダヤ、キリスト、イスラム三大宗教が協調し、文明が破壊した荒野を緑に変えるという思想は多くの反対がありましたが、円卓騎士団事件をきっかけにローマ教皇が──
「アフリカ大陸全体について、EUが大きな責任を持つことになりました。そのかわり大西洋に多くのメガフロートを建設する権利を得て、それは今EUの汚水処理、食糧、バイオマスエネルギー増産に活躍──
「北海、バルト海全域に二十四時間日光が宇宙の鏡から与えられています。それは生物生産量を五倍に増やし、二酸化炭素を吸収すると同時に産業革命以来の膨大な汚染の分解に寄与して──
「EU北側の海の栄養は飽和しており、メガフロートを用いた下水処理は非効率的です。日光を追加して海藻と貝を養殖するのが優先され、また大河流域のあちこちに、大規模な水質浄化用の湿地を回復させ、そのバイオマスを有効利用して──」
──授業を聞きながら、頭の中では何かが形になれずにいる。
夜、感じた引っかかりを考えてみた。何だろう。
「由、由?」
あ、うわ! 至近距離で葉波がのぞきこんでいた。目がぶつかりそうで、心臓が跳ね上がる。
「どうかしたの」
その瞬間、わかった。
パズルのピースがぴったりはまった、いやはまらない。
頭を抱えて想像するが、それではもどかしい、何か言ってくる葉波を押しのけ、机に飛びついてノートを二、三枚引きちぎる。うーっ──あ、コンパスと定規で正三角形は作れる。
自分の繭に飛んでいき、ドアを開けるとそこには岡野がいた。
「悪い、コンパスと定規」
「え、え」
強引に手を突っ込み、奥の壁の棚を探って文房具をあさり、そのまま机に引き返す。
呆然としている葉波を無視していくつか、もどかしい手で正三角形を作る──、切って正四面体をいくつか作る。はじめはまだるっこしかったが、大きい正三角形を作ってから各辺の中点をとって結べばそれも展開図になることに気がついた。
正四面体をいくつか組んでいくと──やはり!
「あれ」
葉波も気がついたようだ。
「ほら、正四面体じゃうまく組み合わさらないんだ!」
思わず、葉波を抱きしめていた。
「ちょ、ちょ──」
「いや、ちゃんと証明しなくちゃっ」
と、また繭に飛んでいくと、まだ映画を見ていた岡野を強引に押しのけた。
「な、なにすんのよ」
「悪い、ちょっと使わせてくれ」
「わたしの……いや、そうね、でもこれが終わるまで」
「待てない!」
岡野を抱え上げて外に下ろし、そのまま繭に入りこむ。ええと、これに関して──ああ、確かおいらの証明だっけ、正多面体が5つしかないのは角度が、だから──ネットで調べてみるか。面同士の角度は、そういうことか。うわ、情報が多すぎてよくわからん──正四面体を縦に切れば──ああ、索具を思い出せ。ロープと滑車が──
「由!」
強引に繭が開けられた。
「葉波?」
あ──くそっ、徹夜しちまった。ケプラー予想か──軍艦の砲弾から生まれたとはな。くそっ、もっと前に生まれていたら。
「もう学校よ、早く! そろそろ期末でしょ……やっと勉強してるの?」
う、忘れてた。『人間は忘れたいことを忘れる』とコンピュータ、うるさい。
「また、えまちゃん泣かせたでしょ?」
「え?」
「え、じゃないわよ! 強引に下着で寝てる女の子の繭に手を突っ込んで! それから引きずり出したって?」
「あ──」
そんなこともあったな。人の繭を勝手に開けるのは──いや、元はオレの繭だぞ。というか下着姿だったんだ! もったいないことをした。
「おばさんに言われたわ、かわりにしっかり叱っといてね、って」
「え」
「いい、えまちゃんがどれだけ気を遣ってるか、心細いかわかってる? 最低。あんたは守ってあげる立場でしょ」
「あ──」
それどころじゃなかったんだが。
「それに、女の子の繭を勝手に開けるなんて、スカートめくりよりたちが悪いんだから!」
「悪かったな、久々にめくってやろうか?」
手を動かすと、葉波は冷ややかに微笑み──悔しいが見とれてしまう──
「いいわよぅ、どうぞごえんりょなく。ほれほれ」
と、ぎりぎりまで自分でスカートを引き上げて──たまらずそっぽを向いてしまった。勝てない。
「さて、今週はメガフロートがどこにあるか、地図で見てみましょう。
まず日本の近くから。最初にできたのは東京湾と大阪湾で、港湾・工業・娯楽施設としてです。それらの用途もかなり重要で、現在もニューヨーク沖に世界最大規模のメガフロート群が建造中です。
そして総合エネルギー・下水処理の人工干潟・海藻養殖型が野島崎沖など、黒潮にそって多数あります。
沖縄ではエネルギー・農業複合都市型も多いのですが、米軍基地としても数多くあります。そもそもメガフロート自体、米軍基地の受け入れ先として発達した面が」
『由』
葉波からテキストメール。どこにどんなメガフロートがあるか、毎日船で通っているオレたちは先刻承知。
だから、今はひたすら昨日の続きをやっていた。
『なに?』
「他に中華連邦、韓国、フィリピンも主に日本と共同で、北西太平洋各地に多数のメガフロートを作っています。皆さんはご存知だと思いますが、日本の領海は地球儀で見るとこんなに広いんですよ。
北太平洋は元々好漁場が多く、増やす余地は少ないのですがアメリカ・カナダが外洋海藻養殖場を作っています。
赤道付近は名義は島嶼諸国、実際の建造・管理は日本で水田稲作・合鴨魚複合型が急速に増えています。わたしたちのメガフロートと同様にアゾラの空中窒素固定能力を利用し、合鴨や魚に雑草、害虫を食べてもらいます。低コストの人工珊瑚礁や、マングローブや塩生植物をラクダに食べさせるところも多いです。
南太平洋ではイギリス・オーストラリア・ニュージーランドが中心になってみなさんと同様のエネルギー・総合農業複合型を主に──」
『由、夏休みどうするの? あのさ』
「インド洋ではインドが中心になって赤道周辺に、水田稲作・合鴨魚複合型や人工珊瑚礁がかなり作られています。南インド洋は現在未開拓の外洋ですが、高緯度の南氷洋は鉄と珪素さえ供給すれば光合成が増えるので、メガフロートこそ少ないものの海藻養殖設備が大量に造られており、世界のバイオマス生産の──」
『今話しかけないでくれ、勉強中』
「北大西洋はEUが主で、娯楽・産業型が多いです。海藻養殖も大規模ですね。北アフリカ沿岸でEUの汚染処理メガフロートが数多くあり、南大西洋は主にブラジルがラクダを大規模に飼育しています。メキシコ湾でも汚水処理マングローブ・海藻養殖設備が多数あり、水深を浅くし、宇宙の薄い鏡から日光を添加することが広域化してから、問題とされていた富栄養化が逆に膨大なバイオマスエネルギーをもたらしています」
『何の勉強? 音楽? 美術?』
オレはもう答えなかった。やることが多すぎる。
「再来週から期末テストです。がんばってください」
授業が終わるのももどかしく、先生に聞いた。
「先生、正四面体では空間を覆えません! ピラミッドが必要です!」
「あら──あ、ちょっと待って」
わたわた、と先生は机を探り、小冊子を差し出した。表紙の、軌道エレベーターの予想図や冒頭の帆船写真に目が釘づけになる。
「長谷川君の受けている授業は──そうね。もし自分で気がついたのなら、よかったらこの講座を受けてごらんなさい」
基礎数理工学夏期特別講座?
「天分があるのよ、理科や数学の成績も抜群だし。ちゃんとした証明については──そうね、大内先生に聞いたほうがいいわ。メールでアポ聞いてみるから」
「え──」
「そして、発泡コンクリートは自然がエネルギーを最小にしようとする力のおかげで、それぞれが少しだけ正四面体からずれて組み合わさることで、充分に強い構造を作るのよ」
「どうしたの由、次の授業始まっちゃうよ」
「ほら、行きなさい。期末テストの勉強、しっかりね」
…………
さっき渡された講座についてケーコで見てみる。
本土で夏休み中、生存公役も免除で徹底的に数学、理科、工学の特に深い基礎を学ぶらしい。
受講に必要な単位と成績もかなり高い。数学はなんとかなるが、期末で英語をちょっとがんばらないと。
いや、何が悲しくてわざわざ勉強しなきゃならないんだ? オレは将来、船乗りか農業か緑化事業か──
それだけだろうか?
軌道エレベーター計画が始まるのに。
木星や水星、冥王星やアルファ・ケンタウリだっていけるかもしれないのに。
「由、あの」
「なあ」
「え?」
風がぶつかり合い、裏帆を打って帆桁が震えた。
「これ、どう思う?」
出したパンフレットを見た葉波の表情が凍りついた。
「え、それ受けるの? まいったな」
岡野の声がデクレシェンドする。
「えまちゃんも?」
「うん──」彼女の顔がはっと変わり「あ、でも、違うからね! こいつが受けるなんて知ってたら、絶対違うクラス」
「わかってるわ」
と、葉波がなんだか寂しそうに。
「う、この──バカ!」
岡野がオレを、憎々しげににらみつけた。
「由」
葉波の、とんでもなく迫力のある声に、つい直立不動になってしまう。
「それを受けるなら、本土までの船で航海術実習をついでにとれば便利よ」
口調は穏やかなんだが──でも、その通りだ。往復で二週間みっちり実習でき、船賃もただになる。
「ずっと……せっかく──」
葉波?
それっきり、葉波は向こうに行ってしまった。岡野も、オレと眼をあわせようとしない。
「風、強いね」
岡野が外を見上げた。
「えまちゃん、今日は学校に泊まるよ」
葉波がちょっとケーコをいじり、空を見上げた。
天気データを見るまでもない──この間のオレと同じ基準なら船は出せない。かなり大きくスピードのある台風が接近している。
「へえ、そんなこともあるんだ」
「よくあるわよ、あたしたちは大体泊まる部屋が決まってるけど──いっしょでいい?」
「え、いいの?」
なんだか、岡野が葉波に借りがあるような目をしている。海では借りは早めに返したほうがいいんだが。
「今日は帆走だけで帰るぞ、気合入れろよ!」
ドラ声が響いた──うわ、今日の帰り、三本マスト大型船で船長は春日じゃないか! 最悪。『考えないようにしてただろう』と、常駐ソクラテスの一言。
「うそでしょ? あたしなら船は出さない──あ、カスが|(春日)──」
「他の学校船も出てないぞ」
「運が悪かったな、死体が出れば上等だよ」
ざわつきながら岡野たちおかもの、航海術コースを取っていない連中を船内に収容する。
だが、かなりの、ある程度わかっている子は乗船を拒否して学校に泊まることにした。
オレもできたらそうしたいよ──と呪いながら、必死で重い円材を持ち上げ、はめこむ。
「当直員は艦尾甲板に集合! 整列、直立不動!」
春日──本当は一つ上だから、先輩をつけるべきなんだがつけたくない──が、嬉しそうな表情で勤務表を発表した。
「木村、シグナル・ハリヤード、左舷。長谷川」
「はい」
胸がむかつくが、今は奴が船長だ──
「メン・トップヤード、右舷直」
「はい」
「アイ・アイ、サーだバカモン!」
いきなり蹴りが飛んできた。何がアイアイサーだ、そんな慣習ここにはねぇぞ勘違いしやがってこの──他の誰にも同じようなことは言ってねぇじゃねえか──
「アイ・アイ、サー」
「声が小さい!」
「アイ・アイ、サー!」
「もう二十回!」
「アイ・アイ、サー! アイ・アイ、サー!──」
「声が小さい、三回メンマスト上り下り! 全速!」
「アイ・アイ、サー!」
唇をかみしめながら、固くもやわれているのに激しく揺れている、伸ばす手も見えない嵐の中を必死で駆け上がり、駆け下りる。マスト・トップが埠頭にぶつかりそうになる。
心臓が爆発しそうになる──なにくそ!
下りる一瞬、無表情を保っている葉波と、客室に入ろうとしている岡野が見えた。
その表情が目に焼きつく。イルカのような──
「そのままヤードにつけ!」
春日──今は船長の声が響く。
くそ、オレが何をしたってんだ! 前もひどかったが、あのときは凪だった──
風で顔がゆがんでいるのがはっきりわかる。まだ五時なのに空が暗いぞ!
オレが出なかったときよりやばいぞこれは──
峰は錨索からメン・ハリヤード、葉波が機関次席──くそ、せめてどちらかが舵を取っていれば。
金さんと安里以外最悪なメンバーばかり中心に、こりゃ凪でも沈むな。
と、思ったらいきなり、
「大横帆展帆!」
冗談じゃねぇぞ! 今の帆は昔と違って、強靭すぎるからたちが悪いんだ──
鉄板ロールのように固く巻き締められているのに暴風にもぎとられそうだった帆を、歯を食いしばって──少しずつ、だましだまし──
「何やってるんだ長谷川、一気に開け!」
ふざけるな、帆がどうなると思ってる、オレに吹っ飛んで向こうの校舎に首から突っ込め、と? 船を転覆させろと? だが──
船では無条件に服従しなければならない。しかし、船の安全だって──うわあっ。
恐怖に歯の根が合わず、気持ち悪くて気を失いそうなのに耐え、げろをかみ殺しながら──風が一瞬緩むタイミングを計り、鋼の鞭のように跳ねる作業端をつかみ、一気に引く。
そのとたん、爆発音がして船が大きく傾き、帆桁端が海面に触れそうになった。船が砕けたか。
同時に、すさまじい力がオレを帆桁からもぎはなそうとする──足が足場索から外れ、左手一本でぶら下がる形になる。体が砕けたか。
かろうじて体勢を立て直すと、船が恐ろしい勢いで横にずれ、左右に激しく、不規則に揺れながら埠頭にぶつかりそうになる。
おかものよりたちが悪いぞ、中途半端に航海術をわかってるつもりで何をわかっていないか考えたことがない、サドのクズは。
船が沖に無事に出たのは奇跡、いやオレも含め何人かが、微妙な命令違反をしたからだ。
暴風はますますひどくなり、船は今にも沈みそうな、危険な縦揺れをしながら倒れそうな詰め開きで風に逆らい、また船首をおとして脇腹を波に殴られ、ふらついて船尾を波に食われる。雨だけで沈みそう、波に甲板が洗われる。どうみてもぶざまな動きだ。
一時もマストから降りることを許されないオレは、船がどこにいるかも知らなかった。もう吐くものなどないし、それどころじゃない。ケーコに触れる暇などなく時間もわからない、暗黒しか。
次の大波と突風に──いっそ、命令に従うだけの機械になっちまったほうがどんなに楽か。だが──またカスが、上手回しのタイミングが──くそ──
たのむぜ、峰、金さん──二人がかろうじてタイミングを修正しているのが、帆脚索から伝わる。葉波が船長か、せめて操舵長だったら!
「長谷川、なにをしている! さっさとそのロイヤルを展げろ!」
本気で船を沈める気かよ。もう真夜中で服が風をはらんで、空を飛べそうなのは慣れてるからいいが。
「遅疑や反問は許さん、実行しろ!」
死ぬのか──みんな──
「そこまで、緊急事態発令、実習中止! メン・トプスルを縮帆して下りろ! 機関半速!」
やっとだ、監視員の木村さんが声をかけてくれた。
オレは手早く縮帆をすませ、がっちりと留まっているのを確認して後支索を滑り降りた──また、甲板口から顔を出している岡野と目が合った。
ばかな、閉めろ! 海水が流れ込む!
「春日。君を船長から解く、長谷川と交代」
え、オレ? こんな状況で? 今日帰路の副長は金さんでは──
「学校側と連絡は取った。できたらこのまま、荒天帆走訓練を続けてくれると助かるのだが?」
う──おおっ、
「はいっ!」
オレはできる限りの声で叫ぶと、
「機関微速、ミズン・トプスル二段縮帆! ゆっくり、当て舵少々、左舷二人メン・ハリヤードにつけ!」
矢継ぎ早に指示を出す。とにかく船を安定させ、風に向かわせなければ。エンジンを切って帆走に切り替えるには──
「楊、海図と現在位置! エンジンそのまま……ゆっくり下げて」
現在位置はここか──エンジンうまく下げろ葉波、好きだ──信じてる。
「舵戻せ、針路このまま──ジブ、上手回し用意! 風上下隅索」命令しようとした瞬間、直感で吼えた。「取り消す! 総員体を固定! 取舵いっぱい、機関全速!」
「機関全速!」
「取舵いっぱい!」
甲高い声。波しぶきで視界がきかない目の前に、突然塔のような三角波がそそり立つ。
斬れるか? きわどいところで推進力が効き、鋭利な舳が波の裾を切り開き始める──胃袋が、いや意識しちゃいけない──ぐっと傾いた船体自体が、風を受けて三角波に押しつけられる。
一瞬宙に浮いたような、甲板が壁のように傾いて──くる、ショック──きた! 転げ落ちそうになった誰かをつかまえ、手摺りに押しつける。
手摺りに腕を絡ませ、甲板を膝まで洗う余波にかろうじて耐え、
「舵戻せ、機関停止!」
もうエンジンは危険なだけだ。
「面舵少々──いっぱい! 戻せ!」
船体がずれた背後で、間一髪波が立つ。船首が落ち、風を受け波を追い越す状態になる──危険だ、早く──焦るな──
空と海がきれいだ、何も見えないけど。不思議と笑みが浮かぶ。
まだだ──まだ、ここで──
「金、メンスル一段展帆! フォアおさえろ、もうすぐ峠は越える、気合入れろ!」
「おおっ!」
皆の、腹の底からの声が響く──見回す、全員無事だ。
心臓がつかまれる感覚を抑え、一瞬空が見えるが、その分風が荒れる空と海を再び見つめる。一面のしぶきに視界をふさがれる。そろそろ次の雲に入る──安定するはずだ。
「面舵もう少し! 帆脚索少々──よし、取舵」
やっと風とつきあえるようになってきた。波も、危険な三角波は──今だ。
「まわすぞ! 優しく逃がせ、舵気合入れろ!」
「おうよ!」
操舵手の安里、声変わりでかすれた声。
「機関微速前進、転桁索気を抜くな、──」
ぐっと前が上がって──のりこえた、一瞬風が強まり──波が船首を押してくれる。
「ヤードまわせ! 面舵一杯!」
「面舵一杯」
ふわっと、船が回った。
「舵戻せ、メンコース少し絞れ、ジブ用意!」
ここで油断しちゃだめだ、気力を振り絞れ!
いやというほど傾いて詰め開き、ここで気まぐれ波が一発来たら──目の前で波が弾ける。しぶきがシャワーのように注ぐ。ジブのすさまじい力が、巨人の手のように船首を風に向けて押す。船体が、バウが悲鳴を上げるのがわかる。
大丈夫だ、いい舵──最高だ──風と波に乗るようだ──最高だよこいつら、この船、海と風と波──
「このまま南硫黄島九番に向かう。針路北北東、取り舵少々──よし、メン・トップマスト・ステイスル展け、ジブ縮帆!」
風が味方になり、鋭い舳が波を裂いて船が安定する。ここで気を抜くな、また三角波が来る──真っ黒で、ところどころ青が交じる空──
「だいじょうぶ? 嵐の長谷川、って呼ばれてるんだって?」
なんとか最寄りのメガフロートが見えた頃はもう朝、台風一過のいい天気が広がっていた。トビウオが脳天気に飛んでいる。腹がきゅるっと鳴る。
「それ、やめてくれ」
岡野に答える──船室で誰かに聞いたのか。
まだ波が残ってはいる。ここからが危険だ、メガフロート群の海域は海面下施設が縦横にあり、ブイを一つ見逃しただけで──ブイが一つなかっただけで終わりだ。一応李に交代したはずだが、甲板を離れて寝るわけにはいかない。
第一眠れる訳がない、この横揺れ──船酔いで。
「まだ出るな、港に錨を入れるか繋留するまで危険は続いているんだ」
「錨?」
「メガフロートの周りにはよけいに底がある。船着き場には錨を入れられる」
「そう、もうこんなに天気もいいから、ちょっと上がらせてよ」
「いいから、今はオレが船長なんだ──船長命令は絶対だ」
「だからあんな、めちゃくちゃな命令にも従ってたの?」
「ああ」
「バッカじゃない? それで自分が死んだり、船が沈んだら」
「その話は後でする、峰! 船客を船室に」
「はい、船客を船室に収容します」
峰が岡野の腕を取り、連れて行った。
何か言いたそうだったが、無視。
確かにめちゃくちゃだった。オレも、岡野も含め船のみんなも危険にさらされた。
だが──規律と服従がない船は、ずっと致命的なんだ。まあ、あいつは二度と船長はやらないだろう。向き不向きが早めに分かるのは幸せだ。
灯台と大風車は見えているが、まだ波が荒く風も強い──今港に入るのは賭けになる。
だが、みんなの体力も限界だ。オレ自身も。だが──葉波と漂流したときは、もっとひどかった。まだいける。
「よくブイを見ろ、波の異常も! オンライン海図もブイも絶対じゃないぞ!」
声をふりしぼる。風をよく見て、なんとか無事に入港しなければ。訓練にはならないが、帆をたたんでエンジンを使うか?