記憶総失
「優一郎と別れた」
葵は静かな、そして生気のない声で親友の美沙に伝えた。
優一郎とは大学の自然散策サークルで知り合った。
入学直後に入ったサークルは総勢10名程度の少人数だが、
のどかなサークルが葵の性に合っていた。
優一郎は学年こそ一つ上だが一浪して入学した葵とは同い年であった。
派手さはなく目立つ存在ではなかったが落ち着いた優一郎の性格が葵には好感した。
活動半年に迫る紅葉の終わり頃、葵の呼びかけで二人の交際はスタートした。
二人の外出先はアミューズメントパークや映画館のようないわゆる現代的なデートではなく静かなカフェでゆっくり過ごしたり湖やハイキングなどサークル活動の延長のようであったが、そんな優一郎に安心感があった。
将来子供たちも一緒にこんな時間が過ごせたらどんなに楽しいだろうかと葵は想像を膨らませるのだった。
大学卒業後、優一郎は地元の市役所に就職した。
翌年に葵も追うように優一郎の地元の中規模商社に就職した。
仕事の忙しさでデートの頻度は減ったものの交際は順調に続いていた。
1年後葵は仕事も慣れた頃、意を決して優一郎に共に家庭を築きたい気持ちを伝えた。
彼も葵の気持ちを薄々感じており、葵が考える以上に真剣に深く悩み
続けていた。
少しのんびりした優一郎を適度にリードしてくれる葵との時間は心地よかった。
でも一人の時間が欲しかった。
二人で過ごす時間も嫌いではないが旅をしたり風景を眺めたりして事象の本質を1人で落ち着いて深く思索することが優一郎は何より好きだった。
勿論葵の気持ちも誰よりも理解している。
だからこそ辛かった、悩んだ。
結果、彼は己の人生に主体的な選択を取ることに決めた。
「そう言ってくれて嬉しいよ。でもおれは葵と一緒に今後歩み続けるイメージができない、ごめん。葵と過ごした時間はすごく楽しかったし絶対忘れない。こんなおれと付き合ってくれて本当にありがとう」
他に好きな女性ができた様子はなかったし本心で言ってると思った。
何か自分に悪いところがあったのか?
至らないところはなんでも直すから考え直してほしい。
葵は心の中で何度も繰り返したが優一郎が意見を曲げないのはわかっていた。
葵は生きる希望を失っていた。
時が経っても癒されるどころか、これまでの自身の理想への執着が強くなっていった。
どうあがいても自身の理想が成就することはない。
生きていくことに対して辛さしかなかった。
こんな思いを抱き続けてまで生きる価値はあるのだろうか。
そんな折、葵を心配していた美沙から
「嫌な記憶を忘れさせてくれる治癒師が近くにいるらしいよ」
胡散臭いと思いつつもこんな辛さが続くくらいならダメ元で相談してみよう。
葵にはむしろそれ以外の選択肢がなかった。
美沙に連れられてきた目立たない建物の一室。
地味な顔立ちの白衣をまとった中年紳士は
「事情は美沙さんからお伺いしました。辛い過去の記憶を確実に忘れる保証はできます。でもあなたの財産である過去の思い出は全て忘れますが本当に良いんですか?」
かまわない。
葵にとって決して成就しない理想郷に焦がれる時間と苦痛は耐えられるものではなかった。
葵が静かに頷くと
「わかりました。では気持ちが固まったらこの錠剤をコップの水と一緒に噛まずにゆっくり飲んでください。この薬には人体に悪影響なく、速やかに過去の記憶を完全に消し去る効果があります。飲まれたらソファで1時間ほど
リラックスしていて下さい。眠ければ横になっていただいて構いません」
治癒師は錠剤の包み紙と水を差しだした。
葵は躊躇うことなく錠剤を流し込んだ。
思い出に強い未練はあった。
優一郎との輝いた思い出。
でもそれと同居することの方がはるかに地獄であった。
薬を飲んで葵の気持ちはスーっと楽になっていった。
全て忘れていく……真っ白い靄が葵の頭を覆いつくして何も考えられない。
葵はソファに腰かけていたが目からは生気が消えていった。
「先生、葵はだいじょうぶなんでしょうか?」
美沙は少し不安になった。
「よほど辛かったのでしょう、薬がより強めに効果を顕しています。
苦痛から解放されて葵さんは今まさに生まれ変わっています。
どうか新しい彼女に寄り添ってあげて下さい」
そう言って物憂げな中年治癒師は退室した。
美沙が少し安心して一息ついた直後、頭部にゴツンと何かが鳴り響いたかと思うと暖かい何かが顔を伝った。
「え、葵?」
痛みを感じる間もなく美沙は床に崩れ落ちた。
葵は全てを忘れていた。
過去の記憶。
それは輝かしくも忌まわしい思い出だけでなく過去の学習内容全て、家族友人知人関係はもとより法や常識・果ては言語や感情まで全てを忘れ去ったのだ。
ここ数日まともな食事をしていなかった葵は空腹であった。
葵にとって美沙はタンパク源であり生存を続けるため本能的に捕食対象と認識したのだ。
葵は原始的生命体に還ったのだった。




