第0話【脳筋、還る】
『目覚めよ』
誰かの声がした。
鳴神悠真は、見知らぬ大地に立っていた。
空は夜のように暗く、星が異様なほど近い。
手を伸ばせば届きそうなほど巨大な星々が、空一面に浮かんでいる。
普通の人間なら、ここでこう思うだろう。
ここはどこだ。
なぜ自分はここにいる。
あの星は何だ。
これは夢なのか、現実なのか。
だが、この鳴神悠真という男の脳内は、そこまで複雑にはできていなかった。
「……すげぇ。走り込みにちょうどよさそう」
第一声、それだった。
目の前には、半壊した神殿があった。
白い石柱。
黒く焼けた祭壇。
そして、その中央に刻まれた王冠の紋章。
悠真は腕を組んだ。
「ここ、部活の合宿所?」
違う。
その時、再び声が響いた。
『目覚めよ。名を持たぬ王よ』
「王?」
悠真は首をかしげた。
「俺、人をまとめるより先に自分の靴下なくす男だけど」
『……』
誰か分からないが、その声はちょっと黙った。
悠真はさらに続ける。
「あと、名を持たぬって言われても、俺、鳴神悠真っていう立派な名前あるしな。たまに出席番号で呼ばれたりはするけどな」
『……』
また黙った。
たぶん、この声の主は会話の相手を間違えた。
気まずい沈黙が落ちる。
次の瞬間、神殿の奥から黒い光が伸びてきた。
それは悠真の右手に触れ、手の甲に王冠の紋章を浮かび上がらせる。
じゅわっ、と熱が走った。
「熱っ! 焼き印!? いや牛か俺は!」
そう叫んだ瞬間、世界がひび割れた。
空が砕ける。
大地が揺れる。
神殿が崩れ、星々が落ちてくる。
世界の終わりのような光景。
悠真は拳を握った。
「分かった! つまりこれは、気合いで耐えるやつだな!」
たぶん違う。
「うおおおおおおおおおおっ!」
悠真はなぜかスクワットの姿勢を取った。
その瞬間、視界が真っ白になった。
⸻
「うおおおおおおおおおっ!」
悠真はベッドの上で目を覚ました。
そして、そのままベッドから転がり落ちた。
ドンッ。
「痛ってぇぇぇ! 神の試練、床!?」
違う。
ただの寝相である。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
枕元のスマホが、何度目か分からないアラームをしつこく鳴らしていた。
悠真はスマホをつかむ。
「うるせぇ!スクワット中だったんだぞ!」
アラーム停止。
悠真はぼんやりと天井を見つめる。
「……なんか、厨二病みたいな夢見たな」
右手を見る。
当然、王冠の紋章なんてない。
あるのは、寝ぼけて握りしめていた布団の跡だけだった。
悠真はしばらくそれを見つめる。
「名を持たぬ王、ねぇ……」
そして、小さく笑った。
「いや、名前くらい先に決めとけよ。王様業界、報連相どうなってんだ」
そう言いながら、制服に着替えた。
いつも通りの朝だった。
母親の「早くしなさい!」という声。
焦ってかきこむ朝ごはん。
なぜか片方だけ見つからない靴下。
そして、ギリギリ間に合う時間に家を飛び出す自分。
何も変わらない。
変わるはずがなかった。
ただし、悠真は玄関でもう一度右手を見た。
「……まあ、王様って響きはちょっと強そうだよな」
ちょっと気に入っていた。
⸻
学校に着くと、友人の拓真が悠真の顔を見て笑った。
「お前、なんか今日眠そうだな」
「ちょっと王様やってた」
「は?」
「夢の中でな。名前はないらしい」
「お前、ついに寝ても起きてもバカなんだな」
「バカじゃねぇ。王だ」
「名前ないんだろ?」
「無名の王だ」
「弱そう」
「今ちょっと傷ついた」
そんなくだらない会話をしながら、悠真は教室に入った。
一時間目は歴史の授業だった。
教師は黒板に大きく文字を書く。
『文明の誕生』
「一般的に、人類の歴史は、文字や都市、国家が生まれたことで大きく動き始めたとされています」
悠真は頬杖をついたまま、ぼんやりと聞いていた。
歴史。
文明。
国家。
王。
その単語だけが、夢の内容と妙に重なる。
悠真は手を上げた。
教師が目を丸くする。
「どうした鳴神。腹でも痛いのか」
「質問です」
「お前が?」
「俺が」
教室が少しざわついた。
「鳴神が……質問……?」
「今日、雪降る?」
「いや六月だぞ」
悠真はまじめな顔で言った。
「先生。人間が文字とか残す前のことって、どこまで分かってるんすか」
教師は少し感心したように振り返る。
「珍しくまともな質問だな」
「珍しくってなんすか。俺の知性は今日も平常運転ですよ」
教室に笑いが起きる。
教師は黒板を軽く叩いた。
「もちろん、遺跡や化石、道具の跡から分かることは多い。だが、文字による記録がない時代については、分からない部分も残っている」
悠真は窓の外を見ながら言った。
「じゃあ、証拠が全然残らなかった出来事ってのは、最初からなかったことになるんすかね」
教室が少し静かになった。
教師も一瞬、黙る。
「……まあ、証明できないものを事実とは言えないな」
「なるほど」
悠真は深くうなずいた。
「つまり、俺がこっそりテストの答案をゴミ箱にポイっとしても、証拠がなければノーカン……」
「あっ、親御さんに教えちゃお〜っと」
「くっ……歴史って難しいな」
「歴史の問題じゃない」
また教室に笑いが起きた。
その時だった。
カチリ。
小さな音がした。
教室の時計の針が止まっていた。
秒針が、十二の位置で動かない。
最初に気づいたのは悠真だった。
「先生」
「なんだ」
「時計がサボってます」
「時計はサボらん」
「じゃあストライキです」
「もっとない」
次の瞬間、誰かのスマホの画面が乱れた。
黒いノイズが走る。
それが一台だけではない。
二台。
三台。
教室中のスマホが、一斉におかしくなっていく。
「え、なにこれ」
「電波障害?」
「先生、これヤバくない?」
ざわめきが広がる。
教室の電気は消えていない。
窓の外も明るい。
いや。
明るすぎる。
悠真は窓の外を見た。
空が、割れていた。
青空の中に、夜空のような黒が広がっている。
その黒の中に、見たこともない巨大な星が浮かんでいた。
夢で見た星と、同じだった。
悠真は固まる。
そして、真顔で言った。
「……え、夢の再放送?」
誰も返事をしない。
右手が熱くなった。
悠真は手の甲を見る。
そこには、黒い王冠の紋章が浮かび上がっていた。
「え、出た! 焼き印リターンズ!」
床にも、同じ紋章が広がっていく。
机の下から、黒い光がにじむ。
教室全体が、まるで巨大な魔法陣の上にあるようだった。
クラスメイトたちは言葉を失っている。
教師もチョークを持ったまま固まっていた。
だが、悠真だけは違った。
「よし」
拓真が震えた声で言う。
「よし、じゃねぇよ。何する気だよ」
悠真は拳を握る。
「分からん」
「分からんのかよ!」
「でもこういう時は、中心っぽいところを殴ればだいたい止まる!」
「……うぅ、バカだけど、ちょっとだけ頼れるぞ!」
悠真は床に広がる王冠の紋章をにらんだ。
「おい、神っぽいやつ! 聞こえてんだろ!」
その瞬間、声が響いた。
『還れ』
夢の中と同じ声。
重く、深く、世界そのものを震わせるような声。
『神秘の時代へ』
教室中が静まり返った。
誰も動けない。
誰も理解できない。
ただ悠真だけが、まったく別のところに引っかかっていた。
「いや待て」
悠真は天井に向かって叫んだ。
「還れって言われても、まだ授業中なんだけど!?」
『……』
謎の声がまた黙った。
悠真はさらに続ける。
「あと説明が先!目的!交通手段!帰りの便!弁当出るかどうか!」
拓真が叫ぶ。
「弁当は今どうでもいいだろ!」
「どうでもよくねぇ! 長旅なら大事だろ!」
「お前、これが遠足の出発前に見えんのか!」
黒い光が教室を包み始める。
机が揺れる。
椅子が浮く。
黒板に書かれた「文明の誕生」の文字が、ぐにゃりと歪む。
教師が叫んだ。
「全員、教室の外に――」
悠真は振り返って言った。
「歴史の授業、続きは帰ってからで!」
「帰ってこられる前提か!」
黒い光が一気に膨れ上がる。
クラスメイトの声も、教師の叫びも、全部が遠ざかっていく。
最後に悠真が見たのは、昼の空を塗り潰す漆黒と、その奥で不気味なほど美しく輝く星々だった。
目の前から、すべてが消えていく。
悠真は拳を握りしめた。
「よく分からんけど……」
そして、なぜか全力で叫んだ。
「筋肉だけは絶対に渡さねえぞおおおおおおお!!」
鳴神悠真の平和な日常は、この日終わった。
ついでに、歴史の授業も終わった。
たぶん、出席扱いにはならない。永遠に。
もし良ければ評価、もしくは感想の記入をお願いします!




