役目を終えたはずの巫女でした 番外編/見ている側の物語 ― 立場より先に情が出る人たち
屋敷に戻った頃には、すっかり夜が深まっていた。
馬車を降りると、冷えた空気が肺に入ってくる。昼間の喧騒が嘘のように、あたりは静かだった。
先にリナを部屋へ連れていき、寝間着に着替えさせる。
興奮が残っているかと思ったが、布団に入ると、あっという間に小さな寝息を立て始めた。
「今日は、楽しかったのね」
エリスが小さく笑って、髪を整える。
アルトは頷き、灯りを落とした。
居間に戻ると、使用人が温かい飲み物を用意してくれていた。
湯気の立つカップを前に、二人は向かい合って腰を下ろす。
しばらくは、他愛のない話だった。
料理のこと、来客の顔ぶれ、久しぶりに顔を合わせた旧知の名前。
ふと、エリスが言った。
「……クロトさんが社交場に出てくるなんて珍しいわね」
「まぁ、護衛の仕事なんでしょうけど」
アルトは、カップに手を伸ばしたまま、わずかに動きを止めた。
「あぁ、そうだな」
「ええ。それに、家では何度も一緒に食事をしているけれど……」
言葉を探すように、エリスは一度視線を落とす。
「今日の姿は、少し違って見えたわ」
断定ではない。
ただ、事実としての感想。
「違う、というと?」
「うまく言えないけれど……」
エリスは考え込み、ゆっくりと言葉を選んだ。
「いつものクロトさんは、とても丁寧で、落ち着いていて。
距離の取り方が、はっきりしているでしょう?」
「そうだな」
「でも今日は……その距離が、少しだけ」
指先で、ほんのわずかな隙間を示す。
「近かった気がするの」
アルトは否定しなかった。
それだけで、エリスには十分だった。
彼は昔から、クロトのことになると、立場より先に情が出る。
「サクラ様、という方……」
名前を口にした瞬間、エリスはほんの少しだけ、言葉を和らげた。
「あの方と並んでいるとき、クロトさんが、無理をしていないように見えた」
社交の場では、多くの人が仮面をつける。
それを見慣れているからこそ、分かる違いだった。
「役目の顔ではなかったわ」
エリスは、そっとカップを置く。
「珍しいことね」
「ああ」
アルトは短く答えた。
それ以上、説明はしない。
エリスも、理由を問わない。
しばらく、沈黙が落ちる。
だが、それは気まずいものではなかった。
「……いい変化だと思うわ」
エリスは、そう付け加えた。
「ええ」
「何がどうなるかは、分からないけれど」
彼女は微笑んだ。
「誰かを大切に思う顔をしていた、というだけで」
アルトは、カップの中の液面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
「それで、十分だ」
エリスは、それ以上踏み込まない。
踏み込まなくても、伝わっていると知っているから。
「クロトさん、たまに帰ってくるでしょう?」
「ああ」
「また、食事を一緒にしましょう」
それは、特別な提案ではない。
いつも通りの、家族としての言葉だった。
「そうだな」
アルトは頷く。
灯りの落ちた部屋で、二人は静かにカップを傾ける。
外では、夜風が庭の木々を揺らしていた。
結論は出さない。
未来も語らない。
ただ――
変化を、変化として受け止める。
それだけで、この夜は穏やかだった。




