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役目を終えたはずの巫女でした

役目を終えたはずの巫女でした 番外編/見ている側の物語 ― 立場より先に情が出る人たち

掲載日:2026/02/07

屋敷に戻った頃には、すっかり夜が深まっていた。

馬車を降りると、冷えた空気が肺に入ってくる。昼間の喧騒が嘘のように、あたりは静かだった。


先にリナを部屋へ連れていき、寝間着に着替えさせる。

興奮が残っているかと思ったが、布団に入ると、あっという間に小さな寝息を立て始めた。


「今日は、楽しかったのね」


エリスが小さく笑って、髪を整える。

アルトは頷き、灯りを落とした。


居間に戻ると、使用人が温かい飲み物を用意してくれていた。

湯気の立つカップを前に、二人は向かい合って腰を下ろす。


しばらくは、他愛のない話だった。

料理のこと、来客の顔ぶれ、久しぶりに顔を合わせた旧知の名前。


ふと、エリスが言った。


「……クロトさんが社交場に出てくるなんて珍しいわね」


「まぁ、護衛の仕事なんでしょうけど」


アルトは、カップに手を伸ばしたまま、わずかに動きを止めた。


「あぁ、そうだな」


「ええ。それに、家では何度も一緒に食事をしているけれど……」


言葉を探すように、エリスは一度視線を落とす。


「今日の姿は、少し違って見えたわ」


断定ではない。

ただ、事実としての感想。


「違う、というと?」


「うまく言えないけれど……」


エリスは考え込み、ゆっくりと言葉を選んだ。


「いつものクロトさんは、とても丁寧で、落ち着いていて。

距離の取り方が、はっきりしているでしょう?」


「そうだな」


「でも今日は……その距離が、少しだけ」


指先で、ほんのわずかな隙間を示す。


「近かった気がするの」


アルトは否定しなかった。

それだけで、エリスには十分だった。


彼は昔から、クロトのことになると、立場より先に情が出る。


「サクラ様、という方……」


名前を口にした瞬間、エリスはほんの少しだけ、言葉を和らげた。


「あの方と並んでいるとき、クロトさんが、無理をしていないように見えた」


社交の場では、多くの人が仮面をつける。

それを見慣れているからこそ、分かる違いだった。


「役目の顔ではなかったわ」


エリスは、そっとカップを置く。


「珍しいことね」


「ああ」


アルトは短く答えた。

それ以上、説明はしない。

エリスも、理由を問わない。


しばらく、沈黙が落ちる。

だが、それは気まずいものではなかった。


「……いい変化だと思うわ」


エリスは、そう付け加えた。


「ええ」


「何がどうなるかは、分からないけれど」


彼女は微笑んだ。


「誰かを大切に思う顔をしていた、というだけで」


アルトは、カップの中の液面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


「それで、十分だ」


エリスは、それ以上踏み込まない。

踏み込まなくても、伝わっていると知っているから。


「クロトさん、たまに帰ってくるでしょう?」


「ああ」


「また、食事を一緒にしましょう」


それは、特別な提案ではない。

いつも通りの、家族としての言葉だった。


「そうだな」


アルトは頷く。


灯りの落ちた部屋で、二人は静かにカップを傾ける。

外では、夜風が庭の木々を揺らしていた。


結論は出さない。

未来も語らない。


ただ――

変化を、変化として受け止める。


それだけで、この夜は穏やかだった。

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