9話
「センパイ、どうしてここに?」
「……バイト、ちょっと前から始めた」
柊くんが楽しそうにしている。
そのことは自体は、私にとって喜ぶべきことだったはずだ。
でも、彼の隣にいるのは私じゃなかった。たったそれだけで、私の心の平穏はバラバラに砕けて壊れてしまう。
「真尋は、どうしたの?」
「友達と遊びに来ただけですよ」
「そっか」
気だるげで、少し甘い声で「真尋」と呼ぶのが聞こえるたびに、心臓がキュッと絞まって、息苦しさが襲ってくる。
「――それより今日の真尋。すごく可愛い。
その服、自分で選んだの?」
ペタペタと、柊くんの身体に彼女が触れる。
柊くんは満更でもなさそうに、顔を赤く染めながら、はにかんだ笑みを浮かべる。
「ちょっと。恥ずかしいんであんま見ちゃダメです」
「写真は?」
「ダメです。勝手に撮ったら怒りますよ?」
「一枚だけでいいから」
……やめてよ。そんな顔しないでよ。
見たくないって思ってるのに、二人から目を離せない。
「もう。……分かりました。あっち向いとくんで、勝手に撮ってください」
柊くんが横を向く。必然的に私と目が合って、少し気まずそうに笑う。
スマホのシャッター音が鳴った。柊くんを私ではない人が、切り取って、持ち去っていく。
――そのとき、彼女のエプロンの裾を人差し指で軽く摘みながら柊くんが言う。
「――センパイも可愛いですよ?」
……その表情は、私にしか見せなかった、悪い笑み。
瞬間、店員の女の顔が赤く染まり、慌てたように顔を両手で覆う。
ただ、顔を全て隠し切る前に、パシャリと音がなった。
「これで、おあいこです」
両手でスマホを顔の横に立てながら、柊くんが言う。
その仕草は、前に私に見せたものと同じもの。
――私と同じことを、柊くんはこの人にしている。
……自分は柊くんの特別なんかじゃない。
分かってた。
分かっていることだった。
でも、現実をまじまじと見せつけられるたびに、頭が割れるように痛くなる。
そんなとき、不意に別の店員がこちらに向かって声を出した。
「黒瀬さん、どうかしたの?」
親しげな態度で声をかけてきた彼女は、私たちのことを気にも止めない。
どうやら、店員の様子を見にきたらしい。
「……ごめん真尋、仕事、戻らないと」
柊くんから離れる店員を見て、少しだけ心が休まるのを感じた。でも、締め付けられたような痛みはずっと残って、離れない。
「じゃあ、真尋。明日、学校で会おうね」
「はい、……またいつもの場所で」
そう言うと、店員は店の奥に消えていく。
その姿をチラチラと目で追う柊くんに対して、思わず声が零れた。
「……今の、誰?」
柊くんがこちらに振り向いて、少し困ったような顔を見せながら、呟く。
「えっと、黒瀬さん。僕たちの一個上の二年生」
「どういう関係? センパイって言ってたのは? 昼休み、あの人と会ってたの? なんで?」
まるで口から溢れ出すように、次々と言葉が紡がれる。
自分でも聞いたことのない、鋭くて、低い声は脳内を何度もこだまし、耳に残り続ける。
「……あはは、多いって。んー、ちょっと色々あって仲良くなっただけだよ。それだけ」
――柊くんは、なにか隠している。
そのことは、知ってたけど。でも、こんなことなら。
……知りたく、なかったよ。
「色々、ってなに」
こんな問い詰めるようなこと、困らせてしまうだけだ。
そうだって、分かってるけど。
でも。止められない。
「あの人は、柊くんの何なの?」
「……ただの友達だよ」
「じゃあ何で、あの人のところに毎日行ってるの?」
「えっと、それは」
「……センパイは、その、特別だから」
……え?
「あっ、いや!? ヘンな意味じゃなくてね!? 一緒にいると安心できるというか、楽というか。それに――」
「 ……センパイ、ほっとくと一人になろうとするから。
だから、一緒に居てあげたいんだ。
「――これでいい? もう。あんまり恥ずかしいこと言わせないでよ」
特別、とくべつ、頭の中を何度もその言葉が反復する。
柊くんの特別、私がなによりもなりたかったもので、……私が一番近い存在と思っていたもの。
でも、そこに私の席はなかった。
……私じゃ、なかった。
身体が冷えていくのを感じる。酷い寒気に襲われて、頭がフラフラするのを感じる。
私は彼の特別になれない。
……でも。
それなのに、彼の顔を見ると、心臓が跳ねて、冷えた身体がまた暖まっていく。
――そのとき、気づいた。
……あぁ、私って。
こんなに、諦めの悪い奴だったんだ。
……カフェを出てからのことはほとんど覚えていない。柊くんとあの店員の子だけが頭をよぎって、何も手につかなかった。
でも、柊くんが私を気にしていたことは覚えている。
重い空気を変えようとして、何度かいつもの調子で話しかけてきたけれど、私は、彼の顔を見れなかった。
「もう、こんな時間だね」
夕暮れ時、隣の柊くんが口を開く。
そして、続けて小さく呟いた。
「……望月さん、あんまり楽しくなかった?」
そんなことは、ない。
可愛い柊くんが見れて楽しかったし、一緒に映画を見たときは柊くんに、私から寄り添うことができて、嬉しかった。
「……楽しかった、よ?」
「じゃあ、何で目合わせてくれないの」
柊くんの語気が少し、強くなる。
目は見たらダメだ。顔なんて見たら、今心に抑えているものが、全部出ていってしまう。
「こっち、見てよ」
そのとき、柊くんの両手が頬に当てられて、顔が上に向けられる。
……柊くんの目元は少しだけ、赤くなっていた。
その顔は不安に満ち溢れていて、声も途切れ途切れで少し震えている。
彼の顔を見た途端、身体中から色んな感情が暴れ出す。
気づいたら彼の目の前にいた。
「……柊くん」
「なに、望月さ――」
抑えきれない想いが、爆発して、身体が勝手に動き出す。
彼の身体を抱きしめて、ぎゅっと、身体を密着させる。
「……え」
「あ、あの、もちづきさん?」
困惑している柊くんの身体を思いっきり、抱きしめる。
私の匂いも、身体も、何もかも、覚えさせるかのように。
それと同時、私の中の感情がポロポロと剥がれ落ちていく。
「……やだよ。柊くん」
「私は、柊くんさえいたらそれでいいの、それ以外、他に何も望まないから……私を一人にしないで、嫌いに、ならないで」
「……もう、寂しいのはいやだよ」
お母さんが変わってしまってからずっと。
あの日、夜道をうずくまって、電柱の影で泣きながら、通り過ぎて行く人を見ていたあの時も。
ずっと、寂しかった。
でも、柊くんと会ってからはいつの間にか、寂しさは消えていた。
「もち、づきさんっ、いたい、から」
柊くんの顔が少し歪んで、咄嗟に力を抜いてしまう。
でも、彼の身体を離すことはできない。
離したら、もう二度と、近づけないって思ったから。
「いや、だよ。柊くん。
私を、置いていかないで」
見苦しくて、諦めの悪い言葉の羅列。
それを聞いた柊くんが口を開こうとする。
あぁ、やだよ、柊くん。
聞きたくない。拒絶されたくない。
「――そんなことしないから」
……でも、返ってきた言葉は私が思っていたものと違っていた。
「ほんと、に?」
聞こえた言葉が信じられなくて、思わず聞き返してしまう。
それと同時に、柊くんが話し始める。
「――あのさ、望月さん。
僕が好きじゃない人と一緒に出かけるように見える?」
……えっ?
「望月さんのこと、僕は好きだし、嫌いになるとか。そんなこと、考えたこともないよ。
……分かった? 望月さん」
瞬間、彼の言葉が頭の中を駆け巡る。
たった二文字、発することはできても、聞くことはできないって、そう思っていた言葉。
その言葉の真意がわからなくて、考えることもせずに声を吐き出す。
「す、好きって? どういう、こと?」
「えっ?」
「そ、の。友達として、か。それとも……」
柊くんは少し、考えるような素振りをすると。
「……んー、えっとね」
そう言って、いつもの悪い笑みを浮かべた後に――
「――秘密」
一言だけ、呟いてから。
私の背中をそっとさすった。
……さっきまで、諦めないといけないって、そう思ってたはずなのに。
こんなことされたら、もうダメだ。
ねぇ、柊くん。
私、今だったら諦められるよ。ずっと、引きずって生きていくかもしれないけど、でも、今なら、きっと。
……そんな事を思ったときだった。
不意に、柊くんが口を開く。
「ね、望月さん」
耳元に、彼の吐息がかかって、全身がビクッと震え上がる。
「いつまで抱きしめてるの?」
「……へっ?」
それは、あの日も言われた言葉。でも、今回は自分からやっていることで……。
少しずつ、頭が冷えてくる。
それと同時に自分がやっていることの恐ろしさを理解してきて――
彼の服を掴んでいた手はぶるぶると震えながら床に落ちた。
解放された柊くんはゆっくりと足を動かしながら、こちらへ近づいてくる。
そして、私の肩を両手で掴み、首元に口元を密着しそうになるまで近づけてから。
「――望月さんの、えっち」
一言だけ、呟いた。
その瞬間、私の中で何かが動いた気がした。
取り返しのつかないような、何かが。
――あぁ、どうしよう柊くん。
私、もう諦められないや。




