8話
水曜日、私は街で一番大きなショッピングモールに居た。
子供の頃、よく母親に連れてきてもらった場所にも関わらず、今日はまるで初めて来たかのように感じる。
……柊くんはまだ来ていない。当然だ、待ち合わせの時間まであと30分あるのだ。
数分に一度、スマホを鏡代わりにして服装を確認する。
服は水瀬に選んでもらった。柊くんの趣味に合うやつ、とリクエストしたけど「知らないってば」と突っぱねられた。
……ちょっと派手すぎる気がする。素肌がチラチラと見えるこの服は、柊くんにはしたなく思われそうで仕方ない。
そう思っていると、「なのちゃん、そこがいいんだよ」と頭の中で囁かれた。
……うるさいな。
こんな私の姿は、側から見ると随分滑稽なんだろうけど、人の目なんて気にならないほど、私の頭は限界だったので問題はない。
前までは、こんなにはしゃぐことはなかった。
……柊くんと会ってから、自分が変わっていくのを感じる。それが良いことか悪いことかは分からないけど、でも、前より笑うことは増えた気がする。
――私は柊くんのことが好きだ。
これは、もう認めるしかない。
クラスメイトとか、友達とか。そういうのでは満足できない、私にとって彼は特別だし、……彼からも特別な存在でありたい。
でも、そんなことを柊くんに伝えたとしても。きっと、いつもみたいにニコッと笑って、逃げられてしまうのだろう。
……ずるい。あんだけ煽るようなことを言いながら、いざ押してみると、すっと逃げていくのだ。
だから、今日は本気でいく。立派にエスコートして、彼に私を意識させる。
……私には一つだけ自信がある。
今、柊くんと一番仲の良い相手は私だ。
自惚れだって、笑われてしまうかもしれないけど。でも、これは間違いないと思う。
学校では誰よりもよく話すし、頼ってもらえることだって一番多い。
そしてなにより、話すたびに、何度もからかってくることだ。
それはある程度私に気を許していることの証拠と考えていいだろう。
――だからこそ、チャンスだ。柊くんにとって一番であるうちに、彼の特別になるんだ。
「――あ、いた」
そのとき、後ろから声が聞こえた。
――柊くんの声だ。
即座に振り向いた私はすかさず彼に笑いかけようとした。
でも、彼の姿を見た瞬間――
まるで、天地がひっくり返るような、そんな感覚に襲われる。
目の前に居たのは、間違いなく柊くんだった。
でも、その服装は私の知っている彼の物とはまったく違う。
ヒラヒラとした白いワンピース。涼しげにさらけだされた、色白な肩と脚は、私の目を引いて離さなかった。
見間違いかと思い、目をゴシゴシと擦る。でも、目の前の光景は何度見ても変わらない。
……ひいらぎ、くん?
「それじゃ、いこっか」
そんな私を無視するかのように、柊くんは私の手を握る。
いつもだったら顔を真っ赤にしてただろうけど、彼の服装が気になって、それどころではなかった。
「ちょ、ちょっと待って! あの、色々と整理できてないから!」
「流れで押し切ろうと思ったのに」
そんな風にため息を吐いた彼の姿はどうみても、男の子には見えなくて、でも、華奢な首元と鎖骨周りには少しだけ男の子の名残りがあって
――めちゃくちゃ可愛い。
……あ、やばいこれ。頭の中がエラーを起こしたみたいに、熱くなっている。
そのせいで、変なことばっかり頭の中に浮かんできて、うち一つが口からこぼれ落ちる。
「……女の子だったの?」
「む、バカにしてる?」
そういうつもりはないけど、でも。
ムスッとしながら、上目遣いでこちらを見つめる彼の姿は、私の感情を強く揺さぶる。
そんな彼から目を離せずにいると、不意に声が聞こえる。
「……あんまじろじろ見ないでよ」
その声はいつもと違って少し弱々しくて、羞恥心に溢れたか細い声だった。
心臓がドクドクとなる。柊くんのこんな顔は見たことがない。
あぁ、どうしよう。……この感情は違う、恋愛感情とかそういうのじゃない。
もっと汚くて、醜悪で、知られてしまえば、軽蔑される、そんな感情。
いわば、劣情とでも言うのだろうか。
そう思ったときだった。
いつの間にか、柊くんは私の目の前に立っていた。
その顔はいつもの柊くんがしている悪い顔。さっきまで羞恥に溢れた顔はどこに行ったのか、こっちが弱ってると分かった途端に、反撃に来る。
柊くんは、まるで、私の全てを見透かすような、そんな瞳で見つめながら、小さく囁く。
「えっち」
頭の中の理性が弾け飛び、目の前が真っ白になっていく。
そのまま腰を抜かした私の身体は、床に向かって崩れ落ちた。
「あー、もう。はい、いくよっ! もうすぐ上映時間だからね!」
「……はい。すみません」
数分後、正気を取り戻した私はモール内のソファに転がされていた。
目の前には、相変わらずワンピース姿の柊くんがいて、すごくえっち――
……さっさと正気に戻れ、私。
そうだ、映画だ。見に行こうって昨日約束したんだった。
それを思い出した私はなんとかソファから立ち上がって、彼の隣に立つ。
柊くんと私はほとんど背が変わらない。だから、隣を歩いていると、外気に晒された彼の肩がよく見える。
……それにしても、何で柊くんはこんな格好なんだろう。
「男だと目立つからって、母さんが無理やり着せただけだから」
そんな私の疑問に答えるかのように、柊くんが口を開いた。
案外、納得のいく理由だった。平日とはいえ、人も多い、男の子がいれば心底目立つだろう。
むしろ、そこに気が回らなかったのは自分の失態に思える。
……でも、おかげでこの姿の柊くんを見れたとなると、お母さんには感謝しないといけない。
「に、似合ってるよ?」
「……煽られてる?」
「いやいや、本心だから! 柊くん、めちゃくちゃ可愛いから!」
複雑そうな顔をする柊くんを見ていると、またダメな感情が湧きそうになったので、適当に話を振って誤魔化す。
「そういえばさ、柊くんって呼んじゃうと。その、バレちゃわない? 男の子だってこと」
「えっ? ……んー、そうなのかな?」
そんな話をしているとき、私に一つ良い考えが浮かんだ。
彼の、特別になるための方法。
少しのことかもしれないけど、一歩ずつ、前に進めて行くために。
そう思った私は大袈裟に声を張り上げる。
「バ、バレたら大変じゃん! 平日とはいえ、人も結構来てるし」
「――だから、さ。その呼び方を変えた方がいいんじゃないかなって」
柊くんは少し疑問に思っているようだが、私の仰々しい態度に気圧されたのか、小さく呟く。
「……なんか釈然としないけど。ま、いいや。
じゃ、柊ちゃんで――」
「真尋」
「真尋ちゃん、て呼んでいいかな?」
これが私の狙いだった。
クラスで彼を下の名前で呼ぶような子はいない。
水瀬のようなタイプの子ですら、あだ名だったり、苗字だったりで呼んでいるとこを見ると、名前呼びのハードルというのは非常に高い。
……この提案はあくまで一時的なものだ。今日が終われば、きっとまた"柊くん"に戻ってしまうけれど、でもそれでいい。
一時的でも意識をしてもらえれば、きっと意味はある。
「ん、じゃあそれで」
「うん。……よろしく、真尋ちゃん」
きっといつか、真尋くん。
いや、真尋って呼ぶことができる日が来たら、いいな。
そんなことを思いながら私は彼の隣を歩いた。
映画館に来た私たちは暗闇の中、隣の席に座る。平日ということもあって人はほとんどいない。
上映が始まるまでの間、私たちは少し話すことにした。
「柊く――、真尋ちゃんはこういうのよく見るの?」
見る映画は柊くんに任せていたけど、どうやらホラー映画らしい。
私はあまり見ないけど、でも柊くんが楽しめるのならそれで良かった。
「いや? ほとんど見たことないけど?」
え?
「これ、結構怖そうだけど……大丈夫?」
「なに? 望月さん、怖気付いたの?」
……もしかして、柊くん。私が怖がると思って選んだの?
いつもの顔でニヤつく柊くんは、服装も相まって、少し幼く見える。
「……いや、私は大丈夫だけど」
「えー、ほんとかな」
そう言って、柊くんの手が私と触れ合う。ドキッとして、目が合うと同時に映画の上映が始まった。
……柊くんには悪いけど、私は昔からこういう子供騙しには強い。
悪い子にはお化けがやってくる、なんて言う母親に対して、「会いたいっ!」って言って逆に困らせていたくらいだ。
映画自体もそこまでクオリティは高くないし、急に音が鳴ったりして、びっくりはすることはあっても、怖いという感じはなかった。
柊くんは楽しめてるかな。
そう思って隣を振り向く。
「……真尋ちゃん?」
「ひゃっ!?」
「え、いやっ、怖がってるんじゃないよ? ただ、大きい音が苦手なだけで――」
……そこにいたのは、足をバタバタと動かしながら、顔に手を当てる柊くんだった。
――めちゃくちゃビビってる。
柊くんのこういう姿を見るのは新鮮だ。いつもやられてばっかりだけど、こういうちょっと抜けてるとこがあるのも、いじらしくて……可愛い。
その時、一際大きな音が画面の向こうから鳴る。どうやら、謎の怪物らしきものとのカーチェイスのようだ。
後ろから追いかけてくる怪物に対して、助手席のヒロインが安っぽい演出と共に何発かの銃弾を頭に撃ち込む。
それと同時、そこに向かってトラックを走らせた主人公は――
「……う」
「大丈夫? 具合とか悪い?」
柊くんの顔色が悪い。怖がっているというよりも、怯えている感じがする。
――そういえば、初めて会った時もこういうことがあった。
あの時も柊くんは怯えていた。確かトラックの音に反応して……。
私にできることを考える。
……でも、結局思いついたのは、誰にでも考えられるようか単純なことだけだった。
もたれかかっている彼の両耳に向かって腕を伸ばして手のひらを当てる。
「……ごめん、これでいいか分からないけど」
柊くんに、こちらから触るのは初めてだった。拒絶されないって分かってても、少し怖く感じる。
柊くんの体温は冷たかった。
でも、しばらくすると、私の熱が移ったのか、ゆっくりと暖かみを帯びて行く。
それと一緒に、彼の顔も少しずつ穏やかなものになっていった。
「――ありがと」
そう一言だけ告げた彼の笑みは、少しだけ、いつも違うように見えた。
「……面白かった?」
「うん。最後、怪物が人間どものトラックに轢かれるシーンは涙なしでは見られなかったね」
「そういう映画だっけ?」
映画館を出た私たちは、モールの中を少し散策していた。
正直映画の内容はほとんど覚えてないけど、でも柊くんは楽しめたようで良かった。
……でも、私の心には彼の怯えた表情がずっと残っていた
「ちょっと休憩しよっか?」
近くにカフェの看板を見つけて、声をかける。少し休んだ方がいいだろう。
柊くんも頷いて、二人で向かい合って、カフェの席についた。
「あ、望月さん。ここ、ケーキが美味しいんだって」
ふと、柊くんがメニューを見ながら言う。
「望月さん、ケーキ好きだったよね?」
「……なんで分かるの?」
「いや、最初会ったときに言ってたじゃん」
……覚えてて、くれたんだ。
心がどんどん熱くなっていく。抑えきれない想いを吐き出しそうになりながら、私は平常を保とうと声を出す。
「じゃあ、私、これで」
「ん、僕も同じやつでいいや」
そう言って、柊くんが注文ベルを鳴らすと、すぐに近くの店員がやってくる。
黒いエプロンを身につけた店員は私たちと同じくらいの年齢に見える。無表情を保ったまま伝票を取り出した彼女は一瞬だけ柊くんの方を見てから。
驚いたように、呟く。
「……真尋?」
「え?」
……何で、店員が柊くんの名前を。
「センパイ!?」
その時、柊くんが声を上げた。
少しの警戒もない、気の抜けた声。私が聞いたことのない声。
静寂が流れて、時が止まる。
私は、動けなかった。
センパイ、と呼ばれた店員の女が柊くんに近づく。そして彼の肩にそっと指を触れて
「……真尋、可愛い」
と、耳元で囁いた。
瞬間、暖かい匂いがする。
嗅いだことのある匂い。
柊くんが昼休み、教室に帰ってくるといつも漂わせている、乾いた匂い。
……そのとき、私の中の何かが壊れるような、そんな音がした。




