4話
「おはよ。お兄ちゃん」
月曜日、重い瞼を擦りながら部屋から出ると、葵が立っていた。
起きてから声をかけたわけでもないのに、当たり前のようにそこにいる妹の存在は、僕の寝ぼけたの頭を覚ますには十分だった。
「おはよう、葵。……ところで何で僕が起きたって分かったの?」
「今日から学校だよね、お兄ちゃん」
質問に答えなさい。
……まぁ、いいか。うん、いつものことだ。
あまり深く考えすぎると怖い結論に至りそうなのでやめよう。
「うん、でも……さすがに眠いな」
「母さんは?」
「もう仕事だって。お兄ちゃんの制服姿見れないで残念がってたよ」
「だから」と言った葵はポケットからスマホを取り出してパシャパシャと撮り出す。
どうやら後で母親に送るらしい。止めても無駄なのでほっといて、着替えを取り出す。
「あの、葵。僕着替えるんだけど」
「うん」
「いや、うんじゃなくて。一旦出て行こうか? ねえ、なんでスマホ構えてるの?」
言っても聞かない葵の身体を持ち上げ、ドアの前に座らせる。
やはり危険だ。
「バイバイ、お兄ちゃん。また会う日まで」
「はいはい。十六時には帰るからね」
玄関で見送る妹に手を振りながらドアを開く。
「……久々の太陽」
外に出てすぐ、眩い光に当てられて目を閉じる。この身体だと数ヶ月ぶりの太陽のはずだ。
朝の通勤、通学のこの時間は人通りもそこそこ多い。
そのせいか、少し視線を感じる。……多分、男だから物珍しさに見られてるんだろうな。
注目を浴びるのは苦手だ。昔からずっとそうで、複数人の人に見られたり、囲まれたりするのはどうにも落ち着かない。
……はやく行こう。
視線を避けるように、駆け足で歩く。教科書が詰まったカバンは重たくて、身体が揺れる度にガタガタと中が動くのを感じる。
――そんなことをしてたせいか。
不意にバランスを崩した僕は足がもつれさせて、身体ごと、歩道のコンクリートに向かって倒れこんだ。
まずい、と咄嗟に腕を前に出して、なんとか頭を守ることはできたが。
「……いたい」
擦りむいた膝からは血が流れて、ヒリヒリと痛むのを感じる。
ちょっと痛いけど、歩けない程ではない。
そう思って立ちあがろうとしたとき、隣の道路からの重い走行音が耳に入り、思わず膝が落ちる。
……相変わらず嫌な音だ。こうなるくらいなら、道路の横は通らない方が良いかもしれない。
少し、息が荒い。落ち着くまで動けなさそうだ。傷の痛みと胸の動悸に耐えながら、地面に手をつく。
登校初日でこれとは、先が思いやられるな。
そう思って、顔を下に向けたときだった。
「――キミ、大丈夫!?」
ふと、声が聞こえた。驚いて顔を上げると、そこにいたのは制服姿の女子生徒だった。
心配そうにこちら見つめる彼女を眺めて、まず目に入るのは着崩した制服、それは僕の通っている学校のものと同じ物だ。
「怪我してる……すぐ戻るから待ってて!」
そう言うと、彼女は背負っていたカバンを置いてどこかに駆け出した。彼女の声は真剣で、少し安心を覚える自分がいた。
数分もしないうちに息を切らして戻ってきた彼女の手には一本のペットボトルが握られている。天然水と書かれたラベルはここら辺の自販機でよく見かけるものだ。
「……少し沁みるから痛かったら言ってね?」
彼女の手に握られたペットボトル、そこからぼたぼたと水が流れ落ちて、傷口に当たる。傷自体はあまり深くないようで痛みはほとんどなかった。
その間ずっと、彼女は左手を僕の肩に添えていた。彼女の手の体温で、胸の動悸が少しずつ収まっていくのを感じる。
そのまま彼女に身を委ねていると、いつの間にか、傷口には大きな絆創膏が貼られていた。試しに足を動かしてみる。うん、問題なさそう。
……助かった。正直あのまま学校に向かうのはかなりしんどいと思ってたところだ。
「……えっと、ありがとうございます。すいません、迷惑かけて」
頭を下げてそう言うと、彼女は首を横に振りながら答える。
「いやいや、全然迷惑とかじゃないよ! それより足の方は平気?」
「うん、全然平気。ほんとにありがとう、えっと――」
足はもう大丈夫だ。絆創膏なんて貼ったのは久しぶりだが、傷が見えなくなるだけで随分と気が楽になる気がする。
そんなことより、彼女のことだ。まずは名前から――。
「水瀬紗月。呼び方はなんでもオーケーですよ?」
そう言って僕の考えを見透かしたように、水瀬さんはニコッと笑った。
その笑みに不覚にもドキッとしてしまう。余裕がある、というのだろうか。彼女の態度は少し大人びていて、警戒する暇もない。
そんなとき、水瀬さんが手上げた。
「あー、えーと。ちょっとキミに質問していい?
キミってさ、どっち?」
少しバツの悪そうにそう言った水瀬さん。
ただ、その質問の意図はいまいち分からない。
「……どういう質問?」
思わずこちらが聞き返してしまった。
それを聞いた水瀬さんは少し悩んだ後、まるで決意を固めたかのように僕に目を合わせる。
「……んーと、よし。単刀直入に聞こう!
キミってさ、かっこいい女の子? それとも可愛い男の子?」
……またか。
正直ちょっとショックだ。そこまで男に見えないだろうか僕は。
情けなさに涙が出そうだが、それはさておき。
どうしようか、素直に答えるのも何だかもったいない気がする。
それなら。
「……どっちだと思う?」
こう聞くと、少し困ってくれるだろうか。
「……そうくるか。んー、どうしよ。制服もそっち着てる子も結構多いしなぁ……」
この世界だと男子用制服を女子生徒が着るのは一般的になっているらしい。
男装文化が発展しているということなのだろうか。とにかく、制服だけでは性別を判断することはできない。
水瀬さんはしばらく考えた後、両手を上げた。
「……降参。正直分かんないや」
「それはそれでショックだな……ま、いいや、えっと僕は柊真尋。べつに僕っ娘ってわけじゃないからね?」
「……ほんとに男の子なんだ。真尋、まひろ、マヒロ。うん、よろしくね、ヒロっち」
距離の詰め方が凄い。出会って十数分であだ名呼びとは。
……それにしても、こういう子もいるんだな。根っからの陽というか、光属性というか。男であるとか関係なしにグイグイ来てくれるのは話しやすくて良い。
「ヒロっちってさ、西校で合ってるよね?」
「うん、まともに通い始めたのは今日からだけど」
「そっかぁ。……ね、一緒に学校まで行こうよ。足の怪我も心配だしさ」
特に断る理由もない。ということで、彼女と一緒に学校まで向かった。
「……え、ヒロっち同クラなの! マジで!?」
「そういえば空いてる席あった気がする。あれってヒロっちの席だったんだ!?」
道すがら、水瀬さんと話す。どうやら僕らは同じクラスらしい。
となると、同じクラス繋がりで聞きたいことがあった。
「あ、そうだ。うちのクラスに望月さんって人いる?」
「なのちゃんのこと?」
なのちゃん……?
あ、そうか。望月菜乃花。下の名前を取って、なのちゃんか。なのちゃんという感じは全然しない気もするが、そこら辺は水瀬さんの気分なんだろう。
「同じクラス?」
「うん。……えっと、二人ってどういう関係?」
「……そう言われると何だろ。たぶん、友達?」
そんなことを話しているうちに学校に着いた。時計を見ると授業開始まで時間がない。急いだ方が良さそうだ。
「こっちこっち!」
水瀬さんに手を引かれながら教室に向かう。教室の場所は知っているけど、それを伝える時間もない。
教室の扉を水瀬さんが開ける。注目を浴びる中、クラスを見渡して、発見する。
望月さんだ。
私は望月菜乃花。普通の女子高生だ。
学校というのは私にとって落ち着く場所である。そこそこに話せるクラスメイトもいるし、勉強自体も嫌いじゃない。
でも、その平穏を壊すような人は好きじゃない。そう。例えば、こんな風に。
授業開始間近の教室の扉を開けたのは、クラス1の素行不良児、水瀬紗月。
明るく染まった長い髪と短いスカートは何回言っても直してこない。
なんなら「なのちゃんも可愛いんだからやればいいじゃん」とか言ってくる始末。
……ただ、今日はそんな彼女の隣にもう一人の影があった。
クラスでも人気がある彼女の隣、友達の一人や二人いてもおかしくないけど、今日に限っては何故だか少し気になった。
彼女の背に隠れるように、その手を引かれながら入って来たのは……忘れもしない、忘れることなんてできなかった彼。
柊くんだった。
……は?




