12話
柊の顔が近い。
互いの息遣いが鮮明に伝わるほどの距離、思えばここまで彼に近づいたのは初めてだった。
「……みなせ、さん?」
柊はまんまるとした目をこちらに向けながら、語りかける。
その顔は、困惑しているというのが近い。
自分が何をされているのか、よく分かっていないような、そんな顔。
戸惑いと疑問で彩られた彼の表情を見てしまい、私は思わず、彼のネクタイを掴む手を緩ませてしまう。
でも、すぐにまた力を込め直す。
ここまで来てやっぱりなし、というわけにはいかない。
「……言ったでしょ? 犯されたいのって」
私は、彼の身体に手をかける。
震える指先はまるで言うことを聞いてくれないけど、でも彼の肌に触れた途端、その体温が伝わって、徐々に震えは収まっていく。
彼の細い身体に触れるたびにドクドクとした感触が心臓を襲う。
それのせいで、自分が何をすれば良いのかがよく分からなくなりそうだ。
ふと、彼の首に指が触れた。
柊の首筋は、まるで触ったら折れてしまいそうなほどに華奢でひ弱だ。
でも、その中央には微かな出っ張りが存在していて、彼が男の子であることを証明している。
彼の肌は色白で、綺麗で、柔らかくて――
触れていると、こんな状況にも関わらず、徐々に心が安らぐのを感じる。
……これだ。
彼に触れていると、他の人と違う何かを感じる。
ずっと、このままで居たいと感じてしまう。
――なんで、なんだろう。
「水瀬さん、くすぐったいから」
そのとき、柊がいつもより少し高い声を恥ずかしげに漏らした。
まるで、じゃれあっている子供が出すようなあどけない声は、私の本能を刺激する。
狼藉を働いている相手にかけるものとは思えない、甘くて、安心する声。
――こんなの、聞いてたらおかしくなりそうだ。
そう思った私は、彼の顔を覆い隠すようにその口を強引に右手で塞いだ。
……それでも、柊は驚いたような瞳でこちらを見つめるだけで、抵抗しようとはしない。
彼がモゴモゴと何かを言うたびに、その吐息が右手にかかって、嫌でも自分のしていることを意識してしまう。
「……でも、私がやんないと」
もう後には引けない。
これは、柊のためにもやらないといけない。
私は彼の細い首を、残った左手で強引に掴んだ。
……痛い思いは、あんまりさせたくなかったけど。
でも、もうこれくらいしかできることがない。
――だって、これ以上は本当に、
こっちが、おかしくなる。
……口を塞いでるからだろうか。
私が彼の首筋を押さえた瞬間、柊の目が少し怯えた表情になる。
息苦しげに、目を瞑りながら、柊は抵抗しようと腕を動かす。
でも、彼の細い手では私を止めることなんてできない。
私は、少しずつ左手に力を込めていった。
……何だろうこれは。
心臓が、身体中の血液が動き回って、焼けるように全身が熱い。
彼の顔が苦悶に歪むたび、私の中の何かが変わっていくのを感じる。
そんな感覚が怖くて、恐ろしくて、もう後戻りできなくなるような、気がして。
やらないとダメだって、分かってるのに。
私の腕はまるで力がすっぽりと抜けたように落ちた。
……いつの間にか、私の手は柊の肩の上にあった。
酸欠か、少し青白くなっている彼の顔を見ると自分がしたことを思い出して、吐きそうになる。
でも、そのとき。
柊の両手が私の頬に触れた。
安心させるように、私に微笑みかける彼の顔を見ていると
――感情が抑えられない。
忠告とか、警告とか、もうそんなのはどうでもよかった。
ただ今は、この温かい感触に耽っていたい。
それしか、考えられなかった。
私は彼の口元に向かって、顔を近づける。
今の、柊なら。
こういうことをしても許してもらえるって、そう思ったから。
「――はい、そこまで」
……でも柊は、小さな声でそう言ってから、
私の唇に、そっと人差し指を当てた。
瞬間、私の頭は冷静を取り戻す。
……今、私。何しようとしてた?
私は、彼に警告にしに来たはず、だ。
彼が何か酷い目に遭う前に、その思わせぶりな態度をどうにかしようと思って……押し倒した。
ある程度、脅かすことができたら辞めるつもりだった。彼が本気で抵抗したら、すぐに終わらす予定だった。
でも、柊は身体に触れても、心に触れても、全然効かなくて、私の行動に嫌がったり、怖がったりする様子もなくて。
いつの間にか、私の方がおかしくなっていた。
……今、してたのは警告とかじゃない。ただ、感情の昂り、もしくは、暴走。
こんなのは、知らない。
――この感情は、なんて名前なんだろう。
「やっぱり、水瀬さんは優しいね」
思うと同時に、柊の声がした。
それと一緒に。
私の身体からも力が抜けた。
「もう、いいや」
「……終わり?」
「うん、やっぱ私じゃ無理だったみたい」
自由を取り戻した柊は、上目遣いでこちらを見つめる。
まだ、彼の身体の上には乗ってるけど、主導権はもう私にはない。
「……謝って許してもらえることじゃないのは分かってる。けど、本当にごめ――」
「――怖気付いたんだ?」
私が彼に謝罪を口にしようとしたとき。
柊が挑発するような笑みを浮かべながら、いつもの調子でそう言った。
――やっぱ、敵わないな、
「……言っとくけど、忠告は本当だから」
私は俯きがちに呟く。
すると、柊は少し不思議そうな顔をしながら尋ねてきた。
「忠告?」
……ほんとに分かってなかったのかこの子。
まさか、今のもただのじゃれあいとでも思っていたのだろうか。
……もしかすると、悪い子というよりただのアホの子なのかもしれない。
「いつか刺されるよ」
「あはは……怖いこと言うね」
柊は冗談とでも思っているのだろう、軽く苦笑いを見せる。
……冗談なんかじゃないんだけどな。
たぶん、言っても柊には伝わらないだろう。
もし柊が酷い目に遭ったら、それを考えるだけで、心がぐしゃぐしゃに黒ずんでいくのを感じる。
――だったら、せめて。
私は彼と目を合わせ、言葉を紡ぎ出す。
「だからそういうことしたいなら、私にしなよ。
……私はキミのこと、好きになったりしないから」
これで、いい。
私になら、別にああいう態度でも良い。
他の子は本気にして、おかしくなっちゃうだろうけど、……私は、大丈夫。
だって、柊のことを好きになっていないから。
「――ほんとかな?」
そう思ったとき、柊が呟いた。
そして彼は、いつもの悪戯な笑みを浮かべながら――
私の背中に腕を伸ばして、身体を密着させた。
それは、たぶん、抱きつかれたと形容するのが正解なんだろう。
……全然分かってないこの子――
「僕は、水瀬さんのこと――」
背中が熱い、頭も熱いし、心臓は痛い。
彼の言葉が耳に残って出ていかない。あぁ、もう。なんで――
じりじりと、彼の顔が近づいてくる。柊と目が合ったと同時、彼は目を少し伏せるような仕草を見せた。
その目に心が奪われそうになっているうちに……気がつくと彼の顔が私の目の前にあった。
彼の額が私に当たって、次は鼻先が触れて、……それで、次は……。
私は、何かに期待したのか。
そっと、自分の目を閉じた。
――それと同時。
ガタン、とドアを開く音が教室に鳴り響いた。
「――え、なにしてんの二人!?」
入ってきたのは体操着姿の二人の少女たち。タオルで汗を拭きながら教室に足を踏み入れた彼女らは私たちの姿を見て、驚愕の声を上げた。
そして、その後ろには授業終わりであろうクラスメイトが何人も並んでいた。
私は一瞬冷や汗で身体が固まったが、すぐにあることに気づく。
今の状況は、柊が私に抱きついている状況であり、お互いの額を密着させた状態であって、
……これではまるで、柊の方から私に迫っているようだ。
「……あ」
そして、柊の方もそれに気づいたらしい。
「――いやちょっと、これは事情があって」
慌てふためきながら弁解する柊だが、後ろめたさがあるのか、その声は小さい。
柊は慌てて背中に当てた手を離そうとしたが――
私が彼の腕をがっちりと掴んで、それを許さなかった。
同時に、私は人混みの中で彼女と目が合う。
「……なに、やってるの? 水瀬」
キャーキャー騒ぐクラスメイトの中に紛れていたのは望月菜乃花。
その顔はまるで悪夢でも見ているような、青白い顔。
『放っておくと、先越されちゃうかもよ?』
ここに来る前、彼女に言った言葉を思い出す。
――まさか、自分が当事者になるなんて。
私はそっと、彼女から目をそらして、柊に話しかける。
「どうしよっか、ヒロっち?」
少し赤く染まった顔でオロオロと狼狽える彼の顔は、初めて見るもので。
――こういう顔も好きだなって、思ってしまう自分がいた。
……そんな彼の肩を、私はグッとこちらに引き寄せてから、
「言ったじゃん、私も悪い子だって」
耳元で、そっと囁いた。
その言葉を聞いた柊は引き攣った笑みを浮かべて、
「……いじわる」
小さく、そう呟いた。




