11話
静寂に包まれた暗い教室で柊と二人きり。こんなシチュエーション、望月が見たら「泥棒猫」と言って怒り出すに違いない。
柊はまだこちらに気づいていないようだ。
彼は頬杖を突きながら、窓の先にあるグラウンドを見ている。おそらく、私たちの体育の様子でも眺めているのだろう。
それを見た私は、彼の背後からこっそり近づく、そして彼の目元にそっと、手を当てて、
「……だーれだ?」
小さな声で問いかける。
「――わっ、なに?」
慌てた様子の柊の姿は少し幼気で、つい頬が緩むのを感じてしまう。
私の質問を聞いた彼は、ほんの少しだけ考えた素振りを見せた後、すぐにその口を開いた。
「……水瀬さん?」
「せいかいっ! よく分かったね?」
「だって、こういうことしてくるの、水瀬さんしかいないじゃん」
柊はそう言うと、私の顔に向かって指先を伸ばす。
そして、彼の細い人差し指が私の頬をツンと突いて、跳ねた。
――相変わらずこの子は人の心をくすぐるのが上手い。
「ん、まぁそうかもね」
私は冷静を取り繕いながら、彼に柔らかい笑みを見せる。
「何でここに? 忘れ物とか?」
「んー、ただのサボりみたいなもん。
――あと、ヒロっちに会いたかったからかな?」
彼の隣の椅子に腰を下ろしながら、質問に答える。
柊は少し不思議そうにしていたが、「そうなんだ」と一言呟いて、私の顔に目を向けた。
「水瀬さん、意外と悪い子なんだね」
……それ、キミが言う?
思わず苦笑いをしそうになるのを抑え込みながら、私は脅かすように手を上げて、
「……そうそう。私ほどの悪い子、そういないよ?
もしかすると、ヒロっちも取って食われちゃうかもね?」
がおー、と彼に向かって吠えてみせる。
柊は少し驚いた様子を見せたが、すぐに平静を取り戻した。
……そして私の心の中を見透かしたような笑みを浮かべながら、
「――水瀬さん、そんなことできないでしょ」
そう、私に囁いた。
「だって、水瀬さんがすっごく優しい子って僕は知ってるから。
ほら、初めて会った日覚えてる?」
彼の言葉は耳触りが良く、一度聞いたらずっと頭の中に残り続ける。
「僕、どんくさいから道路で転んじゃってさ。それで足も怪我しちゃって」
少し恥ずかしそうに語る彼の姿は、私の心の深いところに隠していた感情を酷く締め付けだす。
ダメだ。聞いちゃダメだ、見ちゃダメだ。
――決意が、鈍る。
でも、そんな私の気持ちは彼には伝わらず、
「――でも水瀬さんのおかげで。
ほら、もうすっかり治っちゃった」
柊は、私に見せつけるように、ズボンの裾を捲り上げて素足を晒け出した。
真っ白で、細い足。
でも、女の子のものとは少しだけ違っていて、見てはいけないものだと、直感的に理解できる。
なのに、私はずっと、目が離せないでいた。
そして、そんな私に対して柊は小さな声で、
「えっち」
そう、呟いた。
それに対して、私は。
……私は。
「……やっぱり、正攻法じゃ敵わないや」
「え?」
素直に降参することにした。
高まった感情を無理やり押さえつけながら、私は喉から声を絞り上げる。
柊はそんな私に少し困惑しているようだ。
……でもね、柊。
悪いけど私は、望月ほど可愛い奴じゃないから。
心臓は熱い、頭もちょっとボーッとしているけど、でも耐えられないほどではない。
だって、当然だ。
私は柊のことが好きになってないんだから。
「じゃあ、今度は馬鹿正直に行かせて貰おっかな」
だからさ、柊。
今度はこっちから行かせて貰うよ。
「――ヒロっちってさ、なのちゃんのことどう思ってるの?」
私は彼に疑問をぶつける。
柊は驚いたような視線をこちらに向けてきたが、私はそれに、真っ直ぐとした視線を送り返す。
「望月さん? えっと、急にどういう質問?」
「ん、そのまんまの意味。なのちゃんと一緒に居て、どう感じてるの?」
少し考える素振りを見せた後、柊は平然な様子で語りかけてくる。
「望月さんは良い子だよ。
いつも僕のことを気にかけてくれてるし、頼ったら、なんでも真剣に手伝ってくれるし」
「――じゃあ、好きなの?」
耳障りの良いことを並べる柊に対して、私は一言だけ返す。
……柊は望月に好きって言ったらしい。
それが彼女の悲しい妄想でもない限り、彼は望月に対して、一定以上の感情を向けているはずだ。
「好きって……なに、恋バナ?」
柊は少しからかった調子で呟く。
相変わらずの笑みで、こちらを見つめてくる彼に対して、思わず鼓動が高まるのを感じる。
……でも、彼の態度は質問に答える気がないという合図だ。
つまり、柊はこの質問から逃げ出そうとしている。
ならば。
「そう。
だから、ちゃんと逃げずに答えて欲しいかな」
柊の顔が少しだけ、固まった。
……こういう子に、一番効くのは下手に恥ずかしがったりせずにまっすぐ伝えることだ。
「なのちゃんのこと、恋愛的にどう思ってるの?」
――そのとき、初めて柊の笑みが崩れた。
彼は、何かを口に出そうとしているけど、途中で言葉に詰まってしまい、形にならない。
そして、そんな時間が過ぎた後。
柊は一言だけ言った。
「……分かんないよ、好きかどうかなんて」
その声には、いつもの軽薄さがなくて、少し震えていて、
たぶん、柊の本音だった。
「――えっ?」
思わず、声を出してしまう。
「望月さんは一緒にいて楽しいって思うけど、でもそれは水瀬さんだって、センパイだって同じで」
そのとき、私は気づく。
……柊は、分かっていると思っていた。
「……恋愛とか、そういうんじゃなくてさ。
ただ、仲良くなりたいだけじゃダメなの?」
望月の気持ちとか、恋愛感情とか、そういうのを全部分かっている上でああいう言動を取っているのかと思っていた。
「……そっか」
でも、違った。
この子はたぶん、人との距離感とかそういうのがよく分かってないんだ。
だから、心の深いところに踏み込まれそうになると、"秘密"とか"内緒"とかそういう言葉で誤魔化す。
そう思うと、少し彼のことが分かってきたような気がする。
……柊と私は似ている。
人を好きになるとか、そこら辺の境界が曖昧で、寄せられている好意にも気づきずらい。
……いや、無意識のうちに気づかないようにしている、のかな。
――だけど、柊は男の子だ。
私とは、違う。
やっぱり、悪い子だよ、キミは。
私はそのまましばらく、彼の隣に座っていた。
何も言わずに座っていた。
時計の針は少しずつ進んでいって、時々それに目をやりながらも私は動かなかった。
私の決意は変わっていない。
……ただ、彼に嫌いになられるのは、もう少し後にしたかった。
それだけだ。
――後十分もすれば、教室にみんなが帰ってくる。
時間がない、意を決して私は柊に声をかけた。
「……髪、長いね。ヒロっち」
話す内容は何でも良かった、適当に糸口さえ掴めればそれでいい。
「あはは、なんか慣れちゃって切ってないや」
「私は似合ってていいと思うよ?」
柊の髪は綺麗だ。
ときどき、耳元の癖っ毛をくるくるといじっている彼の姿は愛らしくて、つい目を奪われてしまう。
「ヒロっちって、本当男の子に見えないよね」
これは、ただの軽口。
でも、こういうことを彼と言い合っている時間は楽しくて、好きだ。
そのとき、柊がいつもの笑みを見せる。
「じゃ、証拠見せてあげよっか?
……二人っきり、だしね」
彼は、自分の制服を摘みながら、私に語りかけた。
もちろん、本気ではないのは分かってるけど、でも彼の方を見てしまう。
そして、それは一瞬。
たぶん柊も気づいていないけど。
彼の白い素肌が少しだけ、見えた。
「――なんてね?」
……ちょっと、まずいな。
身体がゆっくりと熱くなっていく。
同時に頭が沸騰して、まともに物を考えることができなくなりそうな感触に襲われる。
――やっぱりダメだ、この子。
私以外にこんな態度取ったらどうなるか。
考えるだけでゾッとする。
だから、私がやらないといけない。
……今から私のすることは、最低で、下劣で、
彼の心を酷く、傷つけることになる。
『だって、水瀬さんがすっごく優しい子って僕は知ってるから』
……ずるいよ。そんなこと、今言うの。
でも、こうでもしないと。
きっと、この子は分かってくれないだろうから。
「……ダメだよヒロっち。そういうこと、女の子にしたら」
柊の腕を乱暴に掴んで、椅子から引っ張り上げる。
同時に、椅子の脚を思いっきり蹴飛ばして、それに向かって彼の視線が動いた瞬間。
「――こんなことされても、文句言えないよ?」
「……へ?」
教室の床に向かって、無理やり押し倒す。
彼は驚いた顔で、馬乗りになる私の顔を見る。
彼の腰上に跨りながら、襟から飛び出している黒いネクタイを引っ張って、顔を近づける。
これは、警告。
そんな態度ばっかり取ってたら、どうなるのか。
身体に覚えさせるための行動。
もう二度と口を聞いてくれないだろうけど。
――この子のためにも、私がしないといけない。
「ねぇ、柊。いっつもそういう態度取ってるけどさ」
身体が、徐々に熱くなってくる。
人間というのは、実に厄介だ。
……大丈夫。私は、本気になったりしないから。
意を決して、声を上げる。
「……そんなに犯されたいの?」
――その吐息混じりの声が、甘く溶けていることに、私は気づいていなかった。




