板口 霊視捜査官 ―悪臭と水
「いえ、この喫茶店のオーナーは、奥さんを呼ぶとかなんとか」
「何?」
「いや、最近喧嘩したらしくて、おそらく実家に帰っているんですって。流石に自分の店で事件が起きたから、それを伝えにと」
「はぁ、30いくつの夫婦だろ?いい年して……。分かった、容疑者ではないらしいけど、一応場所だけ教えてもらっといて」
「はい。あと、途中で電話さえつながれば、ここに戻ってくると言ってました」
「了解。俺は中入っとくから」
いつだって事件現場には慣れない。
微かに匂う腐敗臭、現場を踏み鳴らす革靴の音。
この夏の暑苦しい時期に、何人もの警官が、ドアの開け放たれた喫茶店を出入りしていた。
店の外は熱かったが、中にいるよりはマシだと思い、カランカランと正面入り口の音を鳴らして外へ出る。
今日の事件現場はトイレだった。
場所は宮良区、都市から少し外れた場所にある古い喫茶店“セピア”の男性用トイレ。
喫茶店の窓にはゴーヤによる緑のカーテンが掛かっていたが、せっかく喫茶店の内側から見えるはずのお富士様は、見事にその葉の裏に隠れていた。
喫茶店の内装は一昔前のシックな喫茶店と言った雰囲気。
普段はコーヒーの香りとジャズの音色が客を包むのだろうが、今喫茶店の中には汗臭いおっさん数人と遺体、そして俺が口をつぐんでいるだけだった。
俺の脳内に、つい先ほど見た遺体が脳内に蘇る。
「はぁ」
一つ解決してはまた一つ、さらにもう一つと無限に増えていく殺人事件に、俺はいつもの如く溜息をついた。
そんなとめどないことを考えていると、中から出て来た鑑識の内一人が自分の元へやってきた。
「板口さん、結果が出ました。どうぞ、五人分の指紋です。それぞれが遺体発見時に喫茶店にいた人物のものと一致しています」
若手刑事はタブレットを俺に手渡し、そのまま現場に戻って行く。
その足取りは軽く、よくそんなに精が出るもんだ。流石若者。と、老人風に思ってみたりもした。
そして俺はそのままタブレットに映った五人の容疑者に目を通した。
皆伏し目がちで、なんとも全員一回ずつ、計五回殺人事件が起きた上で、それぞれの容疑者の写真が並べられているのではないかというような写真が撮られている。
背景から見るに、写真はこの喫茶店で撮られたようで、茶色い、暗い木目の壁紙が、皆の背景に重々しく居座っていた。
容疑者五人は今、喫茶セピアの隣にある大村公民館にいる。
警察の厳重な警備の元、彼等は疑いの目という牢獄の中に捕らわれているのだった。
そしてこれから、俺はこの事件を解決する。
途轍もない恐怖体験と共に。
俺、板口恭二は霊視捜査官である。
今、そこの君、何だそれって思ったでしょう?
でも現に、俺ははっきりと霊視ができる。霊が見えるのだ。
彼等は明確な意思を持って現れ、霊と意思疎通することのできる俺に何かを伝えようとする。
そしてそのメッセージを聞いて、仏様の願いを叶えて、事件も解決。
これが俺の仕事だった。
夕方になり、やっと遺体が片付けられて、警察関係者が皆“セピア”から出て行った後、俺はひとり喫茶店に残った。
被害者は密室且つ、細身な腕での絞殺。
この謎を解決すべく、俺は喫茶店の全ての扉や窓を閉めていった。
最近悪臭がするらしく、換気を良くしているらしいのだが、そんなことはお構いなしに、入り口から順番にそれらを閉める。
緑のカーテンが掛かった窓や、店の裏口にある戸。
勿論手の届かないところにある小窓も閉め、鍵もしっかりと掛けた。
カーテンがある場所はカーテンを閉め、順番に外界との繋がりを絶っていく。
それまで夕日でセピア色に照らされていた喫茶店の壁も、カーテンを閉めれば次々に闇へと飲みこまれていった。
その空虚な闇は喫茶店の中をすべて覆い、闇の中に残ったのは自分の荒い息遣いと、空調の音、そしてかすかに残る腐乱臭だけだった。
全ての準備が終わると、一度店内にある一つの椅子に腰掛け、水分補給に持ってきていた「いろはす」を口に含む。
闇が自分の肌にまとわりついているような感覚がした。
この作業は毎回の霊視に必須だった。
当たり前だが、霊という存在はこの世の存在ではない。
彼等と会うためには、ある特定のひと空間を締め切り、そこを霊界の空気で満たして彼らに来てもらうのだ。
これがまぁまぁ怖い。いつか連れ去られそうでね。
しかし霊視は、霊体への敬意が根底にある。
なんなら余程の悪霊でない限り、こちらに危害を加えることは無いし、そんな体験をしたこともなかった。
所謂、多分安全なお仕事。
少し話が逸れたが、この休憩の後、早速呪文の詠唱を始めた。
呪文とは言え、ファンタジーな魔法の呪文ではない。
“呪術”の呪文であり、その言葉の羅列はどこか古・日本的であり、おどろおどろしい印象なのだ。
「にんけんじみうのよしなしにあらごとまかた…」
喫茶店の中で声が響くこともなく、すぅーっと呪文が闇に吸い込まれていく。
程なくして気味の悪い空気が辺りに漂い始めた。
「……いいただせからて」
一連の言葉を言い終え、不意に喫茶店の中に静寂が訪れる。
俺はゆっくりと目を閉じた。
ここまでの準備を自分の家系では“まねきやみよき”と表現していたのだが、去年で遂にこの名を知るのは自分だけになってしまった。
――そしてここからは、霊の声を聞く時間である。
耳を澄まさないと聞こえない声の時もあれば、ポルターガイスト的なことが起きる事もある。
恐らく霊は、既に近くへと来ているだろう。
……数十分経っただろうか。
外で鳴いていた蝉の声は鳴りを潜め、夜が訪れた。
仄暗い喫茶店の中で、自分の微かな息の音だけが俺の耳に響いている。
エアコンの音も、腐敗臭も、全ては俺の意識の外だった。
降霊するときはいつもそうなのだが、段々と身近に誰かがいる感覚を感じ始める。
恐らくあの世とこの世が近づいているのだろう。
目を閉じた中で誰もいないはずの喫茶店を想像すると、すぐ真隣で俺を見つめる男が立っている。
これが自分の想像なのか、それとも違うのかは分からない。
でもこの背筋の凍るような、不気味な空気が俺をそうさせていた。
丁度何者かの気配を感じ取っている時、トイレの方からカタン、という音が聞こえて来た。
俺はなるほどね、ポルターガイストのタイプね。と内心で頷く。
しかし肝心の霊の気配は俺の真隣にある。
珍しいタイプだな。と思っていると、さらにトイレの方からカタン、カタンと言う音が聞こえてきた。
遂に俺は目を開け、真っ暗闇の中で目を凝らす。
まずは隣に誰かいる。
それがすぐに分かった。
背骨のあたりがむずがゆくなり、心臓を打つ拍動のスピードが速くなっていく。
怖かった。
どれだけ霊を呼んでも、俺はこの瞬間が怖かった。
何故なら、うちの祖父母はどちらも霊にあちらへ連れていかれたからだ。
降霊中ではなかったが、彼等は正規ルートでない行き方であの世へ行った。
そのため、俺もいつかこうなってしまうのでは、と恐れることは日常的にもあった。
俺の隣にある気配が何かを言っている気がする。
いつもそこから霊との交信が始まる。
彼等の声を聞くのだ。
「…。…に、…」
喉を絞められたまま出したような、息苦しい、か細い声が聞こえる。
「…。…に、…た」
なかなか聞こえない声にもっと集中しようとした時、急に喫茶店の中がほんのり明るくなった。
トイレの電気が点灯したからだ。
遠隔操作型のポルターガイストか?と冷静に頭では考えていたが、心の奥底では肝が縮み上がっていた。
これは今まで起きたことのないタイプの霊との交信。
前で灯った電気に気を取られていると、隣にある何者かの存在がより自分に近づいた。
「…はころさr…。…に、…」
聞き取りやすくなったその声に俺は耳を澄ませると、やっと“彼”の声が鮮明に聞こえた。
「……私は誰に殺されたか……分かりません。……トイレにいた時に、上から首を絞められました」
俺は心の中でほっとした。
と同時に、自分の口元が緩むのが分かる。
この霊は自分に危害を及ぼすような存在ではないと分かったからだ。
なんだ、友好的な霊じゃないか。と確信して、早速霊との対話を始めようと犯人についての質問を考え始める。
……が、俺は何かがおかしいことに気づいた。
そこからは喫茶店の中の空気が二度ほど下がったような気がする。
喫茶店のどこかから視線を感じ、蛇に睨まれた蛙の如く、全身が強張った。
トイレで上から首を絞められることがあるか?
そんなアホな話があるかいと最初は思ったが、よくよく考えてみると、明らかにおかしいのだ。
警察が自分に仕事を依頼する早さ、密室で殺された被害者、そして何より暗闇の中、一人でに動くトイレのドア。
俺が狼狽えていると、隣にいる被害者であろう男の霊が先ほどの話に続けて言った。
「……トイレで殺されたとき、匂いがしました。むせかえるような、えずくような程の悪臭が」
それを聞いてさらに背筋が凍る。
これは君の腐敗臭じゃないのか?
「じゃぁ、これは」
と霊に聞こうとした時、トイレのドアがキィと音を立てて半分ほど開いた。
いる。
そこに、いる。
何かが、何者かがそこにいるのだ。
邪悪なものが、こちらの様子を窺いながら這い出して来る気配がする。
その気配が、何よりも気味が悪かった。
自分の想像の範疇を超えた何かが、自分の元へ近づこうとしていることが何よりも気持ち悪かった。
何時しか自分の隣にいたはずの霊の気配が消え、空間内には得体のしれない何かと、自分だけの存在があった。
全身には悪臭がまとわりつき、耳には無機質なエアコンの音だけが流れて来た。
俺は恐る恐る座っていた席を立ち、トイレに一歩、一歩と近づいていく。
そこに居座る“何か”との対話を試みるべく、一歩踏み出すのが俺の仕事だからだ。
後トイレまで三メートルというところまで来たとき、全く以て足が前に進まなくなる。
“それ”と、目が合ったからだ。
トイレのドアにある蝶番と蝶番の隙間からこちらを覗く何かと目が合った。
それは息を潜めてこちらを窺っていた。
暗闇の中唯一照らされたトイレの中で、真っ黒な瞳だけがこちらを向いていた。
「誰だ!!」
俺は恐怖をその声の裏に隠して、威圧的に怒鳴る。
しかし、奴は動こうともしなかった。
痺れを切らして俺がもう一歩踏み出そうとした時、その目は煌々としたトイレの奥へ消えて行った。
胸に手を当て、ほっと安心する自分。
まぁ、いざとなれば、ジャケットの内ポケットに忍ばせたお札がある。
これを“まねきやみよき”中に掲げれば、霊には光り輝いて見えるらしいのだ。
彼らは光を本能的に嫌う。
つまりは、獣にとっての火、霊にとっての光。といったところだろう。
そして、満を持してそのお札を取り出そうとした瞬間、俺は重要なことを思い出した。
何故忘れていたのかも分からない――最も重要で、最も根本的なことを。
その時、トイレの前で立ち尽くす俺の正面から、甲高い音が聞こえてきた。
それは、鉄琴を叩く音の様な、細い水滴の音。
夏だというのに、その暑さに似合わぬ涼しい音だった。
ぴちょん
ぴちょん
ぴちょん
ぴちょん
「あぁあ」
ぴちょん
我ながら、情けない声が出た。
実際に手や生首が現れたというわけではないが、あの湿ったような、ぞわぞわと響く音に、反射的に嘔吐感が込み上げたのだ。
ぴちょん
“まねきやみよき”は、「招キ闇ヲ来」と漢字で書くらしい。
ぴちょん
それはなぜか、霊は闇の中でしか人間と交信しないからだ。
ぴちょん
特に、“まねきやみよき”中、彼らが明かりを点けることは絶対にない。
ごく稀に明るい場所で彼らに出くわすことがあるらしいが、そのどれも、自分では明かりを点けていないはずだ。
ぴちょん
じゃぁ、これは何だ。
ぴちょん
ぴちょん
何なんだ!
気色悪い。怖い。心細い。気分が悪い。
そう何度も思考を巡らせながらも、俺は分かっていた。
その存在が、“生きた人間であること”を。
ぴちょん
「うわぁああああああああ」
俺は大声を上げながら、トイレのドアを開け放った。
ぴちょん
ぴちょん
だが、そこには誰もいなかった。
ただ、ぽっかりと口を開けた便器の中へ、天井から一滴ずつ、赤茶色く濁った水が落ちているだけ。
でも、どこに何がいるのかはもう明らかだった。
俺は天井を見上げた。
そこには、マンションの二階と、喫茶店の一階との間にわずかに開いた、狭く暗い隙間が続いていた。
その隙間は、まるで人を誘うように奥深く伸びていて、何かが蠢いているようにも見える。
水音はそこから漏れていた。
ぴちょん
ぴちょん
俺は息を呑んだ。
ただの排水管でも、天井の断熱材でもない。
この空間には“何か”が潜んでいる。
俺は、そこから先には進めなかった。
直ぐに喫茶店を出て、店を締め切り、電話で若手刑事に報告した。
彼は軽く「本当ですか!」とだけ答えると、すぐに応援をこちらへとよこした。
そして数十分後、屈強な警官二人に拘束されて出て来たのは、がりがりにやせ細った気味の悪い、汚らしい男だった。
身元不明、何時から天井の隙間にいたのかも分からない。
こうして、霊視捜査官板口恭二の推理ショーは幕を閉じた。
少しでも被害者達が報われればと思うが、やはり、二度と霊と交信なんてしたくないとも思った。
いや、そんなこと言ってては食っていけない。
そして今回、身に染みて分かったことだが、霊も、人間も、どちらも気味が悪い。
何を考えているか、何をするのか分からない気持ち悪さがあるから。
それと、ついさきほど“被害者達”と言ったが、トイレで殺されたのは一人ではなかった。
天井裏から、小さなナイフで小分けにされ、無数に噛み跡の付いた肉片となった、オーナーの奥さんが見つかったらしい。
夜の喫茶店に漂っていた悪臭や、天井から流れてきた濁った水滴は、彼女から出ていたものだったそうだ。
P.S. トイレ、気を付けてくださいね。