Episode.10 ナイトメアは終わらない
頭がまだ八割方寝ている状態で、もそもそと機械的にパンを千切っては口に入れ、千切っては口に入れて咀嚼を繰り返す。今朝の朝食は、定番の白い小麦パンに、チーズ、新鮮なミルク、ハム、ソーセージ、イチジクのドライフルーツがテーブルに並んでいた。
貴族にしては質素な内容にも思えるが、普通はこんなもんらしい。そもそも平民は硬いライ麦パンか、黒パンとやらが主食だと聞いている。そんな事情は知ったことではないが、白いパンはかなり高価な贅沢品らしい。クロウリー家に仕える使用人も皆黒パンを食している。
「リナ、ヨダレが出てますことよ」
「ハッ、すみません。白パンが美味しそうでつい」
おかわりの水を入れに隣に立っていたリナが、物欲しそうな目でテーブルの上を見ていたので忠告をした。パンより断然米派なワシとしては、口の中の水分が持っていかれるパンの食感がたまらなく苦手だ。しかもこの世界のパンは上質なものでもハードパン並みに硬く、いい加減顎が疲れてくるので、余計に白米が恋しくなってくる。
「レディアナ、体調のほうはどうだい?」
「すこぶる快調ですわ。屋敷にいるのが退屈なくらいですもの」
「そうか、レディアナになにもなくて良かったよ。なあ、セバスチャン」
「本当でございますね。お嬢様に万が一のことがありましたら悔やんでも悔やみきれません」
噛み砕いたパンを水で流し込むと、正面に座るルーベンスに尋ねられた。あの夜に起きた騒動から一週間が経とうとしているが、逃亡中のイザベルが捕まったという報告は今のところワシのもとには届いていない。
レディアナが使用人に襲われるという驚天動地の大事件に、家長であるルーベンスをはじめ、セバスチャンもショックを隠せずにいた。信頼していた侍女長の正体が、まさかクロウリー家の一人娘を害しようとしていた殺し屋だと聞かされれば、誰だって具合の一つや二つは悪くなってもおかしくはない。
一人で何役もこなしていた有能な使用人が、突如抜けたことで通常業務に大きく支障がででいたみたいだが、残された者たちが協力し合いながら仕事にあたっている。変化の兆しが見えるのは使用人のみにあらず――ワシにも良い兆候がみられていた。
最も危険視してきたイザベルが姿を消したことで、バッドエンドを迎える確率がぐっと減ったいたのだ。幸いにもこの一週間は始めて誰にも殺されずに平穏な生活を送ることが出来ている。少しずつゲームのコツというか、〝ヘイト〟を集めないロールプレイを覚えて自信もつき始めていた。
元々レディアナは絶世の美女と言って差し支えない美貌の持ち主である。リナとの特訓でだいぶ使いこなせるようになった〝お嬢様言葉〟と〝笑顔〟をフル活用して、言われたとおりにお淑やかな令嬢を演じるだけで使用人たちの目はわかりやすく変化した。
すれ違う侍女に軽く微笑みかけて挨拶するだけで、これまでワシを憎んでいた相手が、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で目を見開いているのは少し愉快だった。メイドたちの間でもある、ワシの評価が上向いているとリナから聞いている。
同じ屋根の下で生活していると言っても、レディアナはこれまで使用人を人間以下に見ていたので、セバスチャン以外に自分から話しかける相手はほぼいなかった。それが気さくに話しかけるようになれば、自ずと好感度も上がるというわけである。
「しかし、随分とお行儀良くなったね。最近は元気が良すぎたせいか、少し物足りなさもあるが怪我をする以前より雰囲気が柔らかくなったようにみえるよ」
「わたくし、心を入れ替えたのです。これまで散々屋敷で働く皆さまに迷惑をかけてきたので、その分のお詫びとこれまでの感謝を伝えていければいいなと」
ルーベンスは感慨深そうに、うんうんと目を瞑りながら頷いている。愛娘が大人しくなったことに素直に喜んでいるようだ。セバスチャンに至っては感涙にむせび泣き、ハンカチで目頭を押さえている有様だった。
「なんと……お嬢様も大人になられたのでございますね。爺は大変嬉しゅうございます。亡きマリア様もお喜びになられますよ」
「セバスチャンよ、そこで妻の名を出すのではない。私まで泣けてくるだろうが……。ああ、マリアが生きていればなんというだろうか」
「もう、二人とも朝から湿っぽいですわよ。せっかくの料理が冷めてしまう前に食べましょう」
我ながら演技の才能があるのではと思い始めていた。今も抵抗はあるが、令嬢の真似事もすんなりうまく行っている。誰一人として怪しむ者はいない。口から出てくる言葉は全て嘘だというのに――。
「怪我の予後も問題なさそうだし、今のレディアナなら問題なかろう。実は話したいことがあるんだが、聴いてくれるかい?」
「話、でございますか?」
ソーセージを噛み千切るとセバスチャンが話を継いだ。
「まだお嬢様は目覚められて時間が浅いため、屋敷にて休養中ではございますが、本来は晩餐会や舞踏会に積極的に出席していただかねばなりません」
「は? 舞踏会? 晩餐会?」
「それにお怪我の影響で休学中ではございますが、学校にも復学する必要がございます。全てはクローリー家の発展のために、人脈を広げるのも嬢様の立派な勤めでありますので」
「ちょっと待て。晩餐会に舞踏会に学校? なんだそれ、おいリナ、今の話は本当なのか?」
突然頭の中に雪崩込んできた情報量の多さに、目眩がして口調ももとに戻ってしまった。ただでさえ難儀している礼儀作法にプラスして、ワシに男相手に踊れというのか? それに勉強なんて実質小5でリタイアしてるようなものなのに、いまさら学生のフリして学校に通えとワシに言うのか……。
首を物凄い速度で曲げる。リナを睨みつけると明後日の方角を向いて口笛を吹いていた。コイツ……ワシに伝えるのを完全にに忘れやがっていたな。
「リナ、ちょっといいかしら。ちょっと席を外しますわ」
静かに席を立つと、喚きながら離せと訴えるリナの襟首を掴んで大広間の外に連れ出した。誰も使っていない空き部屋に押し入れると、いわゆる〝壁ドン〟の姿勢で逃げ場をなくして睨めつける。
「おかしいよなぁ。こんな大事な話があるなら真っ先にワシに教えておくべきだろうが」
「お怒りなのはごもっともでございます! 全部わたしのせいです! イザベルさんの件でてんやわんやで、剛田さんに先のストーリーについて話すのをすっかり忘れてました!」
確かにイザベルの件は、ワシとリナにとって別の意味で衝撃を与えていた。ゲームのなかではイザベルが殺し屋だったという設定はどこにも語られていない。数百時間を費やしたと豪語するリナですら知らなかった情報である。ワシの命を狙うものが存在する――黒幕が誰かはイザベルから聞き出すことはできなかっただが、執拗に命を狙われる原因は判明した。
「一応聞くが、まさか屋敷の外でも命を狙われたりしないよな?」
「えっと、その、気を落とさないでほしいんですけど……外でも普通に死にます。なんなら外部の人間と接触する機会が多いので、死ぬ確率は高まります」
「お前、それは一番最初に伝えておくべき重要事項だろうが!」
「ほんとごめんなさい! 最初に伝えておくべきでした! 実はこのゲーム、基本的に先に進めば進むほど死にやすいです。というか死ぬこと前提で作られてます」
リナが吐いた言葉に全身から力が抜け落ちた。これまで張り詰めていた緊張の糸がプツリと音をたてて切れた気がした。嘘だろ、一番厄介なカタリナを追い払うことに成功して、苦労して死なずに済むようになったと思ったら、今度は今まで以上に辛い思いが待ってるというのか?
この世に神がいるとしたら、心底性格がネジ曲がった嫌な奴に違いない――。