二話 解放された宿命
全力疾走を五分も続ければ、並大抵の人間は体力が底を突くことだろう。
雷斗と千秋は人一人を抱えた状態でそれを行っているのだから、尚更だ。
足に鉛がのしかかったかのように鈍い倦怠感が走り、速度が著しく落ちる。
「千秋! 家まであとどれくらいだ!」
「何回も来てるだろ!? あと少し……角曲がったらっ……」
足が縺れ、何度もこけそうになるのを必死にこらえて走る。
人を抱えて走るというのはそう簡単なことではなく、重心が変わってしまうのだからいつものようには走れない。
「雷斗!! 見えた……」
千秋がそう声を張り上げたタイミングで、後方から車のぶつかる音が聞こえる。
千秋と雷斗が走りながら後ろに意識を向ければ、学校で見た『あの女』が、車や電柱にぶつかりながらこちらを執拗に追いかけている。
「嘘だろ、全然振り切れてない……!!」
「千秋、急げ!」
後ろに意識を向けている間に、家の門が目と鼻の先まで来ていた。
急いで門まで駆け込み、『あの女』の方を向く。
「──千秋、なんとかなると思うか?」
「分からないけど……門には御札が貼ってあるから、足止めくらいなら──」
千秋には両親の記憶が無い。
だから家が寺なのも柱に信じられないほどの札が貼り付けてあるのも、両親の趣味だったのだと判断するしかない。
「信じてるからな、会ったことないお父さんとお母さん!!」
そう言うと同時に『あの女』が家の前まで来る。
何度見ても気色の悪い見た目をしている。思わず肩に力が入るような見た目だ。
「────」
ず、と『あの女』の腕が門に触れる。
「────!」
金切り声のような、不快な声が響く。
何事かと耳を塞ぎながら前を向けば、門に触れた『あの女』の腕に、白き雷光が走っている。
「──あれが、御札の力……?」
ばちばちと、油が跳ねる時のような音が響く。
札の力を実感する機会などなかったが、あの化け物を食い止めている。
イマイチ決定打に欠けるようだけれど、少なくとも、『あの女』を殺す必要は無いようだ。
「雷斗、遥斗と萌奈を居間に寝かせよう」
「──そうだな、とりあえずは」
『あの女』に警戒を向けながら、家の中へと入る。
肩から遥斗の体温が伝わってくるが、冷たくもなっていないし、痙攣もしていない。本当にただ眠っているだけのようだ。
「雷斗」
「分かってる」
居間につき、遥斗と萌奈を畳の上に優しく置く。
顔が険しくなる様子もなく、本当に安らかに眠っている。
「──なんか、安らかすぎて不安になってくるなあ……」
「言ってる場合じゃねえだろ。千秋、なんか刃物持て。万が一ってこともあるからな」
「う、ん……」
雷斗の現実的な言葉に、千秋は少し尻込みする。
恐らく、雷斗が言っているのは「相手は人間では無いのだから、場合によっては殺さなくてはならない」ということだろうから。
「雷斗、台所にあるの好きにとっていいよ」
「──ああ」
雷斗が台所に刃物を取りに行く。
自分はどうしようか、と千秋は視線を迷わせる。
そして、居間より少し奥にある部屋が頭に浮かぶ。
「──あ」
思い出す。
両親のいない自分を育ててくれた男性のこと。
その男性──倉島さんが、この広い家を「あなたの家だ」と教えてくれたこと。
そして──
「触ったこと、なかったけど」
少し薄暗くて冷たい空気の漂うこの部屋には、一刀の刀がある。
倉島さんが言うには、両親が大切にしていたもので、両親の形見だと。
「初めて触る……意外と重いな」
「千秋、なんだその刀」
「俺もよく知らないんだけど……両親の形見らしいんだ」
「そんな大事なもん持ち出していいのか?」
「うーん……もしかしたらお父さんとお母さんの亡霊がサポートしてくれるかも」
「お前なあ……」
冗談だよ、と笑い、刀を持つ手に力を入れる。
父と母の記憶などほとんど無いに等しいし、どんな人なのかも知らない。
ただ、倉島さんから人柄は聞いているから。
「愛してくれてたなら嬉しいなあ」
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未だ雷鳴が響き続ける。
門に触れ、苦しそうに呻きながらこちらへ迫ろうとする『あの女』を睨みながら、千秋と雷斗は刃物を構える。
「──あんまり、暴力沙汰は」
「言ってられねえだろ。それに、相手は化け物だぜ? 法も多分適用されない」
「そういう問題じゃないんだけどなあ……」
だが、『あの女』に捕まれば、どうなるかは自明の理だ。
このまま踏み越えずに帰ってくれればいいが──
「────?」
何かが視界の隅に過った気がして、千秋は目を細める。
白き雷光と、でも、それだけじゃなくて──
「──あ」
『あの女』の禍々しき怨嗟を孕んだ黒髪が、柱に巻きついている。
乱れた上にとても綺麗とは言えないそれは、札を──
「──!!」
剥がそうとしている。
その事に気づいた瞬間、全身に嫌な汗が伝う。
ダメだ。
踏み越えられてしまう。境界線を。
「雷斗っ……!!」
千秋が雷斗に焦りを含んだ声を投げかけたのと、雷斗がそれに気づいたのと、『あの女』が札を破り、こちらへ踏み込んできたのは、ほぼ同時だった。
「うっ……!!」
どん、と地響きのような音が空間を揺らす。
足が地面から離れ、上手く姿勢を保てない。
だが、目まぐるしく回る世界の中で、千秋は見た。
『あの女』の髪が、門だけではなく、そこらに夥しいほどに貼り付けられた札を剥がそうと必死なのを。
「雷斗……!!」
雷斗に向けて手をのばすが、揺れは未だおさまらず、足元が覚束無い。
そのままバランスを崩し、地面にうちつけられてしまう。
「ぐっ……!!」
刀がガシャンと音を立てる。
鈍い痛みに包まれる頭を守るように受身の姿勢をとる。
すると、急激に揺れが収まる。
「──? なに……」
「千秋、大丈夫か!?」
雷斗が駆け寄ってくるのを見て、千秋は急いで立ち上がる。
地面にうちつけたものだから頭から少し血が流れているが、手当をする時間は無さそうだ。
「雷斗……」
「御札が破られたってことは……やっぱり、殺すしかねえよな」
雷斗が、冷や汗を流しながらそう言う。
千秋も、嫌だと言っていられないことを理解する。
「うん……でも、危ないから無理そうだったら逃げよう? 遥斗と萌奈を連れて」
「──そうだな」
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雷斗は元来、幽霊や妖の類を信じていない。
そんな非科学的なものを信じる気にはなれないし、雷斗が信じるのは、己の眼に映ったものだけだ。
だから──
「っ──!」
目の前にいる気色の悪い女を見て初めて、化け物は存在するのだと信じる気になれた。
「なんなんだお前……!」
千秋に借りた包丁で髪を木に縫いとめてやろうとするが、まるで効果がない。
髪の硬度が並大抵では無いし、そもそも速度が早すぎて包丁が弾き返されてしまう。
「──千秋……!」
千秋の家は寺だが、千秋に霊能力の類の力はないだろう。
今まで少しもその片鱗を見せることなどなかったから、ほぼ間違いない。
だから、この状況を打開する策があるとすれば、柱に貼り付けられた札だ。
あれを使えば、きっと──
「千秋! 御札だ! 彼奴がこれ以上御札を剥がさないようにしろ!」
雷斗の突然の呼びかけに、千秋は目を見開く。
が、すぐに首を縦に振り、柱へ向かって走り出す。
「────!」
「させるものか、って?」
『あの女』が、耳を塞ぎたくなるような金切り声を上げる。
長い黒髪を振り乱し、千秋の行く末を阻もうとするそれを、雷斗は無理やりに抑え込む。
「いっ……!」
包丁で髪を刺そうとするが、屈折した髪が雷斗の腕を貫く。
宙に舞う血しぶきに雷斗は顔を顰めるが、ここで手を止めるわけにはいかない。
なんとしても、『あの女』はここで倒さなくてはならないのだ。
後ろには遥斗と萌奈が控えている。
あの二人に手を出されては、雷斗と千秋がここまで頑張った意味がなくなってしまうでは無いか。
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「御札……!!」
柱へ急ぐ。
『あの女』は、執拗に札を剥ごうとしている。
つまり、札は『あの女』にとって、都合の悪い代物なのだ。
「──うわっ、髪かった……!!」
札を剥がそうと柱に絡みついている髪は硬く、素手ではどうにもならない。
手がじんじんと痛むその間にも、髪は札を剥がそうとし続ける。
「──俺も、出し惜しみとかしてられない……!!」
このままでは、雷斗の命も、遥斗たちの命も危ない。
だから──
「ごめんね。お父さん、お母さん」
顔も知らない両親へ謝罪を述べ、刀に手をかける。
鍔の部分に札が貼られているが、今はこれに頼るしかないのだ。
びり、と札を剥がし、刀身を出そうとする。
が、
「──雷斗……?」
札を剥がした瞬間、音が消えるのを感じた。
雷斗の声だけでない。
不快な、髪の毛が這いずる音も、耳を刺すような金切り声もだ。
何もかもが消えた。
何が起きたのか分からず、千秋が顔を上げると、そこには、
「その刀を渡せ、人間」
狐の面を被った何者かが、いた。