十九話 依代を持たない
「ッ──!」
赤黒い空に舞う、夥しい量の悪霊の姿。誰がしたかも、何のためにかも今は考える必要が無い。閻魔の目を掻い潜り、何者かが悪意を持って悪霊を解放した。こんな風に、鬼の少女を囮に使ってまで。
「──閻魔……大王!」
「分かっておる……!」
ミツルギが閻魔を呼び走り出せば、閻魔もすぐに後ろを着いてくる。今すべきことは除霊ではない。それよりも早く、最悪の事態を避けなければならない。そう巡る思考を取り払うようにミツルギたちは地獄の入口──その上方へと急ぐ。
「閻魔! 早く閉めろ、現世への扉を!」
ミツルギが珍しく声を張り上げる。敬語を使うのも忘れて。ミツルギと閻魔は妖力を使って現世と地獄を行き来できるが、それ以外のものにそんなことは出来ない。扉を閉めさえすれば逃げ場をなくして、あとは閉じ込められた悪霊たちを消し去るのみで済む。
「────!」
だが、不運なことに、鬼の少女と話していた場所は、地獄の最奥に位置する。そして、悪霊たちが閉じ込められていた場所はミツルギたちがいた場所よりもかなり手前だ。
「示し合わせたかのように……!」
ミツルギが出血しそうな程に強く下唇を噛む。地獄の位置がこうなっているのは、いつもは閻魔が入口付近で作業をしているからだ。つまり、いつもなら、取り逃がすような状態になるはずもない。だが、ミツルギが紅葉の話をしたことで、閻魔は鬼の少女の対応の優先度が高いと判断した。そこを突かれたのだ。
「──閉めろ!」
「嗚呼!」
ミツルギが向かおうとする悪霊を雷で打ち落とす。が、何しろ場所が悪い。ミツルギの強力な妖術が仮に罪人を閉じ込める檻に当たれば、事態はより混沌を極めることとなる。慎重に、ミツルギはかなり気を使って妖術を使う他ない。そうすれば、当然取り逃がす個体も出ることとなる。
「────!」
空を飛ぶ六千体のうち、五千体を妖力で作った鎖で捕える。そのままそれを逃げ出すこと叶わぬように縛り上げ、下でこちらを見上げている鬼の元へと緩やかに投げる。そして、捕らえきれなかった千体のうち、九百体余りを妖力をぶつけて撃ち落とす。檻に当たらぬように細心の注意をはらいながら。
「閻──」
ミツルギの声が閻魔を呼ぶより先に、腹の底を揺らすような音がして、地獄は微かな揺れに包み込まれる。空を浮遊しているミツルギにはよく分からなかったが、地に足をつけている鬼たちが微かに狼狽したのを見るに、感知できる程度の揺れがあったということなのだろう。
「──扉を閉めたぞ。これで、現世に行くことは叶わんじゃろう」
「──ご苦労様です。閻魔大王様?」
疲れたような様子は少しも見せずに、ミツルギが閻魔に軽く頭を下げる。が、少しも警戒を弛めることはなく、急いで下へと降りていく。ミツルギと閻魔が地面に舞い降りれば、鬼たちが急いで悪霊の数を確認しているのが見て取れる。
「──閻魔大王様、あの少女はどうするおつもりで?」
ミツルギが小さく聞く。閻魔は暫し瞑目した後、
「悪霊のことに彼女が関与していたとは思えん。じゃが、やったことがやった事じゃ。それなりの処罰を与えなければ、不満は避けられんじゃろう」
「──でしょうね」
魂を消し去るべきだとまでは言わなくとも、それなりの痛みを与えることは必須だ。閻魔への不敬に対する溜飲は下がっても、彼女の行いに対する不満は依然と皆の胸にある。しっかりと罰を与えなければ、閻魔に対する不信につながりかねない。
「閻魔の強さを見たなら、不信など消える気はするが──他者の心など我には測れんからな」
ミツルギが瞳を伏せ、小さく呟いた直後、青鬼の少年が駆け寄ってくる。
「大王様、ご友人の白狐様! 只今お話よろしいでしょうか!」
「──構わんぞ」
「はっ! では──」
青鬼の少年がリストのようなものを両手に持ち、それを閻魔に見せる。
「只今悪霊の数を確認しております! 確認でき次第ご報告に参りますので、それまで自室でお休み頂きたく!」
「──そうか、すまんの」
「いえ! 元はと言えば罪人の管理は僕たちの仕事ですから!」
言い切り、青鬼の少年は走り去っていく。
「じゃあ、部屋に向かうか。白狐」
「ええ」
何回繰り返しても慣れない、素ではない話し方。何となく違和感のあるイントネーションで話す閻魔を奇妙な心地で見ながら、二人は部屋へと戻っていく。
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「──ほんっとに疲れた!」
変化を解き、閻魔が床に倒れ込む。それをミツルギが静かに見つめれば、堰を切ったようにぐだぐだと弱音を吐き続けている。
「仕方がないだろう。我だって疲れた。お前に敬語を使うのは心が疲れる」
「ナチュラル失礼だよねお前ね」
ミツルギが小生意気に吐き捨てるのを閻魔はどこか嬉しそうに聞く。そんなに嬉しいものだろうか。今までロクに会いにも来なかったし、ミツルギは閻魔にもう友達じゃないと言われる覚悟もしていたというのに。
「やっぱり敬語外さね? 俺が『閻魔大王』の見た目と喋り方してたらミツルギが敬語使わなくても皆なんとも思わないって」
「──だが」
「ミツルギは真面目すぎるんだよ。さっき青鬼くんも言ってたけど、お前は俺の『ご友人』なわけ。変に敬語使わない方が仲良しなんだなーって思われるって」
「……お前がそう言うなら、それでもいいのかもしれんな」
ミツルギが呆れたように──否、根負けしたように溜息をつく。閻魔は昔から強引で、他者と距離を置きたがるミツルギにとっては稀有な存在だった。だからこそ、ミツルギのせいで閻魔の立場が揺らぐようなことはあってはならないと思い礼節を重んじていたのだが──
「──余計なお世話だったかもな」
ミツルギが優しく笑い、閻魔は満足そうに微笑む。
「──ある程度落ち着いたら早めに現世に戻れよ? 千秋って子、心配してるかもだろ」
「──あれは、我が近くにいた方が顔が曇る。我には人間の思考はわからんし、奴はお人好しすぎて好きになれん」
「あー……お人好しなのが嫌いな理由なら、目をかけてるのもそれが理由か?」
「──煩い」
「……どっちにしろ、刀を持つ者にはやってもらわないといけないことがあるからな。死なないように守ってやれよ」
「────」
どうして守らなければならない、と言わないあたりミツルギが本心から殺そうと思っている訳では無いのだと、閻魔は安心したように笑う。ミツルギはそれに気づいたのかは分からないが、退屈そうに窓の外を見つめていた。
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「ふーん、じゃあその千秋のお友達が勘づいてるってこと?」
「全員ではないだろうがな……いや、それも今では分からないが」
千秋はあの三人を気にかけているし、三人も千秋のことを酷く大切に思っている。千秋の感情の根源には三人がいて、隙となるのも三人なのだろう。
「──全く、理解し難い」
「とか言って、ちゃっかり助けてあげたんだろ?」
「何を馬鹿なことを。彼奴を体良く利用するには奴らが生きていた方がやりやすいというだけだ」
「ほーんと素直じゃないね。爺のツンデレとか需要ないよ」
「誰がだ」
確かにミツルギは人間では比べ物にならないくらいの時を生きているが、閻魔にだけは言われたくない。
「全く……」
ミツルギが眉を吊り上げて溜息をつく。と、
「────」
足音が聞こえた。ミツルギが瞳を伏せたまま耳を澄ます。外が酷く騒がしかった。
「──閻魔」
「うん」
閻魔が『閻魔大王』に変化する。そして、部屋の外へ出て──
「何があった」
「あ、大王様っ! 実は……」
鬼の少年が駆け寄ってくる。その顔は、酷く青い。
「──数が合わないのです」
「──何?」
「今朝と数が違います。六十六体ほど、確認できない個体がいます」
「──まずいじゃろう、それは」
「──はい。数え間違いの可能性は低く……その、」
そこまで言い、鬼の少年は口を噤む。ミツルギと閻魔はその先の言葉を想像し、彼の心中を察した。なんて不幸なことだろう。彼だって、尊敬する人の力量を疑うような言い方はしたくないだろうに。
「──扉を閉める際に、取り逃した個体がいたという事だな」
「白狐様……はい、言葉を選ばなければ、そういうこと、に」
「──それが真なら、まずいな。閻魔が見逃したということは、依代のない者たちであろう」
「依代のない者たちであろうと、普段見逃すことなどありえんはずじゃ」
閻魔の言葉に、ミツルギは瞳を伏せる。不測の事態で閻魔が冷静さを欠いていたとしても、それでみすみすと取り逃す男では無い。それなら、相手が何か小細工をしたと見るのがいいはずだ。
「──閻魔、以前城から出たのはいつだ」
「……百五十年前だな」
「長命だと感覚が狂うな。お互い」
ミツルギは窓を思い切り開け、仮面の下で思い切り顔を顰める。閻魔がそれに気づけなかったことは仕方ない。というより、気づかせないように動いていたのだろう、何者かが。閻魔の目を掻い潜り、悪意を持って地獄を掻き乱した、何者か──。
「──ミツルギ、何に気付いたのか、話すのじゃ」
「──地獄には、常に大量の妖が蔓延っている。人間が地獄に堕ちると妖気にあてられ、気を狂わすことも少なくないほどに」
「嗚呼」
「だから、気付けなかったのだ。今日、この空間に来た時から──」
地獄の空を見上げる。気付かなかった。気付けなかった。ミツルギはなんとしても、それに気付くべきだったというのに。
「空を覆うように、妖気が充満している。地獄にいる妖による妖気とは一層外側に」
内側の妖気しか見ていなかったから、ミツルギはそれに気付けなかった。だが、目を凝らせば気付く。内側の妖気と外側の妖気の間にある空間──恐らく、依代を持たぬ者が逃げ遂せたのも、それが原因だろう。
「──悪い、閻魔。これは俺の責任だ。気付かなければならないことを完全に見落とした。これによって訪れる悲劇の数は予測出来ない。俺が気付きさえすれば、こうはならなかっただろうに」
ミツルギが頭を抱え、白髪をぐしゃりと握る。その顔には珍しく感情が痛ましく滲み、焦燥と苛立ちが隠しきれない。
「──お前のせいじゃないじゃろう。……昔の口調に戻っておるぞ、ミツルギ」
指摘すれば、ミツルギは苦い顔をして、着物を翻す。
「──我の責任だ。処罰は受けよう」
「それを言うなら、儂に責はある。それから、地獄の守り人全員にな」
閻魔は長く息を吐き、席を立ち上がる。
「早急にすべきは、現世に向かったそれらを確保し、地獄に送り返すことじゃな。偶然にも、適任が目の前におるのじゃが」
「白々しいな……我も元よりそのつもりだ。現世を掻き乱されては都合が悪いのでな」
「ミツルギと千秋だけでは地獄への収監がスムーズにはいかんじゃろう。二体ほど、鬼をつけられるといいのじゃが」
「そこまで気を回さなくていい。ただでさえ地獄の状況は悪いという話だっただろう」
ミツルギと閻魔が話すのを、鬼の少年は静かに聞いていた。そして──
「あの! 大王様、白狐様!」
声を震わせながら、鬼の少年は口を開く。
「ごめんなさい、俺のような下っ端が口出ししてならないと分かってはいるのですが……」
「──構わん。言ってみるのじゃ」
「はい! ……えっと、鬼を二体ということでしたら、俺を連れて行っては頂けませんか? 地獄には強い鬼を残して、治安維持をさせなければなりませんし、俺はそこまで強くありませんが、地獄と現世を繋ぐ扉をショートカットする術は得意なので……」
「どうでしょうか」と口にし、鬼の少年は頭を下げる。ミツルギの目には、彼の有り余る好奇心が見えたため、少し躊躇ったのだが──
「──うむ、よいじゃろう。もう一体の鬼は、犯人と面識のある鬼の娘に行かせようぞ」
「犯人と面識のある鬼の娘……」
その言葉を聞き、ミツルギは途端に嫌そうな顔をする。それはつまり、あの騒がしく頭の悪い娘を連れていくということだ。
「おい、閻魔。あの娘は好かん」
「まぁ、そういうな。ミツルギよ」
「白狐様と大王様、朝お会いした時よりも仲が睦まじい……! 良かった!」
ミツルギが紅葉の妹──椿を連れていくことを渋々承諾したのと、鬼の少年──昴が、入室してきた先輩鬼に勝手なことをするなと殴られたのはほぼ同時であった。