十六話 恵まれた環境
「千秋!」
紅葉を除霊してから数分後、ミツルギはなにも言わずどこかへ行ってしまった。それと入れ違うように遥斗たちと合流し、隠しきれない悲しみと自己嫌悪を何とかこらえながら、遥斗たちに笑顔を向ける。
「──遥斗」
「よかったー! 心配したんだからな!」
「そうだよ、でも無事でよかった」
萌奈が形の整った瞳を柔らかく閉じ、笑みを浮かべる。何かを言おうとした口を閉じて美しく笑うのを見て、千秋は刹那の違和感に駆られるが、それを気に留めるほどの心の余裕はなかった。
「じゃ、帰るか。千秋」
「そうだねぇ……本棚倒れたりしてるし、多分スタッフさんにお話してからになるけど」
「いいじゃん! 特別って感じして!」
「あのなあ……」
盛り上がる遥斗を雷斗が苦笑いしながら収める。それを見て、千秋は──
「────」
未だ晴れぬ心のうちに、静かな傷跡を確かに感じるのだった。
*************
「おかえりなさい、千秋くん」
無気力に扉を開ければ、ふわりと漂ういい香りとともに、倉橋に声をかけられる。急に声をかけられたのに驚き少し後ずさるが、倉橋の柔らかな笑顔を見てすぐにそれは治まる。
「──ただいま、倉橋さん」
「今日は図書館に行かれていたそうですね? またトラブルに巻き込まれてしまったとか……何があったんですか?」
倉橋にそう聞かれ、千秋は頭の中でいくつかの言い訳を考える。が、いつもならパッと浮かぶはずなのに、少しも言い訳が浮かばない。疲れのせいか、精神が不安定だからなのか、千秋が理由に気づくより前に、倉橋が困ったように笑って、
「言いたくないなら──いえ、言えないなら言わなくても大丈夫ですよ。隠し事は悪いことではありませんから。さあ、ご飯にしましょうか」
千秋が隠そうと躍起になっていた心の機微を見透かし、気を使ってくれたのがわかった。「ありがとうございます」と小さな声で返し、千秋は暗い顔のまま俯く。家にもミツルギの姿はなく、彼と顔を合わせずに済むのが幸運なのか不幸なのか、今の千秋には判断しかねたのだが。
「────」
俯いたまま後ろを着いて歩く千秋を見かねたのか、倉橋が平時より少し明るい声で話す。
「今日はラザニアを作ってみました。いつもは千秋くんに家事を任せてしまうことが多いですから」
「──そんな、倉橋さんはお仕事があるんですから、仕方がないですよ」
「それでも、子供に苦労をかけると心が痛むのが大人というものですよ。私も君と出会ってようやく大人になれました」
話しているうちにキッチンにつき、倉橋が手際良く準備を進める。なにか手伝おうかと思ったが、倉橋に座っているよう促され、席に着く。
「────」
優しい人だな、と思う。千秋が今日まで生きてこられたのは、倉橋が千秋の生活を支えてくれていたことが大きい。二歳やそこらの時に両親を失った千秋を預かり、記憶に残ってもいない両親についての話をしてくれたり、遺産を狙って近付いてくる大人を追い払ってくれたのは倉橋だ。「遺産は然るべき時に使うべきだ」と普段の生活費は倉橋の給料から捻出してくれている。その苦労に比べれば、千秋が普段家事をやることくらいは苦労のうちにも入らない。
「準備出来ましたし、食べましょうか。千秋くん」
「──あっ、そうですね」
向かい合い、暖かいラザニアを口に運ぶ。命を繋いでいるのだとわかる温かさが胸を包み、そして──
『貴様は、命を選定している。それも、酷く身勝手に』
「────!!」
脳裏で冷たく吐き捨てられる言葉に、千秋の心臓は呼吸を忘れたように嫌な音を立てる。眉が顰められ、青くなった顔にお似合いな、辛そうな表情が浮かぶ。
「千秋くん?」
「──え、っと」
なんでもないです、と言わなければならない。心配をかけてはいけない。いつも通り、心に仮面をつけて。
「────」
その思考が、酷く傲慢なものだと気づき、手が止まる。同じだったのだ。ミツルギも千秋も。ミツルギは仮面をつけて感情を隠していた。千秋は心に仮面をつけて悩みを悟られないようにした。そこに、大した違いなんて──
「千秋くん」
「────あ」
ぐるぐると巡る頭。それを断ち切るように、倉橋の声が聞こえる。
「辛いことがあったなら、私に相談してくださいね。お役に立つとは言いませんが、少し肩を軽くするくらいはできると思いますよ」
そう言って、倉橋が笑う。その優しさに、千秋はまた申し訳なさを感じて──
「──はい。ありがとうございます」
そう言って、笑顔の仮面を貼り付けることしか出来なかった。
*************
「────」
自室へ戻り、千秋は広い部屋の中でひとり座り込む。刀身の消え失せた刀に触れ、束の間の安堵に浸かり込む。それも、所詮気休めだが。
「──お父さんとお母さんは、どうしてこんなものを残したんだろう」
妖を除霊すれば、倉橋さんや雷斗の役に立てるかもしれない。それが、千秋にとってはすごく嬉しかった。足を引っ張ってばかりだったから、ようやくそのお返しが出来ると思って──
「俺には無理だよ……」
魂を刺し殺す感覚に耐えられない。罪悪感がずっと鉛のように溜まり続けている。
──それをしないせいで、大切な人たちに危害が及ぶとしても?
「──どうしたら……」
きっと、目の前にまた悪い妖が現れたら、刀と共鳴して、千秋の魂は刀と同じ色になる。そうなった時、妖を殺せることが、いいことなのか悪いことなのか、千秋には分からなかった。
「でも、やっぱりみんなが危ない目に遭うのは嫌だ……」
答えは、出ない。それに安堵していたのか、苛立っていたのかも、分からなかった。
**************
「おはよー、千秋!」
「──おはよ、遥斗」
あれから、丸一日部屋で座り込み答えを探していたが、終ぞ答えが見つかることはなかった。何もしていないと嫌でも頭の中が回るので、妖のことを考えなくて済む学校は今の千秋にとっては安堵できる場所だ。
「今日から体育祭の練習始まるらしいよー! めちゃ嫌じゃない?」
「そう? 俺は別に嫌じゃないけど」
「俺はやなの!」
背後から遥斗がきゃんきゃんと騒ぐ。その騒がしさがありがたくもあり、千秋は柔らかく頬を緩ませる。
「────」
それを見て安心したように笑う遥斗に、千秋が気づくことはなかったが。
「あっ、雷斗! 萌奈ー!」
「朝から元気だねぇ、遥斗くん」
「その距離で大声出すなよ、千秋の耳が潰れる」
萌奈が眠そうな目を擦りながら朗らかな笑顔で駆け寄ってくる。雷斗はその声の大きさに顔を顰め、千秋を遥斗から引き剥がす。
「何の話してたの? 遥斗くん」
「体育祭の練習めんどくない? って話!」
「俺は文武両道だから別に」
「その答え、まじで雷斗って感じするー」
「どういう意味だ」
自画自賛ではなく、実際そうなのだから仕方ないが、雷斗の自分に対する自信は人から見ると少し面白かったりする。遥斗がそれを嫌がらないとわかっているからやっているのだし、雷斗のそれは一種の信頼でもあるが。
「にしても体育祭か……じゃあ今日から短縮授業かな?」
靴を靴箱に置き、上履きに履き替えながら萌奈がそう口にする。
「そうじゃないか? 面談もそろそろだろうしな」
「俺的にはずっと短くてもいいんだけど!」
「ずっとそれじゃあ困るでしょ、遥斗」
騒がしい遥斗の頭にぽん、と手を置き、千秋は柔らかく笑う。話しながら歩いているうちに教室がすぐそこまで迫っていた。
「一時間目なんだっけ?」
「日本史だね」
ロッカーから教科書を出しながら、遥斗と萌奈がそう話す。それを雷斗と千秋は見守り──
「────」
「千秋、昨日ちゃんと眠れたのか?」
「えっ、何で?」
「何となく顔色が悪い気がしたからな」
「うーん……眠れたと思う、けど」
「ならいい。さっきよりかは顔つきがマシになってるからな」
「顔?」
そう言われ、ぺたぺたと顔に触れる。言われてみると、遥斗たちと話して、心が軽くなるような感覚があった気がする。それでも、悩んでいた全てが消えたわけじゃないけれど、鬱状態のような気分の悪さは少し軽くなった。端的に言うと、
「──ちょっとメンタル回復したってことかな?」
「なんか言ったか?」
「ううん、なんでも」
首を振り、席に着く。あと五分もすれば教員が教室に来る時間だ。しかし、
「──ミツルギ、帰ってこなかったな」
刀を狙われる心配が無くなったのだから喜ぶべきなのか──あの時、ミツルギに吐いた言葉の何かが彼を傷つけたのだと悩むべきなのか。
「学校終わったら探しに行こう」
そう言って窓の外に目をやる。桜が散り、寂しくなった木の背後に見える空は、千秋を静かに見つめ返していた。