十五話 自分勝手な選定
「紅葉、人間は悪じゃ」
そう言う長老の顔は、いつも以上に皺が深く刻まれていて、思わず肩を跳ねさせたのを覚えている。
「白狐様はお優しい故、人間を積極的に殺すことはしないが──あの方が一番、人間を恨んでいるはずなのじゃ」
白狐様、と呼ばれる、仮面を被った妖がいる。仲間にすら顔を見せることはせず、いつも他者との間に壁を隔てている、そんな奴だ。だが、彼の強さは妖なら誰もが知るほどで、彼に喧嘩を売るものはそう居ない。
「どうして、白狐様は人間を恨んでいるの?」
「白狐様は、九百年前──」
「貴様」
長老の声を遮り、件の白狐様が現れる。
「白狐様……」
「余計なことを話すな。我の心情など貴様にはわかるまいよ」
そう言って、白髪を風に揺らし、白狐様はその場を立ち去る。
「長老……」
「仕方ないことなのじゃ。白狐様は、嘗て誰にも心を開かれたことがない。千年前から生きておられる大妖怪様故、仕方の無いことなのじゃよ」
白狐様は、いつもひとりだった。どれだけ妖怪が心を砕いても、彼がそれに答えることはなかった。妖の中でも頭ひとつ抜けた強さと、誰も知らない彼の出自。妖が彼を頭目に置こうとするまで、そう時間はかからなかった。
「白狐様は、人間を恨んでおいでなのですか?」
そう聞けば、白狐様は酷く怖い顔をした。
「──さあな。それを知るために、我は待ち続けているのだ」
その言葉の意味は分からなかった。けれど、白狐様は人間が戦で大量に命を落とす度に、それを下らないと一蹴していた。
白狐様の目的は人間に奪われた刀を奪い返すこと。白狐様が話す刀は、まるで妖を殺すために生み出されたような、悪意に満ちたものだった。そのうち、白狐様は私たちに何も話してくれなくなったけれど。
そんな彼の思想が、強さが、不明な出自が、妖たちの心の支えとなっていた。これほど強い妖が仲間であることが、彼らにとっては何よりも大事だったのだ。
それなのに、
「白狐様! どちらに行かれるのです!?」
「時は来た。もう我に停滞は必要ない」
そう言って、白狐様は集落を出ていってしまった。私もそれを止めたのに、まるで意に介してもらえなかった。彼の瞳に私の姿はなく、まるでなにかに突き動かされるように、白狐様は私たちのもとを去った。
「──白狐、様……」
ほかの妖たちは、決して白狐様を責めなかった。刀を取り返すことだけが、白狐様の望みであるのだと。人間が持っていては妖が殺されるから、奪い返すことで平穏を手にしようとしているのだと。だけれど、私にはそうは思えなかった。だって、白狐様は百年も戻ってこなかった。私は思った。白狐様は、裏切ったのだと。
「アタシが、白狐様を──アイツを、ここに連れ戻してやるわ」
そういった私に、長老たちは考え直せと言った。けれど、もはや立ち止まることは出来なかった。言葉も聞かずに出ていった彼奴を、最早許すことは出来なかった。
***************
「────!」
刀を通じて流れる、紅葉の記憶。それは、悲劇と言うにはあまりに小さく、けれど、幼い少女の心を砕くには十分すぎる出来事だった。
「──ミツルギ……」
「──なんだ」
「白狐、って」
「────」
ミツルギが聞いて欲しくないと思っているのを分かっているのに、千秋はそれを口に出した。口に出してから、どうしようもない自己嫌悪に駆られる。謝るべきだろうか。でも、どう謝れば──
「──此奴が我を敵視することは、最早必然であった」
「────」
「我は此奴等を仲間などと宣った記憶はない。が、此奴等がそう思っていることを知りながら、それを利用していた」
「──そっ、か」
「此奴等と我では、考え方も価値観も違った。例え頭目だと担ぎ上げられても、その不快感は消えぬ」
「──でも、」
ミツルギの言葉は、あまりに冷たい。まるで、殺すことが仕方なかったと言いたいみたいに。
「──俺は、殺したくなんてなかった」
「──一つ、考えを正そう」
刹那、ミツルギに首を掴まれ、床に押し付けられる。驚きで声も出ない千秋を見下ろしたまま、ミツルギは噛み締めるように口にする。
「貴様のそれは歪だ」
「────」
「貴様は、命を選定している。それも、酷く身勝手に」
「そんなこと、」
「ある。丑の橋姫を殺した時、貴様は殺さなければならないから殺したはずだ。鏡の少女の時もだ。なら、今回は何故貴様が躊躇ったか教えてやろうか」
ミツルギの言葉に、八つ当たりにも近しい怒りが灯る。首を掴む手に力が入り、千秋が苦しそうに眉を顰めるも、ミツルギは気付かない。
「話せたからだ。丑の橋姫は既に話せる状況でなく、鏡の少女は話が通じなかった。が、奴とは言葉が交わせた。それだけの理由で、貴様は躊躇ったのだ」
そんなことない、と言いたかった。ミツルギの言い草に頭に血が上るのがわかって、刀を握る手にも力が入った。でも、何も言えなかった。何故なら、千秋は、ミツルギの言っていることと同じことを、心のどこかで気づいていたからだ。千秋は、命を選定した。奪っても仕方が無い命と、奪う以外の方法があるかもしれない命。それは、間違いなく千秋が身勝手に決めたものだった。
「奴も今までと何も変わらない、貴様や貴様の周りに害を成す存在だ。貴様は今まで正義感で妖を殺した。にも関わらず浅い価値観に足を取られ、判断を間違えてどうする?」
ミツルギの仮面の奥にあるであろう瞳が怒りに揺れるのを肌で感じる。ミツルギは、千秋に怒っているのではない。千秋じゃないなにかに怒っている。それに反論することも忘れ、千秋はただただそれに驚いたまま固まる。だけど、
「──妖に肩入れするのはやめろ。貴様は人間だろう」
まるで、拒むようなその言葉に、千秋の怒りが、未だ握られたままの刀と共鳴し、増幅する。
「──だったら、」
「────」
「なんでお前は俺を助けるんだよ……」
その言葉に、ミツルギは息を詰まらせる。首を掴む手が力をなくし、するっと離れていく。急激に自由になった酸素を吸い込み、千秋は咳き込む。ミツルギは千秋を見つめたまま、珍しく感情を声に込める。
「助けた覚えなどない」
「初めて会った時も、今日だって」
「利用価値があるからだ」
「──なら、俺も利用価値がある妖なら助けていいのか?」
千秋の言葉を聞いて、ミツルギはまた黙り込む。それにまた千秋は苛立ち、ミツルギの腹を蹴って距離をとる。ミツルギは声一つも出さないまま、千秋の暴挙に苦言ひとつ呈さない。
「──いつもなら、怒るくせに……」
「────」
ミツルギの考えていることが分からない。千秋の内心は、荒れ果てた野原のようであった。妖を殺す度に、記憶を見た。丑の橋姫を殺した時、妖は思っていたよりも救いがないと思った。鏡の少女を殺した時、自分がしていることが正しいのか分からなくなった。千秋はまだ子供なのだ。妖を殺すことが人を殺すことと同義に思え、千秋の心は軋み、拠り所を失いかけていた。
「──分からない……」
「────」
「雷斗たちを殺そうとしたんだから、俺が妖を倒すのは正当防衛なはずなのに……」
「──嗚呼」
「──じゃあ、俺が殺した妖の仲間が俺を殺しに来たら、正しいのはどっちなんだろう」
ミツルギは、何も言ってくれなかった。刀は刀身を失い、髪は短く戻っていた。崩れゆく鬼の躯を前に、千秋の啜り泣く声だけが木霊していた。