区切りをつける
私は今でも、卒業式の光景を感慨深く、そして苦々しい気持ちとともに思い出す。私はこれまで、浮き沈みのない、いやむしろ沈み続けた人生を歩んできた。その中で最も記憶に残っているのが、卒業式の瞬間だ。
とはいえ、卒業式で特別な出来事があったわけではない。ただ、何もなかったこと自体が、私にとっては印象深いのだ。友達と写真を撮ることもなく、泣くこともなく、部活の後輩と話すこともなかった。先生の言葉が記憶に残っているわけでもない。ただ、卒業式が終わり、周囲が晴れやかな表情で記念写真を撮るなか、私は誰にも見つからないようにひっそりと帰宅した。その姿だけが、今でも鮮明に思い出される。
だが、その時の私はみじめだとは思わなかった。むしろ、どこか晴れ晴れとした気持ちだった。
私は幼い頃から、悲観主義を信奉していた。テストを受ければ、きっと悲惨な点数に違いないと思い込むし、自分は他者より劣っているのだと呪詛のように言い聞かせる。成功する未来を想像することができない。むしろ、失敗することを前提に生きていた方が楽だった。過度な期待を抱くことがなければ、失望することもないからだ。
しかし一方で、私は現状の苦しみは一時的なものであり、環境さえ変わればきっと状況は良くなるはずだと、自分に言い聞かせてもいた。暗い沼の底へと沈んでいく自分の心を押しとどめるために、必死で自己暗示をかけ続けていた。
だから、私は卒業式を晴れやかな気持ちで迎えられたのだと思う。あの苦しい日々は終わりを迎えた。新しい環境では、もっとましな自分になれる。そう信じていた。
だが、いま考えると、その考えはあまりにも幼稚だった。
環境が変われば、自分も変われるはずだと思っていた。しかし、環境が変わったところで、自分自身が変わらなければ何も変わらない。むしろ、新しい環境での適応に苦しみ、これまで以上に孤独を感じることすらあった。
私は大学に入ったら、新しい人間関係を築き、今までとは違う自分になれると考えていた。しかし、実際には何も変わらなかった。クラスのグループワークでは発言を躊躇し、サークルにも馴染めず、気がつけば大学生活の大半を一人で過ごしていた。気軽に話せる友人はできず、講義が終わればまっすぐ帰宅し、誰とも会話しない日が続いた。
そのうち、大学はますます「行くだけの場所」になり、ただ時間が過ぎるのを待つ日々が続いた。結局、私は何も変わっていなかった。高校の卒業式で感じた「これからは変われる」という期待は、ただの幻想だったのだ。
一年後、私は大学を卒業する。人生最後の卒業式になるだろう。その日、私はまた一人で式に出席し、一人で卒業証書を受け取り、一人で帰るのだろう。
それでも、私は晴れ晴れしい面持ちで、その日を迎えられるのだろうか?