孤独のすゝめ
私は常に孤独だった。幼稚園生のころから、それはずっと変わらない。
小学生のころ、休み時間になると私はいつも居場所探しに苦労していた。教室で本でも読んでいればいいじゃないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、考えてほしい。小学生の男子というものは、休み時間になると校庭に飛び出し、外遊びを始めるものだ。7月の猛暑日でも、1月の氷点下の日でも、彼らは熱心に外へと駆け出していく。ご苦労なことだ。
つまり、教室に残るのは女子ばかりで、しかも彼女たちは群れる傾向がある。教室内で、一人きりで過ごしているのは私だけだった。圧倒的マイノリティとなった私は、一体どこへ行けばよかったのだろうか?
「周りのことなんて気にせず、堂々と教室で過ごせばいいじゃないか」と思う人もいるだろう。私が一人でいようと、複数人でいようと、周囲は気にしていないのではないか、と。
それは、確かにそうだ。人は基本的に、自分の利害に関わらない限り、他人には無関心なものだ。誰かに対して、同情や憐憫の情はあまり持ち合わせていないくせに、嫉妬や妬みだけはいっちょ前に抱く。
だが、私は「コミュ障の一匹狼」であるにもかかわらず、他人の目を異常に気にしていた。他人から憐れまれること、蔑まれること、「寂しい奴だ」と思われることを、どうしても避けたいと感じてしまっていた。そこに齟齬が生まれる。
もっと他人のことを気にせず生きられたなら、私はもっと楽だったはずだ。心理的に追い詰められることも、ずっと少なかっただろう。
私が「人の目」を過剰に意識してしまうせいかもしれない。いつしか、私は人前でリラックスすることができなくなってしまった。テレビを見るにしろ、本を読むにしろ、食事をとるにしろ、そこに誰かがいるだけで落ち着かない。家族ですら、それは変わらない。
だから、私はめったに外食をしない。友達もおらず、出不精な私が外食をしないのは当然だと思うかもしれない。確かにそれも理由の一つだ。だが、それだけではない。外食先では落ち着いてリラックスすることができないのだ。周囲の席の人、店員、窓の外を通る人――あらゆる「目」が気になり、意識がそちらへ向いてしまう。
彼らの出す「音」も気になる。会話する声、ナイフやフォークが立てる音、咀嚼音、その他さまざまな環境音が、私の意識をかき乱す。
やはり、他人がいるとダメだ。1人でなければ、リラックスなんてできない。食事も、勉強も、テレビを見るのも、一人でなければ楽しめない。
私がコミュ障だから他人といることがストレスなのか、それとも他人といることがストレスだからコミュ障なのか?
私は前者だと思っている。いや、そう思うようにしている。もしそうでなければ、コミュ障を克服しても状況は変わらないことになってしまうから。
これから一年後、私は社会人としての第一歩を踏み出す。時間をかけて少しずつコミュ障を克服するつもりでいる。だからこそ、そう思わないとやっていけない。