コミュ障は写真に写らない
10年後、私が突然死したなら、親族は私の遺影用の写真を探すのに苦労することだろう。
私は写真に写りたくないし、見返したくもない。
私は人を被写体とした写真を一枚も持っていない。スマートフォンの写真フォルダに並ぶのは、無機物ばかりだ。友人と撮った写真もなければ、自撮りもない。例外は就活用の証明写真と、一度も開いたことのない学校の卒業アルバムくらいだ。
なぜ、私は写真に写りたくないのか。すぐに思いつく理由はある。容姿に対するコンプレックスだ。
だが、それだけではない。確かに私は自分の容姿に劣等感を抱いているが、それは根本的な理由ではない。そもそも、容姿を意識していなかった幼少期から、私は写真を撮られることに抵抗があった。
なぜなのか。自問自答を重ね、ようやく気づいた。
周囲から浮いている自分、なじめない自分を、写真という「目に見える形」で残したくなかったのだ。
小学4年生まで、私には友達が一人もいなかった。常に孤独で過ごし、学校で一言も話さずに家に帰る日が何度もあった。林間学校や運動会といった学校行事では、写真を撮る機会が多い。しかし、そうした「グループ行動」が求められる場面こそ、私が周囲になじめていないことがより鮮明になる時間だった。
班決めではいつも余りものになり、いたたまれない思いをする。宿泊行事の自由時間になれば、やることもなく一人であたりをさまよう。そうして撮られた写真の中で、私は不自然に取り繕った笑みを浮かべるか、あるいは仏頂面のままそこにいる。
だから、私は写真に写りたくない。
写真に写ることを嫌う人は少数派だろう。しかし、写真を見返したくないと感じる人は意外と多いのではないだろうか。
写真に写る自分は、紛れもなく「過去」の自分だ。未来の写真など、一枚も存在しない。
写真を見ると、人は無意識のうちに「過去」と「現在」を比べてしまう。そこに写る過去の「あなた」は、満面の笑みを浮かべ、友人と肩を並べているかもしれない。そして、現在の「あなた」はどうか。雑事に追われ、仕事に疲れ、人間関係に悩んでいるかもしれない。
人は、自分の幸せを主観的に測ることができない。他者との比較、過去との比較によってのみ、自分の今の状態を評価する。写真を見返せば、多くの場合、「過去のほうが幸せだった」という結論に至る。
あの幸せだった時間は、もう戻ってこない。
写真に写る友人とは疎遠になり、二度と交わることのない人生を歩んでいる。そこにあるのは、失った時間の記録にすぎない。
だから、私は写真を見返したくない。