18、テラ
徐々に世界に色が戻り、温度が下がり、音も聞こえて来た。
すぐ目の前にイノシシの顔があり、一瞬ビクッとなったが、直後に死んでる事に気付いた。近いけどそれ以上寄って来ず、その場で崩れ落ちたからだ。地面にへたったイノシシの背にはデッカい剣の腹が叩き込まれていて、その持ち手の先にはハザンがいた。
助けて貰ったのか・・・。
「ハザン、ありがとう」
俺は礼を言った。そして、大きく振り上げたままになっていた自分の両腕を下ろした。その手の中にあった筈の板は消えていた。
ハザンはこちらの言葉で何かを言うと、剣を引き抜いて俺に背を向け行ってしまった。ナバラ兵達が魔物と戦っている場所へと向かったのかも知れない。
入れ違いにトールが俺の元へと駆け寄って来た。
「アキラ、無事ですか?」
そう言って、恐る恐る俺に触れる。肩に手を乗せ、大丈夫と分かると存在を確かめるように腕の辺りをポンポンと2回叩いた。
「うん、大丈夫。ありがとう」
トールにも礼を言って、そして俺はそのままそこに崩れるように座り込んだ。まだ、全力疾走の後遺症の息切れが残っている。肺が苦しかったし、足がガクガクとして力が入らなかった。
「どう、なったの?」
切れ切れにそう聞いた。
トールは俺の横にしゃがみ込んで、そして背中を支えてくれながら言った。少し興奮しているように見える。
「アキラの上に落雷しました。晴れていたのに突然です。凄い事です。これは『光の祝福』です」
「光の、祝福、?」
何だそれは。てか落雷って、俺に雷が落ちたのか。よく生きてるな、俺。
「自然現象の落雷ではありません。もしそうなら、直撃したら辺り一面火の海ですし、アキラは生きていません」
「まぁ、そうだろうな・・・」
サラッと凄い事言うな。
「アキラが天に呼び掛け、『光の加護』を持つ者を呼び出したように見えました。ハザンが来てイノシシを倒したのはその所為かと」
「俺がハザンを呼び出したの?そんな覚えは無いんだけど」
そうなんだろうか。自力で何とかするしかない!って思っただけなんだけどな。
と考え込んだ時、マージュが俺に駆け寄って来た。そして俺の横、トールの反対側にしゃがんで、控え目にそっと肩に手を置く。耳元で何かを話し掛けながら目の前にグラスを差し出した。中には赤味掛かったお茶みたいなのが入っていて、俺は労いのお茶かと思って「ありがとう」と言いながらそれを受け取ろうとした。
が。
そのマージュの手を、トールが払った。グラスが飛び、弧を描いて地面に落ちて割る。中身が周囲に撒き散らされた。
「何だよトール、突然。酷いじゃ・・・」
「酷いじゃないか」俺はそうトールを非難しようとしたものの、その言葉を飲み込む。見ると、トールがマージュの手を掴み捻り上げて、地面にうつ伏せに倒していた。トールがこちらの言葉でマージュに向かって何かを言う。言った後に俺に説明してくれる。
「何かの薬を盛ろうとしました。アキラ下がって」
えっ・・・。
驚いて俺はマージュの顔を見た。
マージュの顔は、青ざめて震えていた。大きな瞳は見開かれて赤くなり、涙が滲んでいる。震える声で何かを必死に訴える。それに言い返すトール。その声は鋭く機械的で温度を感じなかった。
遠くからマージュに付き従っていた2人の使用人が走ってくる。
落ち着きつつある呼吸の数をカウントしながら、俺は他人事のようにその様子を眺めていた。目の前で起こっている出来事を、現実のものとして受け入れる事が出来なかった。
獣や魔物に襲われるのとは意味が違う。人に、意思を持った1人の人間に命を狙われたのかも知れないという事を、自分の事として捉えるのが無理だったのだ。
ショックを受けるというのは、こういう事なのか。
その時俺は、そう思った。
トールが怒鳴り、マージュが泣きながら弁明をする。使用人が走ってくる。
それを、離れた所から眺める、俺。
指先が冷たい。自分の呼吸だけが確かで、他が全部ウソに見えてくる。
と、その時だった。
『許さない』
頭の中に、低く地を這うような低い声が響いた。
意識が収束するように現実に引き戻された。
瞬間、トールの体が飛んだ。何かに引っ張られるようにマージュから引き離されて、太い木の幹に叩きつけられて止まる。鈍い音と共に「うっ・・・」という呻き声が漏れ、そして地面に落ちて横に倒れて、そのまま動かなくなった。
「え、トール・・・?」
呼び掛けても返信は無かった。意識が飛んだらしい。
何があった・・・?
思いながら、俺はマージュを振り返った。うつ伏せに押さえ付けられていた場所にマージュの姿は無く、代わりに誰かの足が見えた。
使用人達はまだ辿り着いていない。
では、誰の足だ?
俺は視線を上げた。
何も履いていない裸足の太い足、どっしりとした重量感のある胴体、逞しく引き締まった腕。生成りの布を纏った大柄な男だった。布から出た素肌には所狭しと黒いタトゥーが彫られていて、浅黒い肌が更に黒く精悍に見える。その男の太い腕に、マージュは抱き抱えられていた。
「・・・ゴテラ・・・」
男の腕の中でマージュが呟いた。呼び掛けられた男がマージュを見る。釣り上がった細い目は黒一色で白目が存在せず、長い黒髪は常にうねり続けていて、よく見ると先端が鎌首を持ち上げた無数の蛇になっていた。
ゴ・テラ。これが、神様か・・・。
見た感じ、神様と言うよりはもっとこう、悪魔とか言われた方がしっくり来る。普通に怖い。
『ナバラに害を為す者は許さない』
再び低い声が頭の中に響いた。
マージュがテラの腕の中で、こちらの言葉で必死に何かを訴えた。
『大丈夫だ。マースは保護している』
テラの声が頭の中に響いてきた。テラの言っている事だけ理解する事が出来る。以前トカゲに襲われた時にノワの言っている事だけ理解出来た事を思い出した。
神様の言葉は直接頭に響いてくるんだな。
そう納得した時、テラが俺を見た。テラの視線に気付いてマージュが何かを言う。
『アレはダメだ。良くない』
マージュの言った事にテラがそう答えた。それを聞いてマージュがテラに縋り付きながら激しく訴える。
何話してんだろ・・・。
そう思った時、テラがマージュを下ろした。そして『離れていなさい』とマージュに言うと、俺に向かって歩いてくる。
・・・怖。逃げて良いかな?
俺は一歩後退りをした。額から汗が一筋落ちてくる。
良くわかんないけど、良くない状態だよな。逃げた方が良い気がする。てか逃げないとヤバい気がする。
思いながらもう一歩後退る。
その時、テラの体が黒いモヤで覆われた。それは、さっき見たイノシシやキツネが活性化して巨大化凶暴化する時の物と同じで、もしかすると神様も活性化するのか、と思って俺は心臓が激しく脈撃ち始めるのを感じた。
トールが見えない速さで弾き飛ばされた。一瞬で意識が飛んだ。あんなに素早くて強いのに。それが、その上活性化なんかしたら、誰も敵わないんじゃないのか?
考える俺の前で、テラがまた俺に迫る。黒いモヤが増える。増えて、テラの体が大きくなる。また一歩近付く。
「ゴテラ!」
マージュが悲鳴のような声で叫んだ。
側にハザンも居ない。トールは気絶してる。俺しか居ない。何とかしないといけない。取り敢えず、目を逸らすな、俺。
額から汗が流れる。いつの間にか握り締めていた手の中でも汗が流れる。テラの黒一色の目の中を見る。その中にも、黒いモヤが見えた。
『許さない』
再び頭の中に低い声が響いた。
『・・・テラ・・・』
空の高い所から、高く澄んだ綺麗な声が聞こえた。テラを呼ぶ声。とても小さなその声は、俺にしか聞こえなかったみたいだった。
俺は空を見上げた。




