17、落ちた星の正体
生臭かった。
辺り一面黒ずんだ汚い赤に染まっている。空気も流れず澱んでいて、とにかく酷い匂いだ。立っているだけで戻しそうになる。
「魔物の通り道です。兵達と戦い流れた魔物の血が腐った匂いです」
ナバラ兵を先頭に俺とトールが続き、かなり距離を置いてマージュ達が続く。
「そろそろアキラが言った場所です。この辺りはいつ魔物が出て来てもおかしくありません。ご注意下さい」
緊張した面持ちでトールが言う。と、早速兵達が騒ぎ出した。森側の茂みがざわめき、そこから何かが飛び出して来る。影の数は3つ。横向きの樽みたいなフォルム。弓兵が先に反応し矢を放った。矢が命中し興奮したその影に槍兵が止めを刺し、仕留める。
兵達の計算された連携は隙が無く、日頃の鍛錬の成果を感じさせる。
が・・・。
倒されたその影の正体を見て、俺は眉を顰めた。
イノシシだった。普通の。
「トール」
「はい」
「これ、魔物?」
「まだ普通のイノシシです。イノシシの場合は『悪意』を浴びる迄は動物です」
「・・・」
なんかわかんなくなって来た。
「え、どういう事?これはマモノじゃ無くてケモノだよね?魔物と獣の差って何?」
俺が最初に見た魔物のトカゲは、『悪意』を抜かれて小さくなっても火を吹いた。だから、普通の爬虫類のトカゲとは違うもので、小さくても『魔物』で、活性化したから大きくなって手に負えなくなっていたのかと思っていた。
けれども今目の前で死んだイノシシは、俺が今迄いた向こうの世界でも居る、たまに畑の作物を荒らす害獣の、ごく普通のイノシシだ。
「魔物と普通の生き物との違いは、人が食べられるか食べられないか、です。イノシシは食べられますので生き物です。活性化すると毒を帯びて食べられなくなります。なので魔物です」
毒・・・。
何だその、人間本位の考え方は・・・。
呆れていると、再び茂みがざわざわと動く。また来たか、と思い身構える。同じ光景が繰り返されるかと思ったが、今度は違った。
茂みから樽が飛び出す事はなく、茂みの中で何かが急激に大きく膨らんでいった。風船が膨らむ様に、けれどもそんな軽い物では無い。重く重量のある、黒く、硬い短毛に覆われたガッシリとした体躯。4つ足のはずのその動物が後ろの2本の足で立ち上がる。2つに割れた蹄が伸びて先端が鋭く尖る。
大きな、3mはあろうかと言う程の黒いイノシシだった。
「活性化しました。魔物です」
トールがそう言った時、弓兵の矢が飛ぶ。が、硬い短毛に覆われた体には刺さらない。カスッと弾かれて下に落ちる矢。隊長が何かを指示する。弓兵が違う矢を取り構え、そして放った。1本刺さった。瞬間、咆哮が響いた。
空気が震えた。思わず全身に鳥肌が立つ。ゾワリとした感触が背筋を伝って這い上がり、脳天に達したところで全身の血が下に落ちた様な感覚に襲われる。急激に体が冷たくなり、同時に硬直した。
何だ、動けない・・・。
「失礼」
耳元でトールの声がしたと思うと、思い切り背中の真ん中を叩かれた。体が一瞬浮き上がり、口から臓器が飛び出るかと思った。
「うぉ」
そうは思っても、口から飛び出したのは情けない声だけだった。
「魔物はよく今の様に『咆哮』を使います。使われたと同時に耳抜きをすれば回避出来ますが、喰らってしまったら少しの間動けなくなります。なので、今みたいに背中を押すように叩くと治ります」
「え、いつやるかなんて分かんないよ」
治してもらった事に感謝しつつ、叩かれた背中を撫でながら俺は情けない声を上げた。前では弓兵が展開して3方向から弓を放ち、剣と盾を持った兵が前に出て魔物を押さえ込みつつ、その一歩下がった所から槍兵が長い槍を突き刺そうと狙う。動けなくなったのは俺1人だけだったみたいだ。
「慣れです」
少し笑いながらトールが言った。
・・・そうか・・・。
慣れる前に全てを終わらせて元の世界に帰りたいものだ。
不貞腐れた気分になった時、応戦している魔物の後ろ側の草が揺れた。更にイノシシが2匹現れた。この2匹は魔物にはなっていない。と、その更に後ろの草が揺れる。揺れた所に黒いモヤのようなものが見えたかと思うと、黒い塊がブワッと膨れ上がった。
それは新たな魔物で、キツネみたいな形をしていた。
隊長が指示を出すと、剣盾の兵が二手に別れて魔物をそれぞれに押さえた。弓兵と槍兵が先に普通のイノシシを仕留めて、そしてキツネの方を押さえる剣盾の兵の後ろに回り込んで攻撃を始める。兵達に慌てた様子は無く、魔物が何かをする前に抑え込んでいた。
「流石ナバラ兵ですね、鍛錬が行き届いています」
感心するようにそう言うトール。
「ですが・・・」
眉を顰めながらトールが言った時、奥の茂みが更に揺れた。黒い塊が新たに3つブワッと膨れ上がる。新手だ。
このまま数が増え続けたら対応しきれない。それくらいは素人の俺にも分かる。何とかする為にここに来たのだ。
兵達の間から苦痛の声と断末魔と、隊長の怒号が聞こえる。修羅場になりつつある。
俺は、焦りそうになる心を落ち着けて目を凝らした。
すぐそこで活性化が起こっている。聞いた話だと、人の負の感情に影響を受けて活性化するって事だった。でも、その負の感情を撒き散らしてる人間が居るようには見えない。魔王の存在が活性化を活発にしているというが、それにしてはここだけでピンポイントにポコポコ活性化するのは異常。
ここに、何らかの原因がある筈だ。
俺は前に出た。茂みの奥、そこを調べなくてはならない。そんな気がして仕方がないのだ。
「アキラ、ダメです。危険です」
トールがそう言って俺の肩を掴もうとした。けど、その手をかわして俺は進む。焦ったトールが俺の腕を掴もうとするが、それもサッとかわした。
「・・・えっ・・・」
トールが驚いた声を上げるのが聞こえた。その後も何度かトールは俺を捕まえようとするが、特に抵抗する訳でもないのに俺を捕まえて止める事は出来ないみたいだった。
そのまま取り押さえようとムキになりつつ結局付いて来る形になったトールを従えて俺は進み、そしてナバラ兵達が戦っている裏側に回り込むと、そこに見付けた。
iPadくらいの大きさの、木炭の塊みたいな黒い板が、草を押し分けて落ちていた。それは何秒か間隔を空けて規則正しいペースで振動と停止を繰り返している。通話を受信するスマホみたいに。人工物みたいな動きをするのに、近寄ってみてみるとそれは焼け焦げた木片にしか見えなくて、違和感が半端なく気持ち悪かった。
「何だこれ・・・」
そう呟いてしゃがみ込んでそれを触ろうとすると、草を掻き分けて何かが出て来た。それはバッタ、いやイナゴ?どっちか分からないけどとにかくピョンと飛び跳ねる虫で、そいつは迷う事なく黒い板に乗ると体を震わせて板の振動に身を委ねた。振動、停止、振動、停止、そして3回目の振動に揺すられると、虫は黒いモヤを纏い、そしてピョンと兵達の方に向かうと、途中で膨れ上がる。
活性化したのだ。
「これじゃん・・・」
言いながら人差し指でそれをつつく。コツコツという音がする。単なる板にしか見えなかった。おっかなびっくり指を押し付けてしばらくそのままにしてみた。振動、停止、振動、停止、振動、停止・・・。繰り返しても、俺には何の変化も起こらなかった。
「アキラ?何をしているんですか?」
トールが不思議そうに聞いてくる。
「これが原因みたいだ」
そう言いながら、俺はその板を掴んで持ち上げてみた。思った通りの重さと質感。角度によって光を反射してキラキラする。これが夜空から落ちて来たら、流れ星に見えるだろう。
立ち上がってそれを目線の位置まで上げた。相変わらず震える。違和感が拭えない。
「・・・これ、とは?」
トールの目が、板を突き抜けるようにして俺を見る。俺の顔と、板を掴む俺の手を交互に見て、そして自分の手を伸ばして板に触ろ・・・うとして、そのまま、スカッと突き抜けた・・・?
「は?」
「・・・え?」
お互いに顔を見合わせてしまった。
「アキラ、さっきから何をしているんですか?何も無いようですが」
いやいやいやいや、待て。待ってくれ。
額から汗が噴き出してきた。
俺にしか見えないし、俺にしか触れないのか?
「これ見えないの?トール」
ダメ押しのつもりでトールの顔ギリギリ、目の前に板を突き出す。「何がですか?」と顔を前に出すトールのその顔が、板をすり抜けて俺の顔の前に来る。
・・・何だこれは⁉︎
驚いた時、茂みがガサガサっと激しく揺れ動いた。そしてそこからイノシシがヌッと顔を出す。鼻息荒く辺りを嗅ぎ回すと、板に顔を向け、そして俺に突進して来た。
「ぅわ!来た!」
トールが俺を庇い前に出る。イノシシに向かって短剣を投げた。見事に眉間に命中・・・するも、イノシシはお構い無しにそのまま前進を止めない。
「アキラ、逃げて下さい」
トールがそう言って俺を押した。俺は何歩かタタラを踏むものの、体制を立て直してそのまま走り出す。
俺を庇う様にイノシシの前に立ち塞がるトール。だがしかし・・・、イノシシはトールを避けるように回り込んで、俺目指して一心不乱に走ってくる。アレだ、猪突猛進。
ヤバいヤツじゃんこれ!
思いながら俺は必死で走った。そして走りながら考えた。
イノシシは、この板を追いかけて来てるんだろうな。だから、これさえ無ければ良いんだけど、どしたら良いかな。燃やせないかな・・・。てか空から降って来て燃え残ったから黒焦げなのか。イノシシ早いな。追いつかれそうだヤバいな。えっと、これで活性化するっつー事は、『悪意』やら『負の感情』やらで満ちてるんだろうな。それをどうにかして中和するとかすれば良いのか?中和中和・・・悪意の反対、善意?善意って何だよ・・・。
息が苦しい。ゼェハァ言いながら走って走って、それで急に目の前にマージュ達が見えて俺は急ブレーキを掛けた。
ヤバい、考えながら走ってたから方向間違えた。このまま突っ込んだらマージュが危ない。クソッ!
俺はそのまま180度回転してイノシシに向き直った。
俺が何とかするしか無いじゃん!来い!
俺は気合いを入れてイノシシに対峙する覚悟を決めて、でも板をイノシシからなるべく離すべきだと思って高く掲げた。
その時だった。
空が急に影って、ゴロゴロと鳴ったかと思うと、周囲が一瞬で真っ白になった。同時に音が消えた。
「なっ・・・!」
驚き過ぎて、声も満足に出なかった。
遠くの方から、大人数が足を踏み鳴らす様な振動を感じた。戦闘の気配を察して、ハザン達が駆け付けて来たのかも知れない。
体中が熱かった。ただ熱くて白くて無音で、思考が飛んだ。そして、手の中で板が砕け散った・・・。




