この世界で最初の、辛い思い出。
レントンの神殿に着くと、話はすでに通されていたみたいでそのまま私は礼拝堂へと通された。
「まずは中を開けてみないとね」
神殿ピアノの蓋を開けてみれば、鍵盤に特徴があって驚いた。
私がよく知っている白鍵と黒鍵が逆になっているのだ。
「そう言えば、元の世界でも昔のピアノは白鍵と黒鍵が逆だったのよね」
そんな共通点があることに驚きながらも、私はさらに解体していく。
そうしてアクション部が丸見えになった神殿ピアノを一音一音打鍵していった。
音は狂っていない。けれども、所々深みのない雑な音が聞こえてくる。
長く演奏され続けてきたピアノにある症状だとわかってしまえば、あとは時間がかかってもそこを整えていくだけ。
その作業はとても地味で、一体何をしているのかわからないからかもしれない。
レントンの神殿お抱え調律師であるティムという男がやってくると、そのことを散々なじられた。
「大口をたたいておきながら調律もしないで、一体何をしているんだ」とか「女のくせに調律師を名乗って、訳の分からない作業をしてまやかしだ」とかいろいろ言われたけれど、私はそれを右から左に聞き流すことにした。
だってこの人、耳はいいのかもしれないけれど、他の調律師に敬意をはらわないし、調律の前に必要な整調すらしていないような調律師なんだもの。
でも、あまりにも私が無視し続けているから彼も業を煮やしたんだろう。
「おいお前! 無視をするとはいいご身分だな!」
「いたっ!」
強く肩を握られて私は痛みに顔をしかめた。
「なんだ? そんな薄っぺらい紙を挟み込んで、まじないでもしているのか!?」
ティムのその発言に、私はびっくりした。だって、普通の調律師なら整調がどのような作業を行うかなんて、知っているはずだもの。
この世界の調律師ってどんなレベルの人たちなんだろうって考えたことがあったけど
「何とか言えよ!」
がくがくと肩を揺さぶられて、頭が大きく揺れたせいで被っていたフードがずり落ちてしまった。
「お前、異世界人か?」
「触らないでよ!」
途端に好奇の目を向けられて、私は思わずティムをにらみつけていた。
「その声、女か!? 異世界人だってだけでも腹が立つのによ! 女になんか俺の仕事を奪われてたまるか!」
まさかここまで人間性に問題のある人が神殿ピアノのお抱え調律師をしているなんて、めちゃくちゃやばいんじゃ、って思った。
「アマネに気安く触るな!」
突然、私の背後で怒りの声を上げたのがルートヴィヒだとすぐにわかって、私はあわてて振り向いた。
「ここの神殿ピアノは俺が調律する権利を持ってるんだ! こんな異世界人の女なんかに、まともな調律ができるはずがない!」
「なんだと!?」
ティムがそう言った途端に、ルートヴィヒの顔がものすごい怒りの形相にゆがめられたのを見て、私はあわてて二人の間に割って入った。
「お前のような奴、俺の権限で首にしてやる!」
いち聖楽師に過ぎないルートヴィヒにそんな権限が果たしてあるんだろうかと思ったけれど、今はとにかく邪魔をしてくるこの男がいなくなってくれなければ作業が続けられない。だから私は突っ込まずにうんうんと頷いた。
「そ、そんなこと、ただの聖楽師ができるものか!」
おーおー、口では強がっているけど明らかに動揺している。
「俺はルートヴィヒ・バルテマイ。まさか、バルテマイ公爵家を知らないとは言わせないぞ?」
「っ!」
あー、なるほど。公爵家を名乗れば大体の人はその権威に恐れをなすはずだ。そしてそれは目の前の男にも効いたようで。
「バルテマイ公爵家、だと……くそっ」
シンフォリア王国に置いて、王家の次に権力を持つといわれている家門がバルテマイ公爵家。たとえ次男だとしてもバルテマイ公爵家の令息であるルートヴィヒなら、シンフォリア教団の中でもそこそこの権限を持っていると考えても間違いない。
「アマネの邪魔をすることは許さない」
まるで番犬のように目を光らせて、ルートヴィヒは威嚇するようにティムをにらみつけた。
「くそっ……」
ティムはというと、思ったよりはおとなしく引き下がってくれた。やっぱりバルテマイ公爵家の名前が利いたみたい。
ティムがいなくなったことに詰まっていた息をほっと吐きだす。
「ルートヴィヒ、ありがとう」
ルートヴィヒが助けに入ってくれなければ、ティムに絡まれ続けて整調の時間を奪われただろうし、下手をしたら危害を加えられていたかもしれなかったから、私は素直に彼にお礼を述べた。
「あ、え……ああ……」
けれども、ルートヴィヒは急に顔を赤くして固まってしまって。
なんで急に顔を赤くするのよ。
「じ、時間がもったいないから作業に戻るわ」
ルートヴィヒが顔を赤くしたのがうつっちゃったのか、私の頬も熱くなるのを感じて、慌てて私は彼に背を向けて作業に戻った。
それからは邪魔が入ることもなく、スムーズに整調の作業は進んでいった。
整調ができればもう一度調律で音を整えて、今度は整音。
ハンマーをあまりいじるのはよくないっていう考えの調律師もいるんだけど、人によってはしっかりと手を入れたほうがいい音が鳴り続けるという調律師もいて、この辺りは意見が分かれる。今回に関しては長年ハンマーが放置されていて、すっかりかたくなっているようだから、ハンマーを触ることを選んだ。
アクション部を組みなおして、一音ずつハンマーがしっかりすべての弦に当たっているかを確認する。
そうしてすべてのハンマーの当たりが正常に戻ったことを確かめてから、私は試しに一曲弾いて見ることにした。
調律師の作業がすべて終わってから自分で何か演奏するのは、何も自分の腕をひけらかすためじゃなくてちゃんと調律ができているか確認するため。
曲は……まあ浄化聖曲に似た構成のバロック時代の曲でもチョイスしてみよう。
そうして鍵盤に指を乗せれば、指は半ば勝手に動いてくれる。
うん、鍵盤の重さも、音の立ち上がりも、それから抜け感もいい感じ。ルートヴィヒが試しに弾いてみた時よりも、こもった音が減ったと思う。これなら、彼の奏でる聖楽のイメージに沿った音が出るだろう。
そうやって、私は自分の頭の中にあるルートヴィヒの音をなぞるように演奏をつづけた。
けれども、ところどころで左指がもつれる。特に早い音階部に入ると左指が明らかにもたついてしまって、ルートヴィヒの演奏とは似ても似つかないものになる。
「はぁ……やっぱり駄目ね」
あまりにも聞くに堪えなくて、私は演奏を途中でやめた。
後でルートヴィヒに試し弾きをしてもらえばいい話なのだから、自分が無理して弾く必要ない。
「音がいいのに、左指の訓練が足りていないな」
急に背後から声をかけられて、私は座っていた椅子から数センチ体が浮いた。
「びっ……くりしたぁ。急に声をかけないでよ」
声でそれがルートヴィヒだとわかっていたから、私はわざとらしく驚いたように後ろを振り返った。
「お前、それだけの演奏ができるのに、なぜ左指を鍛えていない」
それはいつもの上から目線で傲慢な男の言葉ではなかった。むしろ、どこか怒っているようなそんな雰囲気の声で。
「別にいいでしょ? 私は調律師であって演奏家ではないんだから」
私は正論を言ってルートヴィヒから視線をそらせた。
「演奏を聴いて思い出した。お前の演奏、一度聞いたことがあるな?」
「え?」
ルートヴィヒの突然の告白に私は驚いて思わず彼を見た。
「1年と少し前。聖女が現れたといううわさが流れて、一人の女性が大神殿に連れてこられた」
ずきん、と胸が痛んだのを感じる。
「大神殿に伝わる伝承通り、黒髪と黒い瞳を持った女性だったことを覚えている。それで、彼女が本当に聖女なのか、神器シュタインウェイを演奏させてみよう、という話になったんだ」
耳元で心臓が動いているかのように、やたらとさっきから鼓動がうるさく聞こえてくる。
まさか、あの時あの場所に、ルートヴィヒがいたなんて気づかなかった。
急に異世界に迷い込んで、かろうじて言葉が通じたからよかったけれど、まったく自分の知っている常識が通じない場所で、私はただ言われるままにピアノを弾いた。
「魅力的な音を奏でるし強い魔力は感じたが、肝心の演奏技術がお粗末すぎて俺はその女性は聖女ではない、と判断した。ほかにも数名の司祭や聖楽師がいたが、みな一様に、彼女は聖女ではないと……」
聖女かもしれないと祭り上げられて、わけのわからないままにピアノを弾いたら聖女ではないといわれて、さらには元の世界にも戻せないと言われて。
しばらくの生活費はくれたけれど、そこから先は自分でなんとか生きろと放置された。
この世界で最初の、辛い思い出。
「そうか……あの時の女性は、アマネ、お前だったんだな」
「そうね。聖女になれなかったあの時の異世界人は私よ」
少し棘のある響きになってしまったのは、私がその時のことをまだ引きずっているからかもしれない。
「まさか調律師になっているとはな」
「もともと私は調律師だったから……。この世界で生きていくために、仕事を探していたら師匠に拾ってもらったの」
頼れるものは何一つなく、行くあてもなく、自力でラウルゴに流れ着いた。それから、師匠に出会えたからよかったものの、下手をしたら野垂れ死んでいたかもしれないと思えば、私はぶるりと身震いした。
「ピアノが弾けるなら聖楽師として生きる道もあっただろう?」
「この世界にきて一年もたっていなかったし、右も左もわからない状況だったのよ? 生きていくことに必死で、そもそも聖楽師になるなんて思いつきもしなかったわ」
だって、ピアニストになることを夢見ていた女子高生がその夢をあきらめて調律師の道を選んだんだもの。異世界に来てもその本質は変わらない。
「そうか」
ルートヴィヒは何か言いたげにしていたけれど、結局それ以上は何も言ってこなかった。
私はこれ以上この話をしたくなくて、私は椅子から立ち上がる。
「あなたが試し弾きして」
「ああ」
ルートヴィヒはピアノの前に立つと、ゆっくりと指を鍵盤に乗せた。そして彼が弾き始めたのは、私がさっき途中まで弾いていたバロック時代の曲だ。
2声の単純な構造とはいえ、1回聞いただけで覚えてしまうなんてすごい。
私は彼の演奏に耳を澄ませた。
明らかに私の演奏よりもいい音が出ていて、しかも速い音階の追いかける旋律も難なく弾きこなす。
「さすがね……」
私がピアノからある程度距離をとりながら拍手を送ると、ルートヴィヒは演奏をやめて私を見た。
「少し左指の訓練をすれば、すぐにこれくらい弾けるはずだ」
「無理よ」
私は思わず左手を強く握りしめていた。
「それよりも、この出来でいいかしら?」
私は話題を変えたくて、ルートヴィヒに質問した。
「ああ、このピアノならいい演奏が出来そうだ」
「よかった」
私がほっとしたように笑うと、ルートヴィヒもぎこちなく笑った。