わかりました! 半年契約を受けます!
工房に戻れば、師匠がにやにやと笑いながら私を出迎えた。
「朝帰りするなんざ、よほどよかったのか?」
「その言い方、セクハラです」
私は目を細めて、師匠を見下すような雰囲気でそう言ってやった。
「セク……? 異世界人はよくわからねぇ言葉を使うなぁ」
「わからないなら、それ以上何も言わないでください」
私は師匠の言葉を遮って、調律道具を入れたかばんを所定の棚の上に置いた。
「そう言えば、昨日の従者が礼金をたんまり持ってきたぞ」
「え! ほんとですか?」
師匠の言葉に私は思わず振り返った。すると師匠はにやっと笑って私に革袋に入ったお金を手渡してくる。そのずっしりとした重みが、報酬の多さを物語っていた。
「お、多すぎません!?」
ひと晩徹夜したとはいえ、一台のグランドピアノを調律した報酬にしては多すぎる。
「中を見てみろ、全部金貨だぞ」
「はぁ!?」
私が慌てて革袋を机の上に置き、袋の紐を解けば中から出てきたのはまばゆい光を放つ金貨がたくさん。
この世界で流通しているお金は銅貨、銀貨、金貨の3種類。平民の暮らしは銅貨と銀貨だけで十分で、金貨は貴族だけが扱うとても高価なものだった。
日本円で言えば1枚10万円くらいの貨幣価値だと思う。それが、手のひらサイズとはいえ革袋の中にぎっしり詰まっているのだから、たぶん20枚は入っていると思う。
「おかしくないですか!? もらい過ぎです!」
「もらい過ぎじゃねぇよ。しばらくの間、巡回演奏のお供をお前がする条件込みで、だ」
「え?」
てっきり調律は終わりで、その報酬だと思っていたから、巡回演奏にお供しろとはどういうことだろう? と私は首を傾げた。
「お前の調律がいたく気にいったようでな、半年契約だ」
「は、半年!?」
確かに昨晩の調律は良かった。確かな手ごたえがあって、私もどんどんテンションが上がって、寝食を忘れてルートヴィヒと二人でピアノの調整に取り組んだ。
あの体験は……もう一度したい。きっと、あの作業は私の目指す調律師に近づくために一番欠かせないものだ。
そのことに私は本能的に気づく。
「各地の神殿のピアノの調律に携われるなんて、そうあることじゃねぇぞ?」
「それは……そうですけど……」
こんな地方都市で貴族からもらう依頼をこなしているだけでは、師匠のような一流の調律師にはなれない。
神殿のピアノという、元の世界でいうフルコンサートグランドピアノに触れるという条件は喉から手が出るほど欲しい好条件だ。
「でも……っ! あいつとはもう二度とかかわりたくないんです!」
私は今朝のキスを思い出し、思わず叫んでいた。
ルートヴィヒは最初から失礼なやつだった。
言葉の端々に私を見下す雰囲気があったし、とにかく偉そうだし、調律を頼んだらお礼にキスしてくるし!
「なんだ? もうケンカしたのか?」
「したんじゃなくて、一方的にされたんです」
師匠がおかしそうに言うから、私は思わず口を尖らせる。
「徹夜の調律のお礼だって、キスしてくるようなやつですよ!?」
「あー……、それは駄目だな。いくら俺でも、さすがにそんな馬鹿なことはしねぇよ」
「ですよね!?」
私は師匠の言葉にうんうん、とうなずいた。やっぱりあんな失礼な男は言語道断だ。
「あいつはそう言うところがあるからなぁ……」
師匠が苦い顔をしながらぽつりとそう呟いて。おや? もしかして、師匠ってルートヴィヒのこと知ってる?
「それは置いても、好条件だとは思うがな? お前はこの世界で何を目指したいっつって俺んとこきたんだ?」
「う……」
師匠の言葉に私は詰まった。
この世界に迷い込んで、いろいろあってこのラウルゴに流れ着いた時。私は師匠が出していた求人を偶然見つけてこの工房に飛び込んだ。
異世界人で訳ありの私を拾ってくれた師匠は、口も態度も悪いけどピアノのことは本当に大事にしていて、師匠の調律する姿に心底ほれ込んだことを思い出す。
師匠のように、何の変哲もないピアノを謳うピアノに生まれ変わらせるような、そんな調律ができるようになりたい。
それが、私がこの世界で目指す夢だった。
「俺はな、お前にはそんじょそこらの調律師程度では終わって欲しくねぇんだ。お前には才能がある。それにこの世界の奴らが忘れてしまった、演奏することの本質をお前は知っている。だから、こんな地方都市にいつまでもいて欲しくないって思ってんだ」
「はい……」
師匠の言葉はずん、と重い石のように私の中に落ちてきた。
「基本はすでに叩き込んだ。だがな、ピアノの調律ってもんは生き物だ。環境と奏者と曲と、いろいろな条件で毎回違う。だからこそ経験がものを言うんだ。わかるな」
「わかります。だから、ルートヴィヒの巡回演奏旅行についていくことは、私にとっては大きなプラスになるんですよね」
師匠がニッと笑って私を見るから、私も覚悟を決めた。
「わかりました! 半年契約を受けます!」
そう答えた私に師匠は満足そうに笑った。
「演奏ってものはな、不思議なことに人間性がくそでもいい音が出ることもあるんだ。こればかりは音楽の神さまの気まぐれってもんよ。だから、ちょっとは目をつぶれ」
そう言いながら師匠は一枚の紙を出してきた。
「契約書だ。ここにサインしろ」
「はい」
師匠が示す契約書に私がサインをすれば、それを師匠は満足そうに眺める。
「これで契約完了だ。お前は半年間、ルートヴィヒ専属のピアノの調律師として同行する」
「はい」
「よかったよかった。この工房もいろんな箇所にガタがきていて、前払いで改修を頼んじまったからなぁ。お前が断ったら費用がだせなかったところだ」
「え……?」
師匠の言葉に私は思わず固まる。
「改修……? 費用?」
「おう、お前がもらった報酬から払ったんだ。金貨10枚返せって言われても、もう返せねぇぜ?」
「ええ!?」
私は思わず叫んだ。
金貨10枚、日本円で約100万円。
それをすでに使い込んだと? その費用はルートヴィヒと一緒に巡回演奏へ行く条件での半年分の前払い報酬の一部ですよね?
「明日の早朝に迎えに来るって言ってたからよ、早く荷造りしねぇと」
「ええええ!?」
まさか今日、明日で出発だなんて。しかも、もうすでにルートヴィヒと師匠の間でそういう話がついているなんて!
「師匠! 私を売ったんですか!?」
「人聞きの悪い。俺は、お前ならできると思ったから送り出してやるんだ。すでに使い込んだ金が返せないからじゃないぞ?」
「しーしょー……」
思わず恨めし気な声が出るけど、師匠はそんな私を無視して椅子から立ち上がると私の頭をポンと叩いた。
「ほら、さっさと荷造りしろ」
「……わかりました」
私はすごすごと自分の仕事部屋へと向い、怒りをぶつけるようにして急いで荷造りを始めた。